戸畑高校同窓会誌寄稿文 『応援歌』
10月8日は母校である福岡県立戸畑高等学校の開校記念日でした。
高校時代には挫折もありました。しかし、暗闇の中にこそ強い光が射すものです。その経験は文化祭での人生初ライブ、そして歌手を目指して上京へとつながる贈り物でもありました。
今年、戸畑高校の同窓会誌への寄稿文をご依頼いただきました。
本来は戸畑高校関係者にしかお読みいただけない寄稿文ですが、関係者のご好意により、こちらでも共有させていただける運びとなりました。
厳しく育まれた戸畑高校での三年間の体験があったからこそ、本当の夢が見つかりました。そして今のぼくがあります。母校に心から感謝しています。
感謝と決意を込めて書き下ろさせていただきました寄稿文を、お楽しみいただければ幸いです。
そして、これからも母校の歴史が未来永劫続いていくことを願っています。
(下記、掲載ページの画像を紹介。読みやすいように文章はそのまま本文に掲載します。)
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戸畑高校同窓会誌寄稿文『応援歌』
54回生 北九州市文化大使 シンガー・ソングライター 冨永裕輔
2002年春、神宮球場で開催された華の早慶戦。私はそのライトスタンドの学生席に居た。
早稲田大学が得点を重ねる度に、スクラムを組み左右に揺れながら声高らかに歌う。早稲田大学応援歌「紺碧の空」だ。
“紺碧の空 仰ぐ日輪 光輝あまねき 伝統のもと”
そのとき私の胸にある光景が蘇ってきた。仲間達と肩を組み我が野球部へ誇らしく声援を送る。そうだ、2000年春の選抜高校野球。私は甲子園のアルプススタンドから、精一杯に戸畑高校野球部に声援を送っていた。そして戸畑高校が得点を挙げると、応援団のリードと吹奏楽部の演奏に合わせて、戸畑高校応援歌をほとんど叫ぶように歌った。
“潮風かおる大玄海 ここ天籟の丘に立つ 雄々し若人意気高し”
私がその光景を思い出したのにはもうひとつの理由があった。
2020年、NHK連続テレビ小説『エール』でも描かれた昭和を代表する作曲家・古関裕而。ご存知の通り、この素晴らしい応援歌はどちらも彼による作品だったのだ。
実は、古関裕而氏が私を戸畑高校に導いたと言っても大袈裟ではない。中学三年生で未だ進路を決めかねていた私が、学校説明会で見た戸畑高校体育大会の映像。今までの人生で見たことがないほどの一体感に圧倒された。私も意気高しの一員になりたくて、戸畑高校への受験を決めた。
在学中、私は居場所や将来に悩んだ時期があった。それは人生で初めての深い挫折のような体験だった。しかし、暗闇にこそ本当の光が射す。二年生時の文化祭でピアノ弾き語りを初披露して浴びた大きな拍手が、やがて歌手の道へと私を東京に駆り立てた。
夢を持てなかった頃の私の成績は学年最下位に近かった。数学の点数が7点だった悪夢には今でもうなされる。朝課外のために企救丘駅6:06発のモノレールに乗り、授業中はいつも眠気と戦っていた。放課後も心の隙間を埋められるものを探すように、戸畑の街をふらふらと彷徨い歩いていた。しかし産まれた理由とも言える歌手という夢に気づかせてもらった私は、なんとか遅れを取り戻そうと一日十時間の受験勉強を続け上京を目指した。未熟な自分はまずは勉学に励んで人生経験を積み、やがて人の心に届く歌を書くべく早稲田大学への進学を決めた。
そして話は冒頭の場面に戻る。私が見つめていた神宮球場のダイヤモンド、その一番高い場所に一際輝きを放つエースピッチャーがいた。後に福岡ソフトバンクホークスで活躍することになる和田毅投手だ。「紺碧の空」を歌いながら私は、勝利のマウンドに立つ和田投手の姿を心に深く刻んでいた。
それから時は流れ、前代未聞のコロナ禍による延期を経て開幕したプロ野球2020年シーズン。和田投手が福岡PayPayドームのマウンドに上がると、その背番号がタイトルの登場曲「21」が流れた。今年私が作詞作曲させていただいた新曲だ。MVでは、福岡PayPayドームでエールを送り歌う私と、和田投手ご本人との共演が実現した。
人生のすべての出来事に意味があり、そのすべてが贈り物だと思う。その時は理由がわからないような悲劇でさえも、最後に喜劇となるための重要な道のりだったことに気づく。導かれるように戸畑高校の門を叩き、そこで挫折と本当の夢に出会った。そしてそこにはいつも応援歌があった。歌う度に友との絆を深め、そして私自身を奮い立たせてくれる応援歌が。
私は今、人の想いを歌にしてつなぐシンガー・ソングライターだと自認している。そして私を戸畑高校に導いてくれた偉大な作曲家が、戸畑高校応援歌に込めた想いを、つないでいく役目もあるのかもしれないと思っている。
人との距離を保たなくてはならない時代になった。そんな時こそ歌が必要ではないだろうか。歌う度に絆が深まり勇気が湧く、あの戸畑高校応援歌のように、だれかの力になれる応援歌を生み出し歌い続けていきたい。
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以上が、寄稿文になります。
改めまして、掲載させていただきありがとうございました。
さて、せっかくなので今夜は寄稿文の当時の年代に沿ったオマケの写真を数枚。
まずは、受験に向けて巻き返しに燃えていた頃の一枚。
当時通っていた予備校の夏合宿に参加して、朝から晩まで逃げ場のない勉強漬けの環境に身を置きました。
これは世界史の暗記のためにパソコンでひたすら一問一答を繰り返していたときの写真です。
早稲田大学の世界史の入試は難関校の中でも特に難問で知られています。
教科書に出てこないようなマニアックな問題も多数。
ルーズベルトの親戚の実家は農場である、みたいな問題もありました。笑
しかし、確実に得点すべき設問で正解を選べたらまずは勝負ができます。
そして、誰も解らないような設問は、最後は運もあります。
一途な努力は、最後に運を左右するように思います。
ぼくも、これはどうしても解りようがないという設問が数問あり、そこは勘で解答しました。
勘と言っても完全に勘では確率が低くなってしまいますので、これはひっかけだなというものは外したり、可能な限り選択肢を少なくした上で、最後の最後で勘に託します。
そのようにして試験後に自己採点したら、なんとか正解を選べていたようでした。
ですが、自分にできる努力はすべてしてきたという精神状態で挑めたからこそ、一か八かの勝負も良いほうに転がってくれたように思います。
1点の中に数百人、数千人がひしめくボーダーラインの争いでした。
その1問がもし不正解だったら、ぼくの人生は大きく変わっていたかもしれません。
これは早稲田大学入学式の日の一枚です。
どの道を歩んでも、結果的には歌手になっていたと思いますし、きっとどこかであなたと出会っていたと思いますが、やはりぼくの人生は戸畑高校から早稲田大学に行けたことで、多くの有難い経験や出会いがあったと思っています。
改めて、長く受け継がれてきた母校の歴史の中で青春を過ごせたことに感謝します。
早稲田大学には一学年一万人の学生がおり、サークルの数は千を超えていました。入学式の日に次々に渡されるサークル勧誘のビラで、すぐにバッグはパンパンになっていました。
歌のサークルと野球サークルに入って青春を過ごすことを決めて上京したぼくですが、100以上ある野球サークルから所属するチームを選ぶため、各チームの新歓練習や新歓コンパ、二子玉川での新歓BBQなどを回りました。
練習に参加するためにもまずが野球用具が必要ですが、ぼくは大切な練習着を持って上京していました。
戸畑高校三年生のときのクラスメイトで野球部の友人N君が、戸畑のネーム入りの練習着をぼくにくれていたのです。
彼は野球部を引退した後、一緒に三萩野バッティングセンターでバッティングを教えてくれたりもした友人です。
ぼくが東京で野球をする夢を伝えていたところ、大切な練習着を託してくれました。
戸高魂(とこうだましい)が刻まれたその練習着を着て、人生初の人工芝のナイター球場で野球をしたときには、心から幸せを感じました。
そこで日本各地から上京してきたユニークな友人たちと出会い、自分の世界が広がっていきました。
ちなみに、のちに甲斐キャノンの名付け親になる福谷記者とも、この頃に上高田の球場で一緒に新歓紅白戦に出場していました。(彼はピッチャーでぼくはサード)
結果的に選んだサークルの決め手は、和気藹々としたアットホームな雰囲気と、試合で着用するユニフォームでした。
早稲田大学野球部に憧れて、野球部の伝統のユニフォームデザインに近いチームに所属し、4年間白球を追いかけました。
都内での練習や試合はもちろんですが、千葉や茨城の海岸沿いの球場、新潟などに合宿で仲間たちとリーグ戦を戦ったことも楽しい思い出です。
今思えば、山梨や群馬にもサークル旅行で訪れていたことを、のちに歌手となって再訪した際に思い出します。
夜は宴会で随分バカもやって盛り上がりました。
若い頃に体育会系のノリを体験できたのも良かったと思います。
こうして当時を振り返ってみると、この道のりだったからこそ生まれた楽曲も今では多数あることを感じます。
野球をする機会ももうほとんどなくなってしまいましたが、またいつか仲間と集まって青空の下で野球ができることを願っています。
それでは、
明日もあなたに良いことがありますように♪
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