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のらねこ、今の中学数学に逆にびっくりする

人類文明は日進月歩。
昨日の常識が今日の非常識となり、明日はもっと変わっていきます。

だとすると、それに合わせて数学の教科書だって、凄い勢いで変化していくんじゃないでしょうか??
科学・文化の発展に合わせて、数学の内容はガラッと変わってる?

はてさて、うちの娘の教科書は、僕らのんときとどう違うんじゃい――?

皆さん、いつもお読みいただきありがとうございます。
もしくは初めての方、久しぶりの方、お読みいただき本当に嬉しいです。
僕は目標管理Webサービス Project Sylphius の開発・運営をしています、TOMCAT HEART の中島です。

上級国民が憎くて憎くて仕方ない。だって自分は低級国民だから、、、
なんて考えている人達に足りないのは、高貴な血でも、生まれついての運でもありません。
“目標管理スキル” です。
目標がきちんと管理されていないから何もできないのだし、目標が管理されてさえいれば、誰でも自分がやりたいことを好きに叶えられるようになるのです。

この のらねこに何ができる? では、目標管理というものがいったい何で、どうやって管理していけばいいのかを理解していただくため、僕が計画して自分で取り組んできた様々なことを、なるだけ面白くお届けするという内容になっております。

現在のシリーズ “のら大人は中学の勉強わかるの?” では、中学校の授業の今と昔を比較し、学びなおし・教養向上のネタなんかにしてただける情報をお届けする内容となっています。
シリーズ第2回は数学です。

全体の執筆計画はこちら:
1. 国語科
2. 数学科(今回)
3. 理科
4. 社会科
5. 英語科
6. 道徳

過去のバックナンバー

1. 数学の教科書の内容は基本的に変化はしない

結論からいうと、数学の教科書は時代が変化しても内容は変わりません。
これは、数学という学問それ自体が、小学1年生から大学生までの全てを貫く巨大な “手続き型知識” を形成しているためです。

手続き型知識ってのは、順番通りじゃないといけない知識のこと。
たとえば “折り鶴の折り方” は手続き型知識です。

折り鶴の折り方には、15だか20だか、紙を折る順番がありますよね。
この順番を、たとえば5番目と6番目を逆にしたりできるでしょうか。

無理ですよね。
折り鶴の手順は、5番目までが正しく完成していることを前提として6番目があるからです。
こういった、順番が大事になる知識のことを “手続き型知識” と呼びます。

反対は “ネットワーク型知識”。
知識1つ1つにはちゃんとつながりはあるけど、だからって別に順番とかは関係ないもの。
たとえば、“哺乳動物の分類” はネットワーク型知識です。

哺乳類には、その内部に霊長類とか偶蹄類とか、細かい分類があるんだけど、でも別に順番とかはありませんよね。
「クジラの話をしたいけど、そのためにはまずカバの話をしなきゃ! 順番守らなきゃ!」とか、そんなことは特にありません。

通常多くの学問は、全体としてネットワーク型知識を形成しています。
ネットワーク型知識には、多少の歯抜けがあっても学習者が混乱しないという特徴があります。

哺乳動物の話をしたい人は、別にあらゆる哺乳動物を知っている必要はありません。
たとえプロであろうとも、1種類か2種類くらい、知らない動物がいたって問題ないのです。
別にプロングホーンという生き物を知らなくても、牛の話をするのに何の支障もありません。

同じように、パースができなくったってプロの漫画家にはなれるし、アリオリを知らない人が料理人になってもいいし、警察官がみんな犯罪心理学者である必要もありません。

でも数学は違います。
数学は、学問全体が巨大な手続き型知識です。

ですので大学1年生が大学の数学問題を解く際には、

小学1年生の知識 ⇒ 小学2年生の知識 ⇒ 小学3年生の知識 ⇒ ...

という感じで、必ず初級の知識から順番に使います。
このことは、数学のプロみたいな人も、どんな人でも同じです。

ですから、小学1年生の段階でつまづいた人は、小学2年生の知識を教えられても理解できません。
小学2年生の教科書には、小学1年生レベルの知識がないと理解できないことしか出てこないのです。

数学がもともとそういう学問であるため、算数・数学の教科書は基本的に順番を入れ替えることができません。
他の学問では、「新しい事実が判明したから、教科書の15ページだけ入れ替えよう」とかできますが、数学はそれ無理です。

数学は学問全体が1つの手続き型知識なので、1ヶ所でも内容を変えると以降の全てが影響を受けてしまいます。
天才数学者のスガーク・バーカーさんが物凄い新発見をして、それを小学生に教えたいからといって、「じゃあ代わりに引き算を削除しよう!」ってわけにはいかんのですよ。
算数・数学の教科書には、基本的に削るところがないのです。

ですから、数学の教科書は、未来永劫ずっとそのままの “はずでした”。

2. 数学は、つまづいた子を待ってくれない

数学は全体が1つの巨大な手続き型知識であるため、基本的に教科書に削る余裕がありません。
1ヶ所でもスキップすると、以降が全て理解不能になってしまいます。

これは逆に言えば、「1度でもつまづくと立ち直れない」のが数学の特徴とも言えます。

数学が好きな人は「そんときは小学1年生まで戻れば理解できるよ!」とか軽く言うし、それ自体はその通りなんだけどさ、、、
それ、次の期末テストまでにやれっての?
むしろあんたはそれできんのかい? 実際にやったことは?

。。。って話ですよ。

とりわけ、テストでいい点を取り続けないと親に怒られるタイプの子供は、1度つまづいたが最後、以降ずっと怒られ続けることが、その時点で確定するんです。
それが数学という学問の特徴です。

これを何とかするには、つまづいた子はレベルを下げてやり直させるという仕組みを、学校自体が持っている必要があります。
でもそれは学校という官僚組織にはできません。

そこで今の中学生の教科書では、やり直しとは違ったアプローチが取られているようです。

3. 内容に改善がないわけでもない

数学の教科書の内容は、内容自体は未来永劫、永久に変わりません。

が、僕らのときと寸分たがわず完全に同じかってぇと、そういうわけでもないようです。
ある程度は、なるだけ生徒がつまづかないような工夫が盛り込まれています。

工夫1. 実生活になぞらえた設問が増えている

まず、たかしくんとかけいたさんといった人物が登場するなどの、実生活になぞらえた設問があきらかに増えています。

かつて、このような “文章に人物が登場する設問” は、実は算数・数学では嫌われて、意図的に避けられていました。
昔の数学では “応用とは、基礎ができてれば必然的にできるもの” と考えられていたからです。

だから、数学知識を生活のどこで活用すべきかなんて教える必要はない、と思われていたのです。

あるいは、ストーリーになぞらえた設問を出すと、そのシチュエーションに合わない子が理解できなくなるとも言われていました。
たとえば設問に男の子を登場させると、女の子が感情移入できなくなって設問が解けなくなる、とかとか。
今となっては、そんな主張しようもんならプチ炎上不回避ですが、昔は本気でそんなこと言う人が(少数ではあるけど)いたのです。

ですがそんな当時にあっても、「数学なんてできても実生活では役に立たない」とも同時に言われていて、それというのも教科書自体が “実生活とは関係のない理論” として語られていたからです。

そんな状況を解消するためか、今の中学の教科書は(多少無理くりではあるものの)実生活になぞらえた内容となっているようです。
設問に人物と状況説明を入れる、挿絵を増やす、実際にありえる状況を例示する。
あるいは、博物館の入館料を計算する問題では、計算とは関係ないと分かってて、あえて人気博物館の写真を添えたりしているみたいです。

以下の設問など、イラストは設問と本当に全く無関係ではあるものの、数学が “現実に利用しうるもの” であることをイメージさせる役に立っています。

無関係なイラストが添えられた設問

工夫2. アウトプットさせる仕組みが増えてる

また、先週の国語に引き続き、数学でも “覚えたものをアウトプットする” という単元が増えているみたいです。
『覚えたことを理論立てて説明しよう』みたいな章があるんです。

こういうの、現代っ子ならではだなって感じします。

理論の説明を求める設問

昔は数学は、先生は教えたら教えっぱなしだったし、「数学は理論を覚えるべきか、公式を暗記すべきか」なんて論争がホントにありました。

言われてみれば、「数学は公式を暗記すれば点が取れる!」なんて言う人、最近見ない気がしますね。
理論を説明させる単元が増えたからかもしれません。

数学が苦手な子とか、こういう発表の類は凄い嫌だとは思うけど、でも1回発表しとくと以降が楽になるからね。
ま、いい仕組みなんじゃないでしょうか。

工夫3. 予習・復習を自己責任にしない

この教科書、娘から借りたんだけど、実はリバーシブルになってるんです。

まず表紙がこちら。

表側の表紙

で、これを見て「みんなで学ぼう編があるのなら、他の編もあるの?」と娘に聞いたところ、なんとびっくり、裏にも表紙が付いてるんでした。

教科書なのにドリルがついていたんです。
聴いたところ、宿題や自己学習などで使うためのものなんだそうな。

僕らの時代、教科書にドリルがくっついてるなんて、絶対ありえませんでしたからね。
こういうドリルの類は親に自費で買ってもらわないといけなかったし、その親が「は? いらんでしょ?」なんて一言でも言おうもんなら、その時点で子供の数学嫌いが確定したものです。

それと比べれば、だいぶ手厚い対応なのではないでしょうか。
もちろん、この程度の工夫では付いてこれない子はこれないでしょうけど、それでも何もないよりは何百倍もマシです。

4. とはいえ目的は取り違えたまま、、、

ただし、日本の数学教育がその発祥当初から目的を取り違えていることは変わっていないようです。

そもそも数学は理論を紐解くための学問のはずです。
「今日、僕はコレとコレとコレを買いたいんだけど、財布のお金は足る?」とか、そういう疑問を解決するためのもの。
そうでしょ?

てことは、それを学ぶにあたって学生は「理論を紐解くのが楽しい」と感じていなければならないわけです。
子供がそう思わなければ、その子の数学脳は育ちようがありません。

もちろん、全ての子供が同じように育つ必要は特にないのですけど、だからといって “たまたま出来の良かった子だけ熱心に指導する” という現状のやり方では、数学嫌いが増えるのは致し方ないことといえるでしょう。
今の日本の数学教育は、基本的に子供を使い捨てているのと同じなのです。
(日本に限らず、数学教育のレベルの低い国はみんな同じですが)

そんな授業を何十年も続けるくらいなら、代わりにクイズ番組でも見せた方がナンボかマシってものでしょう。
難しくてよく分からない授業を聞かされるのと、楽しいクイズを考えるの、理論を紐解く感覚はどっちの方が育つかってぇと、絶対にクイズ番組です。

だから結論として、数学の教科書はまだまだ全然ダメダメ。

ですがそうはいっても改善は確かにしており、僕らの時代と比べてかなりマシにはなっています。
まだまだ先は長いでしょうけど、“読んでて楽しい教科書” という理想には、ちゃんと近づいてはいるようです。

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ここまでお読みいただきありがとうございました。
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