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のら努力家は日本語わかる?(9)のらねこ、がんばるのが嫌いなんて間違っている

本当にごくごくたまになんですが、「努力という言葉が嫌い。なんなら辞書から消してもいいと思う」という人を見かけることがあります。
でも中身を見ると、根拠として「そんな無理をしなくれも、好きならちゃんと頑張れるはず」とおっしゃるケースが多いですね。

。。。いやいやいやいや笑
待って。ねぇ、ちょっと待って?
努力って言葉、いつ “無理をすること” って意味になったの?
辞書ちゃんと調べた?
、、、て思いません?

皆さんこんにちは。
もしくは初めて見つけてくださった方、本当にありがとうございます。

僕は目標管理アプリ Project Sylphius の開発・運営をしております、TOMCAT HEART の中島といいます。
当コラム のらねこに何ができる? では、幸せになるために頑張ってるはずなのに全く報われないし、いつもいっぱいいっぱいカツカツという人達に、正しい目標管理のやり方を覚えればちゃんと報われる努力ができるようになるよという主旨のことを、なるだけ面白くお伝えする内容となっております。

現在は “のら努力家は日本語わかる?” と題し、意味を間違うと人生設計そのものが狂ってしまう怖い言葉があって、そういう言葉を間違ったままでいるとどうなるのか、あるい正しくはどう解釈すべきなのか等について連載しています。

全体の執筆計画はこちら:
1. “正しい”ってどういうこと?
2. “責任を果たす”って何をすること?
3. “特技”を聞かれたら何を答えればいいの?
4. “やる気”や“愛”の大きさを数値で計る方法
5. “ちゃんとやる”って、何を?
6. “ちょっと考えれば分かる”って本当?
7. “最優先の業務”よりも大切な仕事
8. “休む”って何をやること?
9. “努力”という言葉が嫌いだなんて絶対おかしい(今回)
10. PDCAとかOODAとか、考えすぎじゃない?

バックナンバーもありますのでこちらからどうぞ。

1. 努力という言葉が嫌いな人は、100%意味を間違っている

もちろん嫌いなのは嫌いで仕方ないんだけど、でも僕としては、そういう人は100%意味を間違っていると断言できます。

なぜなら、goo辞書 によると、“努力” とは以下のような意味だからです。

[名](スル)ある目的のために力を尽くして励むこと。
「―が実る」「たゆまず―する」「―家」

まず第1に、上記の意味には無理をするという意図は含まれません。
努力という言葉を “無理をすること” と捉えている人は、ようするにただの思い込みです。

だってそんなこと一言も書いてないよね?

もちろん思い込みなら思い込みで、思い込むだけの事情(後述)はあったんでしょうし、それは分かります。
また、人間ときには無理しなきゃいけないときも確かにあります。
それは間違いありません。

でもだからって、無理をしなければ努力じゃないなんて理屈にもなりませんよね

また、上記の辞書(に限らず通常多くの国語辞書)の記述に不足があって、その記述不足が多くの誤解を生みだした一面はあると思っています。

“ある目的のために力を尽くして励むこと。”

日本人の性格的な特性なのか何なのか、この尽くすという言葉を “物理的に可能なかぎり、どこまでも無限に労力をつぎ込むこと” と解釈する人が多いです。
じゃなくて、ある目的のためになのだから、つぎ込む労力はその目的の達成のために必要な量だけに決まってますよね。
それを超えて無限に頑張るという意味では絶対ないです。

それとある目的のためにという書き方も微妙で、努力の定義が間違ってる人はほぼ100% “誰の目的か” を意識してません。

努力って誰のためにやるの???
そんなの “自分のため” に決まってるでしょ??
個人的に周囲の人達を観察したかぎりだと、努力が嫌いな人はだいたい自分の気持ちをほったらかしにして無理をする傾向があるし、かつ感謝してくれない人に無限に労力をつぎ込む傾向もあります。

そんな人達に、上記の定義をもっと分かりやすく言い換えますね。
努力ってのはね、

やると嬉しいことがあるから、その手前で我慢すること

です。
努力という言葉が正しく使われている状況では、この解釈が成立しなかったことは日本語史上1度もないはずです。
この定義はあくまで僕が考えたものだけど、でも断言してもいい。

2. 努力が間違って解釈される社会構造

ただし、親とかに「もっと努力しなさい!」と怒られて、それで嫌だなと思った人の気持ち自体はよく分かります。
まぁ、うちもそういう家だったからね。

でもよく見たらこの「もっと努力しなさい」って言葉、主語が抜けてるじゃん?
てことは、このとき親さんは「私のために頑張りなさい」って怒ってることになっちゃうんじゃない?
そんなの、嫌に決まってるじゃん!

もちろん怒ってる親本人は絶対そんなつもりじゃないと思うけど、言われた子供はそういうふうに解釈してしまうものです。
正しく解釈しようがない言葉を正しく解釈しろっつったって、そんなの無理なものは無理。

でも言われた側も本当は、努力は自分のためにやることだって、知識としては分かってはいます。
だから 今を楽しみたい言われて頑張るなんて嫌 という2つの感情から悩むわけ。

で、その 悩み それ自体が、そっくりそのままその人の中で努力の意味になっちゃうわけです。
国語辞書で1度も確認しないままね。
だから努力の意味を間違って覚えちゃうわけよ。

3. 努力とは、やって嬉しいことがあるからやる

自分の身に嬉しいことあるのが嫌いなんて人、絶対いるわけありませんよね。
仮にいるとしたら、それはそれでそういう心の病気でしょう。
(不安障害の一種でそういう症状は存在します)

それを前提としたうえで、努力というのはやると嬉しいことがあるから、その手前で我慢することなわけです。
ゆえに理屈の上では、努力が嫌いな人は理論上存在しないことになります。

ただしもちろん、つぎ込む努力量が得られる喜びの大きさに見合っていることもポイントになります。

努力の解釈が間違ってる人は、小さな喜びにも命を削って無限に労力をつぎ込むことだと思い込んでいる傾向があり、だから努力が嫌になるんです。
努力をそんなふうに思っていたら、ブラック企業からいいカモにされるだけです。

また、努力とは「ここで我慢すれば後で嬉しいことがある」と思ったらやればいいことなわけです。
だから我慢して良いことが何もないなら、その我慢はしなくてもいい我慢なんのです。
(もちろん、良いことが本当に絶対ないのなら、だけどね)

世の中にはたしかに 良いことがなくても我慢しなきゃいけない とされている状況自体はあります。

でもそれは、どんなことがあるのかを、本人が正確に理解できていないだけです。
世の中のどんな我慢にも、当たり前の我慢には必ず良いことがワンセットで付いてくるものなんです。

4. 我慢すると起こる良いこと

1. 信号無視を我慢すると起こる良いこと

たとえばですが、一般に “どんなに急いでいても、信号無視はよくない” とされています。
信号を無視しないよう、道を渡らず我慢することが正しいとされているのです。

通常多くの状況では、この我慢によって起こるいいことは命が助かることです。
自分の命を守るためであれば、ほんの1分くらいの我慢は多くの人にとって造作もないでしょう。
なんせ車がビュンビュン通りすぎていることが、一目瞭然で分かるからです。

だとすると車が1台も通っていない無人の道路では、渡らずに我慢することに意味はないのでしょうか。

いいえ。
たとえ誰もいなくても、信号を渡らずに我慢すれば “自分は我慢ができる人間だ” という自己認識を作ることができます。
ですので、信号無視をしないことは、周囲に誰もいなくても意味があります。
(ただしこの我慢は、我慢強い人を馬鹿にする人が周囲にいる場合、やる意味がないかもしれません)

2. 勉強すると起こる良いこと

それから、子供はよく “我慢して勉強して何の意味があるんだろう?” とよく疑問に持つでしょう。
僕自身、上の子と下の子の両方から、各2回ずつくらい質問されました。

そのとき僕は、いずれの場合も「自分が楽しむため」と答えています。
だって、やりたくてもできなかったことが、実際にできるようになるって純粋に楽しいでしょう?
そんなの当たり前です。
分かりたくても理解できなかったことが理解できるようになるのは、純粋に楽しいことなんです。

また、理解できる範囲の広い人は、相応に仕事を自由に選べるようになります
自分がやりたい仕事が好きに選べるって幸せですよね。
(ですから、親に「普通の仕事に就きなさい」「まともな商売をしなさい」「医者になりなさい」などと将来を押しつけられている人は、我慢して勉強してもいいことなんかないわけです。自分で仕事を選びたいから我慢するはずのものが、親に勝手に決められちゃったら勉強やる意味なくなっちゃいますからね)

だから勉強するんです。

3. やりたくない仕事を渋々引き受けると起こる良いこと

社会人の方は、本当はやりたくない仕事を仕方なく引き受けること、あると思います。
そういうとき、何の意味があるんだろうって疑問に思いながらやりますよね。
本来の自分の担当範囲でもないのに。

ですが、そのような仕事をやると、周囲の人に良い人と認識してもらえるというメリットがあります。
というより、自分の担当範囲外の仕事を手伝うメリットなんかそれしかないです。
そうして様々な人の仕事を手伝っているうちに、社内でのあなたの評価が良い人から徐々に凄い人に変わっていきます。

ですので、人を利用するだけ利用して感謝もしない人や、がんばっても評価を上げてくれない上司などのためにがんばるのは意味がありません。
努力ってのは、やると良いことがあるからやるんです。
なので、良いことがないならがんばる意味もないわけです。

逆に言えば、努力というのはやったら報われると分かってることや、少なくとも報われる可能性がそれなりにあることをやるのも大事になります。
報われない努力なんかいくらやったって、報われないものは報われないですからね。

やって報われるかどうか分からないなら、少なくとも可能性があるかどうかくらいは先に調べておくべきだし、報われないと分かってることをがんばることを、僕は努力とは思いません。
そういう、がんばっても報われない努力のことを一般には 無駄な努力 といいますが、僕は個人的に “奴隷労働” とも呼んでいます。

だってその通りでしょ?

5. 努力が嫌いな人に欠けている視点

努力とは、やって良いことがあるからやるんです。
やれば良いことがあるんだから、手前で我慢するのは仕方がないのです。

ただし、このことを考える際には1つ注意点があって、それは世の中の努力は、その目標が高ければ高いほど難易度が上がることです。
たとえばこんな↓感じ。

- 絵が描けるようになりたい
 ⇒ 難易度:≪低の低≫
- 自分の食事を自分で作れるようになりたい
 ⇒ 難易度: ≪低≫
- 仕事をして月額に4万円稼ぎたい
 ⇒ 難易度:≪中の低≫
- 専業主婦の嫁さんを養いたい
 ⇒ 難易度:≪中の高≫
- プロのような稼げる絵が描けるようになりたい
 ⇒ 難易度:≪高≫
- 世界的スーパースターになりたい
 ⇒ 難易度:≪高の高≫

ね?
世の中の努力は、難しいものほどより強い我慢を強いられるものなんです。

努力が嫌いな人は、この理屈を無視する傾向があります
めちゃくちゃ小さな目標のために多大な我慢をしてしまったり、あるいは逆にめちゃくちゃ高い目標を小さな我慢で叶えようとしたりします。

上司から軽い嫌味を言われないようにするだけのためにプライベートを大幅に犠牲にしてサービス残業したり、
あるいは世界的なイラストレーターになりたいという夢を3ヶ月くらいで簡単にあきらめたり。
そういう極端なことをしてしまうんです。

なおかつ、そのように考えることを当たり前と捉える傾向もあります。

我慢は “すると得られる良いこと” の大きさに見合うものでなければいけません。
努力とは、“釣り合う喜び” があるからこそやる意味があるのであって、間違いなく等価交換の原則が適用されます。

上司に嫌味を言われるためではなく、次回の人事査定で莫大な高評価を得られる確証があるのなら、残業もやる価値はあるでしょう。
ですが通常多くの企業では、サービス残業なんかやっても人事考課をプラス査定したりしませんよね。
なので現在の努力量が得られる喜びと釣り合わないなら、努力の質を落とすまたはより大きな喜びを見出すか、少なくともどっちかはしなきゃいけないのです。

また世界的に有名なイラストレーターになるためには、少なくとも20年30年の我慢が必要で、3ヶ月は無理です。
その場合は喜びの大きさに合わせて、努力の質や量を増やさなければいけません。

やれば釣り合う喜びがあって、そのための労力が十分に手に負えて、がんばらない理由が本当に一切なに1つないのであれば、それを「だが断る!」なんて、そんな変な人絶対いないです。
人間は釣り合う喜びがあると分かっていれば努力ができる生き物です。

ゆえに結論として、努力という言葉が嫌いな人は、
絶対に何かが間違ってるのです。

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ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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