のらねこ、感動したいのにできない
絶景の景色、感動する映画、結婚式、卒業式などなどなど。
「こういうとき普通は感動するもんなんだろうな」ってものがありますが、世の中にはそういったもので感動することをカッコ悪いと、なぜか思い込んでいる人がいます。
そういう人はお涙頂戴の映画などを見ても、「無理やり感動させられた」とか珍妙なことを言って、映画製作者対して腹を立てたり。
もしくは逆に、何事にも感動しない、心が動かない、動じないことを、正しくカッコいいことだと思っている人もいます。
でも実は、感情が正しく動かないことが列記とした “病気” なんだとしたら?
その線引きはどこで、治したいときはどうしたらいいのでしょう――?
皆さま、いつもお読みいただきありがとうございます。
もしくは初めて見つけてくださった方、久しぶりの方もありがとうございます。
僕は目標管理Webサービス Project Sylphius の開発・運営をしています、TOMCAT HEART の中島です。
世の中は辛く、苦しむのが当たり前、そして報われないのも当たり前。
普段からそう考えがちな人に足りないのは、幸運でしょうか?
いいえ、そんな人に足りないのは、“目標管理スキル” です。
目標管理スキルさえあれば、自分がやりたいことを何でも自分で叶えられるようになります。
“ちゃんと達成できる、ツラくない努力” ができるようになるからです。
だったら目標管理なんてどうやればいいのか。
この のらねこに何ができる? では、それをお伝えするために、僕自身が計画して僕自身が実践してきたことを、なるだけ面白くお読みいただく記事にしてお届けする趣旨となっております。
今回は “のら医者に発達障害が治せる?” の最終回。
数ある心の病気の中で最も根本的で、かつ最も軽視されがちな病気。
≪無感動症≫について。
**!!注意!!**
当シリーズは、医学的に正しい理論を紹介するものではない点にご注意ください。
あくまで、効果があったと僕自身が感じたものを一例として紹介する内容です。
1. 必要な感情が動かない病気: 無感動症
無感動症とは、感情が動く必要があるとき、それが巧く動かない病気です。
もしくは逆に、普段からあんまり感情がない生活を続けた結果、何かの拍子に急激に怒る、急に泣く、急に鬱になる、急に新しい趣味にハマりだす等の爆発を起こすケースも含みます。
もちろん誰にも迷惑をかけてなければ個性の問題でいいのですが――
心が動かないゆえの、周囲を白けさせる発言が多い
その結果友達が減る
感情を爆発させて周囲を困らせる
無計画に散財する
心の病気になる
このような、個性の問題では片付かない突飛な行動が出てしまうようであれば、それはさすがに対処せざるをえません。
ですが通常、無感動症には自覚症状がありません。
たとえば映画に感動できない人は「自分は映画に感動できない性格であり」「なぜなら映画があまり好きではないからだ」と認識してることも多いです。
でも実際には、それらのうち比較的多くが、無感動症という列記とした病気です。
なぜなら、人間というのは互いに感情を共有しあってコミュニケーションをする生き物だからです。
映画はそもそも感情を動かすために作られているものであって、それを見て “何も感じない” というのでは、(作品との)コミュニケーションをそもそも拒否しているとしか考えられません。
コミュニケーションの拒否癖がついてしまっているようでは、他者と正しい関係を作っていくこともできないでしょう。
ですから無感動症は、他者との感情共有・コミュニケーションができない点において、一般に思われているよりも重い病気なのです。
ただし1つだけ幸いなのは、無感動症は脳内のたった1つの部位が正常動作しないことによって起こることです。
一般に “あまり感動というものをしない性格” といえば、様々な判断を総合的にしたうえで、「感動すべきでないと自分で判断している」と考えられがちですが、これは違います。
感動すべきかどうかの判断は、脳内にある “扁桃体” という部位1ヶ所のみで行われています。
この器官が誤動作した結果、それ以降の全ての判断を誤ってしまう。
無感動症はそういう病気です。
たった1つの器官の誤動作であるがゆえに、無感動症は “感動できない” という症状以外にも、他の様々な場面でも支障をきたしていることが多いです。
多くの人が泣く場面で感動できないという症状が、もし単に感動映画で感動できないだけで他に一切の支障がないなら、これは問題ありません。
感動映画は泣く義務のない余暇的な楽しみにすぎないからです。
ですが実際には、感動映画を見ても感動できない人の多くは、他人と感情を共有できない(または、しづらい)という症状を持っていることも多いものです。
具体的には、
会話のイントネーションから他人の感情を推測できない
周囲の人が何かを嫌がるとき、その理由が分からないと感じる
周囲の人が何かを楽しんでいるとき、一緒に楽しめない
周囲の人の行動について「何がしたいのかよく分からない」とよく思う
このような症状が出ることによって、無感動症は様々な人間関係トラブルを招きます。
症状が比較的軽い場合、細かいところでたまに小さなトラブルが起きる程度でしょう。
これはあくまで個人的な観察によるものですが、世の中の無感動症の人の多くは 軽度 です。
軽度の場合の日常的な問題は、多少会話が嚙み合わないこと。
会話が苦手になる傾向がある
仕事の打ち合わせが苦手で、結果として出世に支障をきたす
何事も楽しめず、世の中がツマラナイと感じる
まぁ、これくらいの問題で済みます。
で、これを見て「それってただの個性では、、、?」と思った方。
もちろん、自他共に害がなければおっしゃる通りで、害がないのならただの個性と捉えて構いません。
人生に何の楽しみも見いだせないという実害がすでに出ていることを、本当に「何の害もない」と呼ぶのなら、ですけど。
ですが中度・重度と徐々に重くなってくると、周囲の人々の感情が読めないことによって、他の様々な問題を起こすことになります。
冗談が通じず、冗談を極端に嫌う
もしくは場にそぐわない冗談を平気で言う場のルールが理解できず、不相応な行動をとってしまう
自分がハラスメントしたことに気づけない(=相手が嫌がっていても感情が読めない)
他者をコントロールするために暴力を使う
会話の理解が苦手になる
その結果、相手の文法的な誤りに対し、無為な指摘を頻繁に行う
また、たとえ軽度の人であっても、このような重度症状の行動を『高ストレス状況では』『ついうっかりで』やってしまうかもしれません。
なので、感動映画に対して感情が何も動かないのは、意外に大きなトラブルの種になりうるのです。
2. 無感動症の原因
1. 根本原因は扁桃体の不活性
先ほど、無感動症は扁桃体の異常だと記述しましたが、こいつは脳内器官の1つです。
役割としては、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)からの情報が一時的に集約される箇所で、本来はその情報の有害/有益を、1か0かで判断する場所です。
哺乳動物・鳥類の扁桃体は、情報が ≪有害≫ なのか ≪有益≫ なのかを区別することができます。
対して原始的な生き物(昆虫など)は、≪有害かどうか≫ のみ判断します。
これは、昆虫には「怖い」という感情はあっても、「楽しい」という感情は存在しないことを示します。
(ちょっと可哀想ね🥲)
哺乳類のうち、さらに発達した生き物だけが
≪有益≫ ≪有害≫ ≪無害≫ ≪それ以外のゴミ≫
という複雑な情報の分け方をします。
(普通の哺乳類は ≪有益≫ ≪有害≫ の2種なので、そのさらに倍)
このような複雑な分類ができる高度な扁桃体を持つのは、個人的に知る範囲だと 霊長類、犬・猫類、一部の大型哺乳類(象、鯨)など数類のみです。
んで――。
人間は無感動症になると、本来 ≪有益≫ ≪有害≫ ≪無害≫ のどれかに分類されるべき情報が、全て ≪それ以外のゴミ≫ に分類されるようになります。
感動映画で感動するシーンに出くわしても、本来は「楽しく、よいものだ」と判断されるべき情報が、ゴミ情報として捨てられてしまうのです。
それゆえに本来必要な場面で感情が動かなくなり、それが重度になるとコミュニティに支障をきたすわけです。
2. 無感動症になるきっかけの例: イジメに遭う
多くの場合、人が無感動症になる原因は “イジメ” です。
虐めに遭っても、それに対する反撃を封じられたとき、人は自身の心を守るための手段として自ら無感動症になります。
ただしここでいうイジメとは、狭義のイジメ(同年代の子供同士のイジメ)だけではなく、風習を盾に大人が子供に難癖をつけるといったケースも含まれます。
ルールだからとできないことを強要する、ルールだからといって理解を強要する、などです。
具体的には、
宿題ができない生徒に、方法を教えないまま強く強要しすぎる
挨拶ができない生徒に、何の指導もなく強要だけを行う
守る意味のない校則を、守る意味を説明せずに守るよう強要する
特定の生徒にだけ差別的な厳しい指導を行う(お世話係の強要等)
こういった行為の一部は正当な指導の一環として行われていることも多いですが、実際には列記とした “大人からの虐め” です。
無感動症の人から見て、感動を強要する行為が虐めのように写るのは、ルールを無理やり押しつけられてきた歴史がその人にあるからです。
また言うまでもなく、『暴力・暴言・嫌味等を用いた感情論的なマネジメントを行う』といった、大人から大人へのイジメも全く同じです。
3. 無感動症の治し方
無感動症は、人間としてのかなり根本的な問題であるゆえに、対処に必要な期間はそこそこ長くなります。
ですがそれでも、一生をかけてでも治す価値のあるものです。
無感動症は、つきつめればつまり生きることを楽しめない病気であって、生きることを楽しむのは人間としての当然の権利だからです。
STEP1. イジメかどうかを客観的に判断できるようになる
無感動症の人は、広義の意味でのあらゆる状況をストレスと感じます。
たとえば 遅刻をしてはいけない というルールを強要されたとして、それが自分には難しいとき、「相手が自分に害意を持ってるから、そんなことを強要するのだ」と捉える傾向があるんです。
そして最終的には、自分に都合の悪いことは何でも「相手がこちらに害意を持ってるのだ」と捉え始めます。
これを「環境的にやむをえないことであり、決してイジメではない」と分析できるようになるのが第1歩です。
あるいは逆に、害意と判断しているのに、感覚自体は鈍くなることも無感動症の特徴といえるでしょう。
遅刻ルールの場合でいうと、1分 1秒 といったあまりに細かすぎる管理をやりたがる人がいますが、これは社会のルールを盾にしてるだけの
“列記としたイジメ行為”
です。
(同じ理屈で、ブラック校則のような有益な効果のないルールも、やっぱりイジメであるということができます)
これらを「イジメはイジメ」と正しく認識できるようになることが重要です。
本来、人が無感動症になるのは、こういったことをする人々から自分の心を守るためです。
でもだからといって、防御に徹しているだけではサンドバッグにされるだけです。
害意があるように見えるとき、それが本当に害意なのか判断できるようになる
害意が隠れているとき、そこに害意があることを見抜けるようになる
無感動症の治療には、この2つの能力を伸ばそうとする意識が重要です。
でも多くの人にとって、これはかなり難しいと思います。
僕自身、そういう認識が持てるようになるまでには、数年以上の時間がかかっています。
でも、次の STEP2. へ進むためには、たとえ数十年かけてでも取り組む意義があります。
STEP2. イジメのない環境に身を置く
STEP1. も十分に時間がかかるでしょうが、人によってはこの STEP2. も相当な時間を要すかもしれません。
なんせ無感動症は人として根本的な病気だからです。
この STEP2. のポイントは、メンドクサイ人との関係を絶つことにあります。
自分をイジメてくるのは、本質的にイジメが好きな人ではなく、メンドクサイ人だからです。
それは近所づきあい・親族づきあいの問題かもしれないし、転職の問題かもしれませんが、そういう人と縁を切ることが重要です。
つまり、『具体的に誰との縁を切るか』を『正しく判断できるようになる』ために、まず先に STEP1. に取り組んだわけです。
会社のルールを盾にしたイジメが横行しているようなら、そんな会社はさっさと辞めることが大事。
一般常識を盾にイジメをしてくるような親族・友達なら、関係を絶つ。
ですが、関係を切るべきでない人との関係は、きちんと対話をして維持する。
誰でもかれでもやたらめったらに関係を切ればいいわけではないですから、その手前での判断も重要で、そのための STEP1. でもあるのです。
で、関係を絶つと決めたら、そんときはさっさとやる、と。
STEP2. の注意点(子供の場合)
ただしこのとき、未成年の場合、この STEP2. は本当に難しいのが現状です。
転校するにも親を説得する必要があるし、その親自身がイジメの元凶であるケースもあり、その場合は親戚の家に身を寄せるなども必要かもしれません。
もしくは親を含めた親族一同全員がイジメの元凶になっている人も、世の中にはいます。
そのような場合、頼れそうな人が見つかるまで探し続けることが重要です。
無感動症は、無感動症になるような環境に身を置いたことによってなるので、それを治すということは、幸せに暮らせる環境をがんばって探すことに等しいことです。
また全ての大人は、“子供は大人からのイジメから逃げる手段がほとんどない” ことを、もっともっときちんと実感していくべきです。
「ブラック校則だって校則だから守るべき」とかバカなことホザいてないで、ブラック校則は列記としたイジメだということをもっと認識すべきです。
ブラック校則を肯定する先生の中には、子供をイジメたいがために先生になる道を選んだ人だって実際いるんです。
子供がイジメから逃れる最善策は、イジメのない環境に身を置くことです。
である以上、その子が『頼れそうな人を探した結果、犯罪者に行き着いてしまう』ことは、なんとかして避けなければいけません。
これは周囲の大人の役割です。
大人からの子供へのイジメをどうやって防いでいくかは、他の社会問題と比べても圧倒的に難しいものであり、決して本人の自己責任に任せてよいものではないのです。
STEP3. 感情を動かす訓練をする
さて、ここまでくれば、この STEP3. は本当に簡単です。
ですが無感動症の状態だと、これも最初は難しく感じるでしょう。
最後は、自分の感情を正しく動かす訓練です。
綺麗なものを綺麗と思う
美しいものを美しいと思う
幸せであることを幸せだと感じる
もし、あなたが少しでも無感動症であれば、上記のことを「恥ずかしい」「子供じみている」「自分には似合わない」あるいは単に「やりたくない」と感じるはずです。
でもこれが最後の関門です。
これを乗り越えたとき、自分が人生の勝ち組であるような気がしてくると思います。
なぜなら無感動症を治療することは、幸せに暮らせる環境を自らの努力で作り出すことだからです。
もともと生まれながら幸せだった人なんて比べ物になりません。
まさしく “偉業” です。
ですから、無感動症の治療は一生をかけてでもやる価値があるのです。
はい、てなわけで、
10回に渡った “のら医者に発達障害が治せる?” も、これにて終了です。
次回はまた別のシリーズをやっていきたいと思っています。
そういえば娘と話していて思ったんですけど、最近の小中学校って、僕らが学生だったときと比べて授業内容もだいぶ変わってますよね。
話してて「最近はそうなんだー」って思うこともけっこうあります。
そこで次回からは、授業内容の今昔。
日本の授業内容は昔と比べてどう変わったのか、難しくなったのか、簡単になったのか。
そのあたりを調べていきたいと思っています。
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