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三浦綾子・不条理の中に描く希望

 時間を忘れさせるストーリーと、あまりにも重い読後感。でもその中に希望がしっかりと埋め込まれている。人間の本質を問うとともに、その本質を当然のものとしないための力をくれた。本って、小説って、こんなに意味があったんだ…。

 九州旅行の帰り道、北九州・小倉で手に取った一冊のハードカバー。千葉までの6時間は、その本に見事に吸い込まれていった。分量としては文庫本3冊はあろうかという長編だが、その物語の魅力は本をほとんど読まなかった私でも、引き付けられるに余りあるものだった。

 その小説は三浦綾子の『天北原野』。北海道が舞台の小説である。
 天北原野とは、北海道の北部・宗谷地方の一帯を指す。そのタイトルの通り、道北と樺太(現サハリン)の戦前~戦後を舞台としている。
 ストーリーはというと、人間の不条理がこれでもかと詰め込まれたものである。婚約を済ませた一組のカップルが、樺太への単身赴任により離れ離れに。その隙を突く形で思いを隠し持っていた人物が、残された女性を強引に妻とし、それを知った単身赴任中の男性は捨てきれぬ思いを胸に別の女性と結婚。戦争や樺太撤退という目まぐるしい社会変化の中で二人をとりまく数々の死や別れ、不条理の中に、かつてのカップルは誤解や罪について自覚していく…というもの。嫉妬・憎悪…あらゆる人間の本質が生々しく描かれるので、軽々しくお勧めはできない(私は新幹線の中で吐き気がした。乗り物酔いではない)。
 それでも魅力があると思うのはなぜか。きょうは私が好きな三浦綾子の魅力を自分なりに整理するのも兼ねて、三浦の本を通して考えたことをまとめてみたい。

三浦綾子の生涯

 1922年、北海道旭川生まれ。軍国主義下で教師として子どもたちに教えた内容が戦後に悉く否定され、教職を辞す。その直後脊椎カリエスとなり十年余り身動きが取れない寝たきり生活を送る。絶望から自暴自棄になり、果てには二重婚約まで至る。その中で同病の友・前川正に出会い、その言葉に徐々に前向きな気持ちを取り戻していく。
 しかしその矢先、前川は脊椎カリエスで死去。一方で三浦は完治。人徳のある前川が死去し荒んだ三浦が生き残ったことに、生前前川から伝えられたキリスト教の物語が重なり、信者となる。
 この内容は自伝『道ありき』に詳しい。壮絶で厳しい半生が、三浦綾子の描くストーリーに大きな影響を与えている。

三浦が常に描いているもの

人はなぜ、他者を傷つけずに生きることができないのか?
酷寒の北国を舞台に、ヒロイン貴乃の起伏に富んだ生涯を通じて、
人生の不条理を問う大河小説。

三浦綾子『天北原野』(主婦の友社,1989)
新装愛蔵版・帯のキャッチコピー

 これは、冒頭に触れた『天北原野』を、小倉の古本屋で手に取った際についていた帯の宣伝文句である。道北との個人的なつながりからタイトルに興味を持ち本を手に取った後、レジに持っていくことを決めたのはこの帯を見たから。まさに三浦の本と出会った原点である。ここにある「人はなぜ、他者を傷つけずに生きることができないのか?」は、天北原野はもちろん三浦の小説に一貫した問いである。

人間の醜い本質

 個々の物語のストーリーは実際に読んで知って頂ければよいと思うが、ほとんどの作品で描かれるのは相互不信による誤解や思い込み、嫉妬であり、それがもたらす悲劇である。物語には必ずと言ってもいいほど、極めて狡猾で醜い内面を持った登場人物が存在する。その人物の言動を前にすると「こうはなりたくない」という嫌悪を感じる一方で、その人物が持つものと同じ感情のかけらが自分の中に少なからず巣食っている事にも気づかされるのだ。それにはたと気付くとき、狡猾な登場人物を非難しようとしながらも、悪事を働く人物と同じ感情を持つ自分という矛盾が見えてくる。「自分が正しい」という幻想は打ち砕かれ、人間の醜い本質が自分の中に存在すると思い知ることになる(だから最初に読んだ時吐き気がしたのだと思う。幼かった証拠ですね…)。

不条理の中にある希望

 その醜い本質が引き起こす様々な悲劇。人間の本質を突き付け、その悲劇を描く。どこまで苦しむことになるのか、苦しめばよいのかと思うとページをめくる手が止まらない。
 ただ、ここまでであればほかの小説でも味わえる。三浦が違うのは、悲劇を描くことの先にさらにメッセージがあることだ。それが三浦の物語の最大の特徴であり、すてきなところだと思う。
 三浦の代表作・『氷点』『続氷点』では、かつて最愛の娘を殺人事件で失った家族が舞台だ。ストーリーはというと、密会を続ける妻に対して不信感を募らせた夫が仕返しとして、娘の殺人犯の子とされる孤児を養子にとることから始まる。相互不信と嫉妬の中で明るかった養子は次第に追い詰められていく。
 この物語では、養子の親は最愛の娘の殺人犯ではなかったことが明らかになる。しかし養子は、自らをそのような境遇に追いやった実の親を憎む。その憎しみが呼び起こす悲劇を前に、養子は自らに巣食う罪の可能性に気づく。物語の終盤、オホーツク海に沈みゆく夕陽と、罪を背負って死んだとされるキリストの鮮血を重ね合わせた養子は、人を「許す」ということの真の意味に気づく。
 ここに三浦は、他者を傷つけずには生きられない人間の本質を前提に、「ではどうすべきなのか?」という問いへの答えを示している。そこには救いがあり、「人間の本質」というどうしようもないことを「どうしようもない」で終わらせない力を与えてくれる。
 冒頭に触れたとおり、三浦綾子はキリスト教徒であり、小説にもキリスト教要素が多分に含まれている。しかしそうであるからこそ、試練や苦しさを希望に変えられるという可能性を物語に隠しており、罪の可能性に単純に打ちのめされて終わるだけの物語ではないのだ。
 三浦の物語は、キリスト教文学という敷居の高いジャンルに分けられる。だが、罪や許し、愛といった誰にでも気づくことができることをテーマにしたからこそ、信条に関係なく多くの人の心をとらえてきた(私も三浦の本は大好きだが、キリスト教徒ではないし入信する気もない)。宗教は「人の価値観・倫理観をなんとなくカテゴリ化したもの程度」と捉え、三浦がキリストを通して描く希望を自分の言葉に置き換えながら読むと、無宗教の方でも三浦綾子の希望の描き方を理解しやすいのではないだろうか。

三浦綾子の歩き方

 私自身、昨年・2023年は三浦綾子に埋め尽くされた年だった。計60冊ほどは読んだと思うのだが、うち半分が三浦の本。心をつかまれてしまった。
 名作揃いなのでお勧めしたいものだが、あまりに名作揃いなので「まずコレを!」とは言えない。そこで、三浦綾子の本の森の巡り方をいくつか記して、名作紹介に代えようと思う。

物語/価値観 どちらが先か…?

 「絶望させるだけではない」希望が埋め込まれた物語に興味を持ったあなたは…まずは三浦の代表作『氷点』から読むと、その世界を感じやすいと思う。文庫本では4冊にわたる長い小説だが、その長さを気にさせないストーリー。まずはここから、である。
 その後に自伝『道ありき』。氷点を思い出しながらこちらを読むと、作者の考え方・物の捉え方が手に取るように理解でき、物語に込められた作者の思いがより深く見えてくる。
 ただし、代表作と自伝を逆順で読む面白さもある。最初に作者の経験から考え方を理解して、それが形になった物語を読む…人間の本質を独特の角度から描く三浦綾子の物語は、彼女の生涯を踏まえて読むとなお心に響く。どちらを先に読むかは、あなた次第。しいて言えば、気持ちから入るか理屈から入るか…というタイプで決めるとよいのではないか。
 その後は気の向くままに。彼女は中近世や現代史を扱った小説も執筆しているが(『千利休とその妻たち』『海嶺』『銃口』など)、彼女の信条を歴史の物語の上にどの様に載せているのか考えながら読むと、より一層興味深い。

エッセンスが凝縮されている本はない?

 どうしても長い物語が難しいなら…『ひつじが丘』から始めてはどうだろう。ひつじが丘のひつじは、迷える子羊。子羊たちに対して三浦は『愛とはゆるすこと』いうメッセージを、物語を通して投げかける。それがどういった事なのかは読んでのお楽しみ。三浦綾子のエッセンスが詰まった一冊。

三浦綾子に会いたくなったら…

 そんなときはぜひ道北へ。旭川には三浦綾子記念文学館があり、氷点の舞台になった森を歩くことができる。市内には同じく氷点の舞台であるカフェ「ちろる」、北へ進めば彼女の居宅を移築した記念館(和寒町・塩狩峠記念館)や『天北原野』の舞台そのものがある。南へ行けば『泥流地帯』の富良野だ。本の中の世界がすぐそこに。リアル三浦綾子ワールドがあなたを待っている。


 私は三浦を通して何を考えたのか、出会って一年半経ったいま捉え返したくなり、記事を書くに至った。思えば昔の自分は、自分を絶対的に正しい場所に置き、自分ではない何かを「救う」ことができると思っていた。
 でもそんなことを人間ができると思う事自体があまりにも傲慢で幼稚だ。人間は人を裁けない。自分から見下ろされる側の気持ちは考えていたのか…?今はそう思う。今も完璧では全くないけれど、反省した。
 そう思えるようになれたきっかけが、三浦綾子の本。この人の本は、ずっと大事にしたいなぁ。


『天北原野』の舞台・サロベツ湿原。
こんな景色を見ていたのかも。

詫びることと感謝すること、謙虚であることって大事だよね。
人を責めて、でも許せたから、今なら思える。実感として。
俺、まだまだだよなぁ。でも前はまだまだだとすら思えなかったからなぁ…。


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