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ローマの哲学者が何書いてたか簡単にまとめる|『世界の名著』巻頭解説から

前説

 本編は『世界の名著13 キケロ・エピクテトス・Mアウレリウス』とその巻頭解説、鹿野治助「古代ローマの三人の思想家」を手引に著名なローマの思想家が何を書いていたか簡単にまとめるものである。
 『世界の名著』13巻はちょっとめずらしい取り合わせになっている。というのも、後期ストア派(1*)という共通点から、エピクテトス・Mアウレリウスと並ぶのは多くの場合セネカであるからだ。編者によるとこの三人の思想家が選ばれたのは、同時代にあって政治家・思想家という共通の肩書を持つセネカとキケロを比べた場合、キケロのほうが人間的にも思想的にも問題にされるからなのだそうだ。(鹿野治助「古代ローマの三人の思想家」所収『世界の名著13』p.8)
 というわけで、今回は後期ストア派ではなく、ローマの三人の思想家として彼ら3人の著作を紹介したい。キケロは政治家、エピクテトスは奴隷、M(マルクス)アウレリウスは皇帝と、それぞれ全く異なる階級を持ち、それぞれの立場から哲学に触れた3人。
 まずは当時のローマの様子に軽く触れよう。

1* ストア派というのは前3世紀ゼノンを祖とする学派で、前期・中期・後期とある。ストア派の簡潔な概観はクラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』2000年 平凡社。ここでは彼らが「宇宙・自然と人間にはロゴス(法則、理性)があり、それに従うことが善いことだ」と考えたと覚えておけばよい。彼らストア派がロゴスに従うため過渡の情動を抑えたことが、ストイックの語源になった、と覚えておくと覚えやすい(ストア→ストイック)。

ローマ小史

 ギリシア化以前のローマは質実剛健・困窮に屈せず祖国を愛する人々の土地であった。家庭において父親・父系家族はたいへん強かった。というのも、父親は子供が市民服を着るまでの間の教育を担っており、子供にとって生命・財産・自由・その他市民としての権利は父親から与えられるものであったからだ。
 しかし、ローマが他民族を支配するにつれて大きくなると、領土拡大とともに富と文化がローマに集中するようになる。人々は属州から安く穀物を手に入れて、多くの奴隷を雇った。結果、人々は贅沢になり貧富の差は激しくなった。親が忙しくなったことと、経済的に余裕ができたことから、専門家を家庭教師として雇うようになる。それに応じて教育もギリシア的になっていった。
 前156年頃、アテナイから使節という名義で哲学者たちがやってきた。彼らはこの環境をチャンスと捉え、自分らの学説を広めようとした。ギリシア文化はローマに入り翻訳・ローマ化されて、しだいにローマ独自の文学や哲学となった。後期ストア哲学などはその代表例であり、実践的なローマ人の気質からその思想も実践的な面を強くしている。また、こうした文化人は政治に批判的であったためか、特に哲学者や修辞学者は幾度も追放されている。また、キリスト教の出入りもこの頃である。

キケロ(2*)の著作

 手紙だけで800通近く、演説したものは50篇を超え、その他複数の著作がある。名著に収録されているキケロの著作は、『スキピオの夢』『ストア派のパラドックス』『法律について』『宿命について』の4つである。
 『スキピオの夢』は、前54年から前51年にかけて書かれた『国家論』の最終巻に属する。内容は前129年小スキピオ指導の下彼の庭園で行われた対話、ということになっている。プラトンの国家編のオマージュで、キケロの政治上の理想を、スキピオ指導の対話という形で語っている。要は国家のために骨を折って生きることが、隠居生活よりも良く、リスクを取って高潔な公的生活をすべきだと言うことが書かれている。
 『ストア派のパラドックス』は前46年頃にできた。序文と6つの演説によって構成されている。道徳的に高潔なものだけが良いとする説、幸福に生きるには得さえあれば良いとする説、罪過と正しい行いは各々皆等しいとする説、愚か者は皆強靭であるとする説、賢者だけが自由人で愚者は皆奴隷であるとする説、賢者だけが富者だとする説、これらについて激しい議論をする。本編のパラドクスはストアのそれであるが、キケロ本人が考えた結果である(受け売りではない)らしい。
 『法律について』は『国家論』の姉妹編のようなもので、前50年頃から書き始めたようである。『国家論』で理想の国家を論じたキケロは、その国の法律がいかにあるべきか考えたのだろう。現存するのは3巻で、『法律について』が完結したのかはわからない。またこちらもプラトンの『法律』のオマージュで、キケロ本人が友人と対話するという形式である。1巻は序文のようなもので、法律や正義についての哲学的・一般的なことが述べられる。ここではキケロはストアの宇宙論によっており、人・神・宇宙には共通のロゴス(理性・法則)があるのだから法も共通であること、法のもと同じ正義をともにする人は同じ国民であることが述べられる。2巻、3巻では具体的な法が述べられる。2巻では理想国においては宗教的な法が必要である旨が説かれ、3巻ではローマ法の先例や伝統が述べられる。
 『宿命について』はカエサル暗殺後に書かれ、『卜占(ぼくせん)について』『神々の本質について』に続くキケロの宗教的な結論が書かれている。こちらも対話篇で、隣人であったヒルティウスとキケロの別荘での対話という体である。当時から「決定論か自由か」は問題であり、ストア派は宿命論を唱え、エピクロスはアトムの逸脱という形で宿命論から逃れようとしていた。本論は3分の1ほど欠損した状態で現存しており、ストア中期の哲学者ポセイドニオスの宿命論に対する反駁から始まっていて、続けてストア哲学の建設者であるクリュシッポスの批評となる。クリュシッポス曰く性格や身体は風土・環境によって形成され、影響を受ける。しかしこの場合人間の意志の自由はなくなる。キケロによればこれは誤りで、意志は傾向性から自由であり、ソクラテスが悪徳人の人相でありながらそうでないのは彼が意志によって傾向性に打ち克ったからであるらしい。

3* キケロは一般にアカデミア学派の系譜に位置づけられる。『神々の本質について』ではプラトンを「哲学者たちの神」として崇敬しており、様々なところで彼へのリスペクトが伺える(例えば混合政体の思想などはプラトンの『法律』に原型があるとされる)。しかしプラトン一辺倒ではなく、アリストテレス哲学を援用して弁論術を擁護したり、アカデメイア学派とストア学派、エピクロス学派、ペリパトス学派相互の議論を取り扱うなど、カバーしている領域は広い。また、ギリシアの哲学用語にラテン語をあてたことも功績として知られている。(参照 内山勝利 編集『哲学の歴史〈第2巻〉帝国と賢者 古代2』2007年 中央公論新社)

エピクテトスの著書

 本人が書いたものは墓に記されたという二行の詩(3*)だけで、テキストは教え子のアリアノスによる『語録』『要録』のみである。
 『語録』はアリアノスが友人にあてた手紙で、思い出書きのつもりで先生のエピクテトスの言ったことをできるだけそのまま書いたものである。それが回し読みされるうちに刊行されてしまったらしい。もともとエピクテトスが学生に向けて話したことであるから、繰り返しも多く、話も多岐にわたる。
 『要録』はエピクテトスの教説の主要なものを教科書向きに要約したもので、『語録』からの抜粋や要約でできている。ただ、『語録』は現存するものが全4巻であり、もとは8巻からなっていたらしい。そのため、『要録』のなかには『語録』と対応しないものもあり、これは失われた巻に収められていたと目される。
エピクテトス自身はストア哲学者ムソニウス・ルフスに直接師事しており、それ以前は犬儒学派に属していた。また、エピクテトスはプラトンの対話篇や犬儒学派を通じてソクラテスや、ディオゲネスに親しんだ。

3* アウルス・ゲッリウス『アッティカの夜』によると詩は以下の通り。

「奴隷エピクテトスとしてわれは生まれ、身は跛(ちんば)、/ 貧しさはイロスのごとくなるも、神々の友なりき」

エピクテトスは奴隷身分であり、片足を不自由にしていた。肖像画は杖とともに描かれ、一説では主人であったエパプロディトスが彼の足になにか酷いことをしたことが跛の原因だとされる。イロスとはホメロス『オデュッセイア』第18巻に登場する図々しい乞食。

M・アウレリウスの著書

 演説、元老に送った言葉、遺言、名言、先生であったフロントに宛てた手紙などが残っている。
 『自省録』は施政の余暇、出陣の合間に記した手記である。全12巻。内容は自分の欠陥を戒めるもの、他人の過失を弁明するもの、抜書、出来事に対して冷静にストア的立場から自分に言い聞かせるものなど多岐にわたる。12巻あるのは書き溜めた結果であって、体系的に組まれたわけではない。また、1巻は序文として最後に書かれたと言われている。彼の思想は後期ストアの色が強く、倫理的、宗教的である。また、プラトンの哲人王を理想としていたが、国防を旨とするプラトンのそれとは違い、アウレリウスにはコスモポリタンとしての博愛の精神があった。ことローマという大国にあって、国を守る義務と哲人としてのコスモポリタニズムを両方叶えるのは容易ではない。現実には工程として出陣・追放・迫害をせざるをえなかった。

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【参考】

鹿野治助 編集『世界の名著13 キケロ・エピクテトス・Mアウレリウス』1968年 中央公論社

クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』2000年 平凡社

内山勝利 編集『哲学の歴史〈第2巻〉帝国と賢者 古代2』2007年 中央公論新社

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