自己責任

この言葉を他人が他人に向けて放つ度に、私は少し胸を痛める。


高校3年生の12月、センター試験の1月前

衝撃と共に目を開けると、視界に映ったのは
骨の露出した血だらけの足だった。

私は下校中、ガードレールに衝突し、その日のうちに全身麻酔で手術を受けることとなる。

愚かにも、友達の乗っている自転車の後ろに乗ってしまったのだ。

坂の上にある高校だった。

少し考えれば危険な事だとわかるし
なにより二人乗りは違法である。

神様はちゃんと見ていたようで、思考停止していた私にしっかりとした罰を下した。

正直この出来事は本当に愚かすぎて、あまり人に話したくないレベルの話である。

私は本来であれば1週間の入院のところ、脅威の回復力で3日で退院し

受験勉強に極力時間を割いた事によりかなりギリギリになっていた単位もなんとか回収し、

血の滲むような努力により
センター試験も無事突破☆


となれば、終わりよければ全てよしの話になってくれたのだろうが

現実は厳しく、というかシンプルな努力不足により、センター試験も一般入試も爆死の結果となる。

その後私は結果として、合格した大学には進学せず浪人の道を選ぶのだが、

事故への後悔にしがみつきながら生活していた私は、夜中毎日のように泣いてしまうという日々を送っていた。

あの日自転車で前に座っていた友人は
無傷で、尚且つ推薦で大学が既に決まっていた。

なんとも強運の持ち主である。

私には治らない膝の傷だけが残った。

そんな友人と暗闇に落ちた自分を比較する事で、自分が一番悪い事を痛い程わかっていたが、それ故にただただ自分の運命を呪った。

そんな生活の中で私は2つの僅かな光を得る。

1つは、ノルウェイの森という小説との出会いである。

現代文の問題集でノルウェイの森を題材とした問題を解き、続きが気になり2日で上下を読み終えた。

物語の登場人物、永沢さんの

「自分に同情するな。自分に同情するのは下劣な人間のやる事だ」

というセリフを見て、自分になんだかんだ同情をして、嘆ききれない不幸や自己嫌悪で葛藤していた愚かな自分は

気持ちよく引っ叩かれたような気分になった。

このセリフは、生身の、自分以外の人間から発せられた言葉であったなら、

貴方に何がわかるんだ!!!
と、私は怒りに震えたかもしれない。

人を救うのは、生身の人間とは限らないのだなとその時私は思った。

そしてもう1つの光は、ある美容師さんとの出会いにより得る。

浪人中、何か一つでも変化が欲しかった私は
美容室に髪を染めにいった。

髪の色を染めてもらっている最中、
室内の清掃を行なっていたオーナーと思われる人物が、私の足を見て、傷について尋ねてきた。

恥を晒す気持ちでオーナーと担当の美容師さんに自分の話をしたのだが、話し終わると、担当の美容師さんも自分の話をしてくれた。

正確には美容師さんの弟さんの話なのだが

美容師さんには数個下の弟さんがいるらしく、昔からなりたかった車の整備士にようやくなり、順調な生活を送っていた矢先

後輩と飲みに行った帰り道の事故で、半身不随になってしまったという話だった。

弟さんはベロベロに酔っ払い、ほとんど意識がない中、後輩もまた酔った状態で車を運転してしまったという。

正直、自分とは本当に比べ物にならないほどの暗闇に落ちたのだろうなと、話を聞いていてとても苦しかった。

弟さんは
事故の後、医者から「もう2度と歩けない」と言われたが、

計り知れない悲しみや様々な感情と戦い、家族にも一切の弱音を吐かずにリハビリに励み

最終的には車椅子なしでも移動が可能なレベルにまで回復したという。

私はその話を聞き、泣きながら

再度引っ叩かれた気持ちになり、

その日以降、夜涙を流すことはなくなった。


自己責任という言葉は、自分で自分を律するために放つ言葉であり、間違っても他人に放つ言葉ではないと私は思う。

そして這い上がれるかわからないレベルの暗闇に落ちた時

自分に同情をしないと言う事が
最終的には最も自分を救うのではないかと私は考えた。



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