夜はいつでも回転している//////////////////////短編集【B面】
100の夜を巡る短編集
この物語はフィクションであり
実在の人物・団体とは一切関係ありません
51夜 Big fish
死んだらどうなるか?なんて子供の頃から話す定番のテーマだし大人になっても酔っ払った席では宇宙の話だとかタイムトラベルだとかと同じ様に話題にしていた。もちろん誰もその答えを知っている奴なんていない。死んだ事がある奴がいないんだから当然だ。死んだ人は大勢いてもそこから戻ってきた人はいない。戻ってきたならそれは死んだことにならないからだ。
「人が死んだらどうなるかなんて簡単や。死んだら嘘になんねん。フィクションとか物語って言ってもええわ」そう先輩が言っていたのを急に思い出した。暗闇の中、街のあちこちで銃撃戦が行われていた。頬に冷たい感触と風呂に入っている様な暖かさを同時に感じた。
「おいおい嘘嘘!ドッキリやのに何ホンマに死んでんねん!」俺の後頭部を撃ち抜いた先輩が何か言っている。何がおかしいのかずっとゲラゲラ笑っている。嘘って何?ドッキリってどういうことよ?頭イカれてんのか?
「死んで嘘になったらな、そいつはどんな嘘でもホンマやと思うんよ。夢を見とる時はこれ夢やって気がつかんやろ?それと一緒や。役者が自分の役とホンマもんの自分の区別つかん様な感じか」
コンビニの前でカップラーメンを啜り上げながら先輩が言う。というかあんたの関西弁も嘘だろ。この人は東北出身なのに何故か関西弁で喋る。強いライトに照らされて一瞬何も見えなくなった。巨大なタンクローリーがコンビニに突っ込んで俺はコンビニのビールが並ぶ冷蔵庫に吹っ飛ばされた。一泊置いてからタンクローリーが爆発して1分ほど経過してからカットがかかった。監督がカメラの映像をチェックしてぼそっとOKを伝えると助監督がバカみたいな大声で「オッケーです!」と叫んだ。アホか!何がオッケーなんだよ!俺はマジで轢かれて爆発してビールまみれで引火して燃えてんぞ!先輩を見ると頭が吹っ飛ばされている。首から光ファイバーやら何やらの機械的な配線が飛び出してる。あんたも嘘かよ!ということは俺も嘘か。そもそも俯瞰して色々見えてるのがいい証拠だ。
ノックの音がした。
「どうや?進捗は」と先輩の声がした。
「まぁ締め切りには間に合いますよ」
「嘘つけ!」
PCの画面には白紙の原稿が映っていた。何でこの人はわかるんだ?
「書きたいものは何となくあるんですけどね。どうも書く気が起きないんですよ」
「まぁしゃーないな、そういう時は待つしかないわ」
「担当編集者の言葉とは思えませんね」
「しゃーないやん?俺は書けへんし、待つしかないねん。お魚釣りと一緒!ビッグフィッシュがかかるのを待つだけやん」
なんか、らしくないな〜と思いながらドアを開けると誰もいなかった。廊下は暗い。他の部屋にもいなかった。玄関の扉を開けたが誰もいない夜だった。先輩にメッセージを送る。
「何やってんすか?」すぐに既読がついて返信が来た。
「良い夜を待ってる」
なんじゃそりゃ。
何気なく見上げると巨大な魚が夜空を遊泳していた。
52夜 思考の外側
舞台上ではバンドが演奏していた。客席ホール中央にはスーツ姿の背の高い男が音楽に合わせて踊っている。バンドよりも目立っている。他の客は囲んで踊る男を写真に撮っていた。二階席から見ていると男を中心にしながら黒い人集りがレコードの様に回転していた。誰もがその男に釘付けになっていたし私もその一人だった。彼と目が合った。曲が終わると彼は円を作っていた人の中へと紛れてしまった。数秒遅れて我に返った。彼はおそらく外に出たんだろう。急いで出口に向かった。外は雪が降っている。駐車場には薄く雪が積もった車がたくさん停まっていた。雪の中で彼の後ろ姿が見えた。早過ぎず遅過ぎない歩調で車に乗り込んだ。私は急いで車に近づき窓ガラスをノックした。パワーウィンドウがゆっくりと下がり彼の美しい顔が現れた。私は父親から誕生日プレゼントで貰ったシグ380の銃口を彼に向けた。
「車を降りなさい」
彼はこちらに笑顔を向けた。今まで見たこともない種類の笑顔だった。人を不安にさせる様な何かがあった。
「この世には絶対に関わらない方がいいことがある。それが何かわかるかい?」
「勝手に喋らないで!連邦捜査官よ!車を降りなさい」
「それは父親から誕生日プレゼントでもらった銃だね」
何でこの男はそんな事を知ってるんだ。顔が小刻みに震えた。
「人は選択によってのみ評価される。思考してるだけじゃダメなんだよ。どんな選択も必ず結果につながっていく。普通ならその選択によって結果が変わるんだ。ただ例外もある。どんな選択をしても結果が変わらない。そういう存在とは関わってはいけない。もしそんな存在に出会ってしまったら思考を止めるしかない。選択を永遠に保留にするしかないんだ」
私は気がつくと雪が降る駐車場で立ち尽くしていた。頭や肩にうっすらと雪が積もっていた。男の車はもうなかった。男の去り際の顔を思い出そうとしたが真っ暗な空洞しか思い出せなかった。
53夜 lookism
すごい可愛いわけでもないがブスでもない女の子が玄関の前に立っていた。要件を聞くと「昨日助けてもらったルッキズムです」と言う。しかし
昨日は誰も助けていないと言うか家から出てもいない。っていうかルッキズム?
「あなたはやはり世界を肯定する側ね」と女の子が言う。なるほどこいつはやべーやつだ。「えーっと、そう言うのは結構ですので〜」と語尾を曖昧に伸ばしながらドアを閉めようとすると隙間から女の子がするりと入ってきた。彼女は土足のまま部屋の中へ入りダイニングテーブルの上の俺のスマートフォンを手に取って窓を開けてそのまま放り投げた。おいおい!何やってんだよ!と脳内で思っていても言葉がうまく出力されずにアウアウしていると彼女が人差し指で俺の唇を押さえた。彼女は口を開けて何かを言おうとしていた。しばらく指で唇を抑えられながら彼女が何かを言うのを待っていた。無言のまま時間が過ぎていった。どのくらいの時間が経ったのかわからない。外はいつの間にか暗くなっていた。照明をつけていない部屋の中は真っ暗だった。いつの間にか彼女はいなくなっていた。唇に彼女の人差し指の感覚だけが残っていた。
しばらく呆然としていた。一体何なんだよ。それに今何時なんだ?時間を確認しようとスマートフォンを探した。そういえば外に放り投げられたんだ。探しに外へ出た。街灯の下、道端に女の子が倒れている。額から血が出ていた。呼び掛けたが応答はない。もしかして死んでいるのかと思い脈を確認したが生きてはいる様だった。とにかく救急車を呼ばないと。そう思うがスマートフォンがない。と思っていると音が鳴った。見るとスマートフォンが落ちている。カバーに貼ってあるステッカーで自分のだと気がついた。知らない相手からビデオ通話が来ている。IDは「lookism」となっている。ん?ルッキズム?どういう事だ?いや、待てよ。この倒れている女の子はさっきの子じゃないか?訳がわからず思わず通話をスライドしてしまう。画面には夜の街灯の下で倒れている女とその傍に自分の後ろ姿が映っている。咄嗟に振り返ったが誰もいない。もう一度スマートフォンの画面を確認する。立ち上がると画面の中の自分も立ち上がる。振り返ってカメラがあるであろう位置を見たがそこには何もない様だった。もう一度見ると画面の中の自分が振り返っている。でもこれは俺の顔じゃない。可愛くもないがブスでもない女の子の顔だった。
54夜 Sun Ra Arkestra
巨大な浮遊物は巨大過ぎてそれがどんな形で何なのか誰も俯瞰する事ができなかった。それは夜になるとさらに巨大化していたがある時にサン・ラの曲を聴かせると巨大化が止まる事がわかった。それから毎晩巨大なスピーカーから大音量でサン・ラが流れている。わたしが眠っている時に頭の中でいつも流れている音は何なのかと母親に聞いたらそんな話をしてくれた。
55夜 Addiction
濃紺になっていく街で小さい子供が泣いている。傍には母親らしき女が電子タバコを吸いながら泣いている子どもをぼんやりと無表情で眺めている。いくら泣いても表情を変えない母親を見て子どもはさらにギアを上げる。泣き声はキーキーと甲高くなり人間の泣き声から獣の鳴き声になった。まるで猿の様だった。人間の声には聞こえなかった。鳴き続ける子どもの体が少しずつ膨らんでいきパンパンになって服も破けて体が銀色のパチンコ玉になって弾けた。母親は腰を上げて道端に散らばったパチンコ玉をプラスチックの箱へ入れた。そのまま巨大な作り物の猿が座るパチンコ屋のビルへと入っていった。
56夜 揺れ
断片的で抽象的な思考が濃縮された夢から覚めて揺れを感じた。かなりはっきりとした意識で地震だと思い飛び起きる。揺れは止んでネットで震度を確かめようとしたけれど情報が出てこない。テレビをつけても地震があったというアナウンスはない。次の日周りに聞いても誰も地震があったということに気がついてなかった。寝惚けてたとは思えない。確かにはっきりと揺れを感じた。あれは何だったんだろう?どうにも気になってさらに地震の情報を調べていると聞いたことも行ったこともない国で地震があったというニュースが出てきた。その地震が私が感じた地震の時間と一致している。検索してその国の地震があった地域の写真を見ていると何故か見覚えがあった。その土地の地下深くに私の断片的で抽象的な濃縮された思考の塊が埋まっている様な気がした。
57夜 inu
仕事帰りにスマホの今日やることメモを見てボディークリームやシャンプーの下に犬とある。メモした覚えはない。ドラッグストアでボディークリームやシャンプーの詰め替え用を買いながら犬って何のことかを考えてみたがわからない。犬を飼っているわけでもないし飼う予定もない。何か別のことをメモしようとして誤変換されただけだとは思うけれど、何となく気になる。何か買い忘れてたりどこかへ行く用事や払い込みがなかったか思い出そうとしたが、これと言って思い当たることはない。スマホのキーボード設定は日本語ローマ字なので「犬」を何かと打ち間違えるとしたらローマ字の”i ,n ,u “のどれかを打ち間違えたのかもしれないけれど、その線からも思い浮かぶことは何もなかった。後ろから甲高い笑い声が聞こえた。振り返ると赤いワンピースを着た60代くらいの女の人がショッピングカートにトイプードルを乗せて歩いていた。トイプードルの潤んだ目と目が合った。女の人は笑い続けている。耳障りな高音だった。その高音が鼓膜の中でぐるぐると回転し唐突に自分が昔犬だったことを思い出した。犬だった頃の俺はこんな笑い声を聞いたことがあった。あの頃その笑い声が何よりも嫌いだった。
58夜 迷う男
複数のラインが入り組んでいる地下駅構内でうっすらとトイレに行きたい。案内表示に従って歩いているがなかなか辿り着けない。やっと見つけたがトイレの種類が多すぎる。自分がどの種類のトイレに属するのかを調べるだけでも時間を取られた。立ちション便器は頭頂部が禿げた男たちで埋まっていた。階段から外に出た。スクランブル交差点はレイヤーが重なり過ぎていてどこを通ればいいのかよくわからない。迂回しながら渡っていく。目標にしていた建物がことごとく変わっていてまるで道がわからない。色々な場所が通行止めになっていて迂回を繰り返していた。目当てのラーメン屋にやっと辿り着いたがかなり並んでいた。列に並んで待っていると直前で今日のスープが終了したと言われて結局食べられなかった。バイトの面接の時間が迫っていたのでご飯を食べられないまま向かっているとそれぞれ髪の色が違う7人の男女が道幅いっぱいに歩いてくる。虹の様な配色だった。避けようとしたが避ける隙間もなくきた道を戻って迂回していくと何故かその虹集団もついてきた。急いで向かって息を切らせながら何とか時間に間に合った。事務所らしき所にいた女の人に案内されて面接をする部屋に通されて待っていたが1時間待っていても面接官が現れない。事務所に行ってみると先ほどに女の人もいない。仕方がないのでもう少し先ほどの面接室で待っていようと戻ると鍵がかかっていた。事務所にいくと事務所の扉も閉まっていた。ビルを出て携帯で会社の番号にかけると男の声で応答があった。「はい、有限会社〇〇です」「あの、すいません今日バイトの面接にきた凡田ですが」「ああはいはい、今日ありがとうございます」「え?あの、面接って今日でしたっけ?」「はい?さっき面接しましたよね?」「え?それって」「ああそうだちょうどよかった面接の結果なんですけどね」「はい」「不採用で」「え?」「ちょっと今回はご縁がなかったという事でそれでは失礼します」ツーツーツー。
もう外は暗かった。こんな風にして全ての時間は無駄にゼロに近づいていく。そう思いながら夜空を見上げると雑居ビルの隙間から夜の虹が見えた。
59夜 Q R
飲み会の後終電に乗ってうたた寝していたら降りる駅を通過して慌てて降りた。初めて降りる駅でもう戻る電車もないので改札を出た。タクシーも停まっていないしコンビニもない。街灯も少なくて駅前とは思えない暗さだ。暗闇の中でちらほらと蛍の光の様なものが揺れ動いている。よく見ればスマートフォンをかざしている人たちがあちらこちらにいる。電波でも探しているのか?みんな一心不乱にスマートフォンを天に翳している。見れば随分向こうの方まで同じ様な人たちがいて無言でフラフラとしているのはかなり不気味だ。でも何かのイベントでもやってるのかな?目の前でスマートフォンを上に向けている女の子に聞いてみた。「あのー、すいません、何やってるんですか?」女の子はこちらを向いた。結構可愛い子だった。「神を探してるの。あなたも仔羊ね。さぁさぁスマートフォンを天にかざしてみて!」こわ〜、何それ?そういう設定か何かなのか?
にこやかに可愛い女の子が促すままにスマートフォンを空に翳すと勝手にカメラが起動して真っ暗な空が映った。今夜は曇りで月も見えない。画面を見ていると雲間から何かが出てきた。カメラ通してしかそれは見えていない。ARとかそういうやつか?徐々に雲間から姿を現したのは巨大なQRコードだった。「ついについに〜!」と言いながら隣の女の子は画面を見ながら涙を流している。空に浮かぶQRコードに画面を合わせるとどこかのサイトのURLが表示されている。隣を見ると女の子が自分のスマートフォンの画面にタッチしている。その瞬間女の子の姿がふっと消えた。周りを見るとさっきまで大勢いたはずの人の姿が消えている。まるで最初からいなかったみたいだ。画面の中の巨大なQRコードが示すURLを押すのは怖いはずなのに押したいという衝動に勝てずに推してしまう。
無限の白と黒の繰り返しを経てやっと抜け出せたという感覚だけがずっと残響している。
60夜 face off
ある夜、ある夜としか言えない様な夜。完璧な人生を送っている。何の不自由のない生活。勉強も部活も彼女も友人にも恵まれていて毎日が優しくて穏やかな空気が流れている。ある夜、祭囃子で目が覚めた。地元の夏祭りだ。行けば誰かしらいるだろうし、腹も減ったので屋台の飯でも食べに行こうと外へ出た。
祭をやっている広場に着く。誰か知っている人たちがいないか探してみると後ろから声をかけられた。振り返ると牛のお面をした奴が立っている。「おせーじゃん」と言われてそれが友達だと気がつく。「こっちにみんないるよ」と言われてついていくと祭会場の裏にある公園のジャングルジムでたむろしている集団がいた。どいつもこいつもお面をしている。鼠のお面をしたやつがジャングルジムの上に座ってこちらを見て手で挨拶をしてくる。羊のお面をした奴は焼きそばを食べている。鳥と犬のお面をした奴らがこちらへ寄ってきて肩を組んでくる。「おいあれ見ろよ」と犬のお面が耳元で囁いて指を指す。見ると公園の奥で猫のお面をつけた浴衣姿の女と狐のお面をつけた男がまぐわっている。見ていると胸の中心にじわじわと穴が開いていく様な気がした。あの女が来ている浴衣の柄が自分の彼女の浴衣と同じだった。急にみんなが花火をし始めてゆらゆらと花火の光で影になっている集団の中から抜け出したくなった。「ちょっと何か買ってくるわ」と言ってその一団から離れると呼び止められた。「落としたぞ!」と兎のお面をした奴が真っ黒なお面を持って来て俺の顔につけた。
61夜 river
どれだけ友達がいても孤独を感じるのは自分に何かが足りないと感じてるからだ。そう言いながら彼は渋谷の渇いた川を歩いている。上を見ると夜空にはカメラが無数に飛んでいた。
62夜 structure
目が覚めると教室だった。何故か自分の席から二つズレた席に座っていた。カーテンが風で舞い上がった。女の子のスカートを思い出した。カーテンの中へ頭を入れて外を見る。校庭に子供たちがいた。誰もが目隠しをしていた。その中央に真っ黒な何かがいた。「あれは夜だ!誰も抜け出せなくなる夜だ!」何故か僕はそう叫んでいた。目隠しをした子どもたちは走り出した。教室にあるテレビの画面に目隠しをした男の子が映し出された。
そこは夜の校庭だった。
「僕は全てが嫌いだ!」と男の子が叫んだ。その男の子は子供の頃のぼくにそっくりだった。
「それはつまり全てを好きになる可能性があるということだね」と女の子の声が応えた。
下手くそな口笛が聞こえた。
後ろを振り返ると目隠しをした女の人がいた。
「これじゃあ視聴率は100%ね。つーか万バズ」
女の人はカンガルーを見る様な目でそう言った。
それを聞いてぼくは疑問に思ったことを聞く。
「ぼくはずっと目隠しをしているのにどうして君が見えるんだい?」
そう。ぼくはずっと目隠しをしている。
女の人が自分の親指を舐めてから言う。
「そしてだからあるいはもちろん当然しかし偶然のように必然的に音楽が鳴り始める」
ビー玉の様にぼくの右目が転がっているのが見えた。
63夜 Kraftwerk
クラフトワークが子供の頃に眠っている時に同じ夢を見た。2体のロボットがDJをしていた。それはダフトパンクだった。でも起きた時には完全に忘れていた。
64夜 レッドカーペット
終電を降りて家まで歩いていると道路にレッドカーペットが敷かれていた。こんなもの誰がやったんだ?夜遅いために人も車も誰もいない。何となくレッドカーペットの上を歩いてみる。何とくテンションが上がってくる。しかしシュールな光景だな。普通の住宅街にレッドカーペットって。そう思いながらもその上を歩くことを楽しんでいた。偶然なのか何なのかわからないが自分の家までの道程に沿って敷かれている。何なんだ?そして家まで着いてますます訳がわからなくなった。レッドカーペットは自分の家の前まで続いていた。誰がこんな事したんだ?俺の友達の誰かか?それとも家族か?わけがわからないまま家のドアを開けた。顔でも洗おうと洗面所まで行き鏡を見て驚いた。顔が別人だ。部屋の中をみると無数の仮面が壁にかかっている。その中に本当の自分の顔があるのを見つけた。
65夜 Improvisation
今日は朝から巨大な廃工場でのロケだ。今は夜のシーンを昼間に撮っているところだったが監督の姿が見えない。見えないというよりこれまで誰も一度も姿を見ていない。現場に来ているらしいがどこにいるのかわからないのにいつの間にか人伝いで指示が出されている。今日の分の脚本が先ほど流れてきたがそこには一行だけ『完璧なデザインは思考を止めてしまう』とだけ書かれていた。全く意味がわからない。どうすればいいのかわからず撮影クルーは無言のまま立ち尽くしていた。時間も限られているのでとにかく撮ろうということになった。カメラを向けられた俳優たちはお互い顔を見合っていたが何を言えばいいのかわからず無言のままだった。とにかく歩こうと1人が言って歩き出した。複数のカメラがそれを追って行った。広場に出た。水たまりがあった。それ以上は進めなかった。監督はもしダメならダメだと言うはずだ。そう思った俳優の1人は水たまりの上でバシャバシャと跳ね回った。それを囲む様に他の俳優が立っていた。そうやって撮影は最終日を迎えたが結局監督の姿を見ることはできなかった。撮影された映像は保管室からいつのまにか無くなっていた。助監督は眠る前にそんなことを考えていた。本当に監督は存在してるのか?瞼を閉じるとエンドロールが流れ始めた。
66夜 SILVER BEATLE
夜中に黒電話が鳴った。取ると女の声で「ノルウェー産の木っていいですよね?」と言われた。こんな夜中に一体どういうつもりなんだと文句を言いたかったが通話は切れていた。それからどうにも眠れなくて少し外を散歩していると音が聞こえた。聞いたこともないビートを鳴らし続けている。気になって音がする方へいくと銀色の大きな何かがいた。その周りに3人の男たちが虚ろな顔で立っていた。銀色の何かはカブトムシに形が似ていた。大きな角がある。音はその銀色な大きなカブトムシから聞こえてきている様だった。怖かったが樹木の蜜に引き寄せられる虫の様に近くへ行きたくてしょうがない。体は抗えずにその大きなカブトムシの前に立つ。カブトムシの角がゆっくりと伸びて針の様になっていく。針の様に細くなった角がゆっくりと額へと刺さっていく。不思議と痛みはなかった。それからの人生はあっという間に流れていった。10年がLPレコード六枚分くらいの長さにしか感じなかった。今は「ビートルズ」というバンドで活動している。
67夜 Going home
実家で眠っていると電話がかかってきた。出ると母親だった。「あんたどこにいるの!」とものすごく慌てていて様子がおかしい。「いや、部屋で寝てるし」と答える。「部屋ってどこの?!」「部屋は部屋だよ。自分の部屋」「はぁ?何言ってんの?本当にどこにいるの?こっち大変なことになってんのよ!」「なに?どういうこと?意味わかんないんだけど」「家が消えたんだよ!」「は?」「だから家が消えちまったんだよ!ちょっとコンビニ行ってる間に家が丸ごと綺麗さっぱり無くなってんの!」「何言ってんだよ?じゃあ俺はどこにいるんだよ」そう言いながらカーテンを開けるといつもの部屋からの風景だ。何も変わったところはない。部屋を出て母親の寝室へ向かうとイビキをかきながら母親は眠っていた。じゃあ今話してるのは誰なんだ?「早く帰って来なさいよ!」と言われて電話が切れた。二秒くらい遅れて母親が寝言で「早く帰って来なさいよ!」と言った。
68夜 JAPAN
飲んだ帰りの深夜、締めに一人で牛丼屋へいくと満席ではないが思いの外混んでいた。券売機の列の前に並んでいたおっさんが「ちょっといいかい?」と店員を呼ぶ。「あいあい」と言って国籍不明の女が応対しているがどうも話しが通じていない。店員は皆日本人ではない様で誰も日本語が話せない様だった。「PayPayで払いたいんだけどなぁ。PayPay PayPay PayPay」とおっさんが繰り返すと店員の女も「PayPay PayPay PayPay」とにこやかに繰り返すだけで一向に進まないので俺がおっさんにやり方を教えてあげていると店員の女は何も言わずにすーっとカウンターの中へ戻って行った。おっさんに肩を組まれてサンキューベリーマッチと日本人の俺に行ってくる。口からドブの臭いがした。
どうもこの時間はおかしな空気が流れている様で牛肉とご飯を別皿で頼んで米だけ先に食うやつはまだいいとしても、生野菜サラダと牛丼を豚汁に入れて食べる奴や、別皿に盛った紅生姜を一本一本じっくり見て選別している奴など異次元な食べ方をする人ばかりだった。テーブル席に座る4人組のおっさんが「こここの前までケンタッキーだったよな!」と言っているがここは知っている限りずっと牛丼屋でケンタッキーだったことはない。俺が座ったカウンターの横には髭も髪ももじゃもじゃな欧米人の男が手に乗せた七味唐辛子を舐めながらワンカップの酒を飲んでいた。男がこちらへ目を向けて聞いてきた。「ここどこ?」俺は無表情で「JAPAN」と応えた。
69夜 Call this number
到着したのは夜だった。賑わう香港の街を眺めながらタクシーでホテルへ向かった。会社が手配したビジネスホテルは悪くなかった。チェックインをして部屋で一息ついて小腹が空いてきたので街に繰り出そうかと思っているとレンタルした携帯電話が鳴った。番号だけの表示だ。まぁまだ誰の番号も登録していないので当たり前か。この携帯の番号を知っているとすれば仕事先だけだろう。通話を押して耳に当てると女の声だった。
「もしもし」日本語だった。
「もしもし」「えっと、そちらはどちら様でしょうか?」「あのどちらにお掛けですか?」「それがよくわからないんです」「それはどう言うことですか?」「それがそのある人からこの番号にかけるように言われたんですけど」
女に番号を言ってもらったがこの携帯と同じ番号だった。
「ある人っていうのは?」「私にもよくわからないんです」
なんだこの電話は?悪戯か?さっさと切って飯でも喰いにいったほうがいいかもしれない。でも何故かそれができない。何となく女の声に切迫した雰囲気と惹きつけられる様な感覚の両方があった。
「わからないって、それじゃあ誰だかわからない人に教えられた誰だかわからない人の携帯番号にかけてるってことですか?」「そうですね」「何のためにかけてるのかもわからないんですか?」「それはあなたが知っているらしんです。かけてみればわかると言われて。私に何か言うことはありませんか?」「あなたが誰かもわからないのに?」「そうですよね。すみません。私はハヤマと申します。ハヤマケイコです」
聞き覚えのない名前だった。誰かを思い出そうとしてみたが何も思い出せなかった。その間二人とも黙っていた。受話器の向こうで音楽が鳴っていた。聴いたことがある曲だったが思い出せなかった。「すいません。やはり僕は知らない様ですね」「そうですか」「今は出張中でこの番号もレンタルした携帯電話の番号なんですよ。この番号を知っているとすれば会社の人間だけなんです。だからハヤマさんにこの番号を教えたのは会社の人間かもしくはその教えた人物が番号を間違えて教えたかのどちらかでしょうね。そのハヤマさんに番号を教えた人物っていうのは具体的にどんな人だったんですか?」「それが変な話なんですけど、よくわからないというか。この間旅行に行ってきたんです。ちょっとプライベートで色々あって一人で旅行してたんです。ホテルについて一息入れていたらホテルの電話が鳴ってとったんです。男の人なのか女の人なのかちょっと曖昧な声でした。部屋の中に鍵と鍵穴がある。それだけ言って電話が切れちゃったんです。フロントに確認したんですけど誰もこの部屋にかけてないっていうんです。ただもしかすると他の回線と混線したのかもとは言ってましたけど。間違いか悪戯だろうと思ってベッドに入ったんですけど、何となく気になって探してみたらあったんですよ。鍵はベッドの下にありました。鍵穴は洗面所の棚の裏にありました。鍵を開けると財布とかを入れられるくらいの小さな引き出しでした。そこにこの番号と英語で『ここにかければわかる』とだけ書いてありました」「ホテルの人にはその事を聞いてみたんですか?」「ええ聞いてみました。でもそのホテルは今の会社が建てたものではなく倒産したホテルを買い取ったものらしくて、鍵やその引き出しのことも知らなかったみたいです」
「そうですか、それは奇妙ですね」
しばらく二人とも黙っていた。先ほどかかっていた曲はもう終わっていた。車が走る音が聞こえる。啜り泣く様な声がした。
「どうしました?大丈夫ですか?」
「ええ、すいません。わたしもうすぐ死ぬんです」
「え?」「病気で、もう長くないんです。でも誰にも病気のこと言えなくて」「大丈夫ですか?」他にかける言葉が見つけられなかった。
「でも言えてよかった。誰にも言えずに死ぬなんて怖いから」何と言っていいのかわからなかった。「ごめんなさい。でもありがとう。さようなら」電話は切れた。腹はもう空いていなかったが外に出た。この夜のどこかで泣きながら歩くもうすぐ死んでしまう女のことを思い浮かべた。女の姿を探したが顔も服装もわからないのだから見つかるはずはない。レストランから音楽が聞こえてきた。さっき流れていた曲だった。レストランに入り注文する前にこの曲はなんて言う曲か聞いたが店員もわからない様だった。
70夜 探偵の気分で
明日は休みなので仕事の同僚と軽く飲んで一緒に飲んでた同僚は明日早いから今日はお開きということになったがもう少し飲みたい様な気分で有楽町から新橋に向かって歩いていると前方に男が歩いていた。顔に見覚えがあったがどこで会ったのかは思い出せない。酔いもあって悪戯心が働いたのか尾行してみる。探偵の気分で後を追っているとちょっと楽しくなってくる。まぁこちらも特に目的地があるわけじゃないから飽きたら止めればいい。しかしどこかで見た気がするけれどどうしても思い出せない。正面からちゃんと見れば思い出せるかもしれない。知り合いなら向こうもこちらを覚えているかもしれない。そんなことを考えていると奇妙なことに気がつく。男も誰かを尾行している。赤い服の女を追っている様だった。おいおい、こいつはストーカーなんじゃないだろうな?いや、もしかして本物の探偵で浮気調査とかしてんじゃないか?女の顔は見えないけれどしばらく注意して見ているとまたおかしなことに気がつく。女も誰かを尾行している様だった。たまたまそう見えるだけか?そう思っていると視線を感じた。さりげなく後ろを見ると誰かが付いてきている。いや、そういう気がするだけかもしれない。アホくさ。もう帰るか。歩いたせいで酔いが回ったのかもしれない。そう思った時に前の男が止まった。その前の女もその前の誰かも止まって空を見ていた。発光する何かが夜空を走っている。何だ?彗星?何ちゃら流星群とか今日あったっけ?いや、そんな大きさじゃない。隕石とかか?それはあっという間に流れてきて頭上で破裂した。その瞬間一気に暗闇になった。停電か?暗闇の中で蛍の光の様なものがあちこちで灯った。最初何だかわからなかったがスマートフォンの光だった。「なになに?」「どうなってんの?停電」「クソ電波ねぇーし」「何これやばくない」あちこちから声が聞こえてきた。スマートフォンを見たがネットも繋がらないし電話もできなかった。それから5日間東京で停電が続いた。仕事にならないので結局休みになりダラダラ過ごしてネットもテレビもつかないので暗くなったら眠る健康的な生活をしていた。眠っているとあの日尾行していた男が夢に出てきた。それで思い出した。この男とは前も夢の中で会ったんだった。
「なんでお前ついてくるんだよ?」と男に言われたがうまく口が動かない。
「どうして俺の夢に出てくるんだ?」と男が言う。それはこっちのセリフだがうまく言葉が出てこない。
目が覚めるとまだ夜だった。暗い中を手探りで洗面所までいった。洗面所には大きな鏡がある。暗くて見えない。しかしそこに映っているのが自分だとも思えなかった。
71夜 相似形
建売り住宅の隣人が旅行に出るので犬の世話やら部屋の換気とかをして欲しいと言われた。高そうなつまみとか高価な酒とかPS6とかJBLのスピーカーとかレコードやらホームシアターやらVRやら色々好きにしていいと言われたので引き受けることにした。建売りで同じ構造といっても厳密には違う。うちと隣で二軒だけの建売り住宅で隣同士が左右反転している。きっと家を鏡に写したらこんな感じだろうという構造になっている。隣人は独身でいつもおしゃれでかっこいい。俺のとこは嫁と子供二人でいつもカツカツで賑やかで楽しいけれど一人になれる空間がない。俺は家で仕事をしているけれど仕事部屋はなくてリビングの一画を無理くり仕事場にしている様な感じだからいつでも騒々しいしリモートでクライアントとやりとりする時なんかはレンタルオフィスとかを使っている。だからこんな空間を使わせてもらえるのはかなりありがたい。だから日中はここで仕事をして夕飯時は家に戻って子供を寝かしつけて、今度は嫁とまたお隣に来て酒飲んだり音楽聴いたり映画観たりして二人の時間を楽しんでたりする。キャッキャしながら独身時代を思い出していい雰囲気のままベッドルームへ向かった。床で眠っていた飼い犬のベンジーがちらりとこちらを見たが興味がなさそうにまた目を閉じた。
嫁の背中は汗でしっとりとしていた。今何時なのか見当もつかなかった。脱ぎ捨てた服の中にスマホがあると思うが振り返ってみてもそれがどこにあるのかわからなかった。全部が暗闇に溶けていた。なんか変な感じだ。
「なんか変な感じ」とこちらが思うのと同時に嫁が言った。「同じ作りの家なのに全然違うのってなんか変よね。なんて言うか....」「鏡の中に入ったみたいな?」「そうそんな感じ。なんか自分も同じ自分なのに別の自分になっていく様な」それに対して何か応えた様な気がする。けれどうとうととしていつの間にか眠っていた。しばらくすると嫁はベッドを抜け出して脱ぎ捨てられた服を着て自分の家に戻った。俺はまだ眠っているのにそれがわかった。嫁はシャワーを浴びて自分たちの家の寝室へ入り眠っている俺を起こさない様にベッドへ滑り込む。それはもちろんここで眠る俺とは違う俺だ。俺は眠りながらこう思う。もう隣人は帰ってこないかもしれない。
72夜 夜という巨大な生物について
巨大な生物である夜を散歩させる。その準備をする。まずは巨大な夜の体を洗う必要がある。夜の体はドロドロの黒い汚れで覆われている。まずはそれを落とさなければならない。その後に夜の歯を磨かなければならない。磨かなければ夜の歯は抜け落ちてしまう。
73夜 真昼の深夜
女の手を握っていると妙に冷たかった。太陽は照りつけているが暑さを感じない。女と二人で歩いていると向こうに森が見えてきた。森はあんまり好きじゃない。何となく閉じた空間をイメージするからだろうか。それにしても何でこんなところに来たんだっけ?女の顔を見ても感情は読み取れなかった。女の手にはランチが入った籠が揺れている。女にピクニックがしたいと言われてこんなところまで来たんだった。森の入り口まできたところで中に入らなくてもここら辺でレジャーシートを敷いて食べればいいんじゃないかと言おうとしたが「さぁ行きましょう!」と声を弾ませて女が手を強く引くので言いそびれてしまった。
森の中はやけに暗かった。まるで夜になったようだった。女の手はますます冷たくなっていった。俺は手に汗をやたらとかいてびちゃびちゃだったが女は気にしていない様だった。顔を見たがますます表情がわからなくなっていた。森の奥へ進むほど女が自分の知らない何かになっていく様な気がして思わず手を離した。女が無表情でこちらを見た。俺はトイレに行ってくるとウソをついて一旦その場を離れた。女から見えないところまで来て深呼吸をした。何かが変だ。でもそれが何なのかはわからない。とりあえず戻って今日は気分が悪いので帰ろうと女に言う事にした。
戻ると女の姿がなかった。スマホで連絡しようとしたが電波がない。一人で奥に行ったのか?ここは一本道だから道を外れない限りは迷うことはなさそうだ。もう少し奥まで行ってみて女が見つからなかったら森を一度出よう。そうすれば電波もあるはずだ。そう考えていると森の中でガサガサと音がした。女が戻ってきたのかと思ったが別の女だった。歳は50かそこらだろうか。中年女は何かを探している様だった。中年女はこちらに気がついて近づいてきた。
「ちょっといいかしら。男の人見かけなかった?」と聞かれたが誰も見かけていない。こちらも女を見なかったか聞いたが見ていないと言う。
「一人でこんな暗い森にいるのも不安だしお互い人を探してるなら一緒に探しましょうよ?案外向こうも一緒にいるかもしれないし」そう中年女に言われてそれもそうだと思い一緒に探すことにした。中年女の顔にはどことなく見たことがある様な気がした。でもそれがどこだったかは思い出せない。中年女は聞いてもいないのに自分が探している男の話をし始めた。
「その男とはいわゆる不倫関係ってやつでね。腐れ縁って言うのかしらね。元々の出会いは学生の頃なんだけどさ。その時に飲み会であいつの仲間も含めて5人に犯されたのよ。それから何年も会ってなかったのに最近再会して今はどういうわけか不倫してるってわけよ。面白いでしょ?」と言われたが全然面白くないしどう反応していいのかもわからず黙っていた。
「そういえばあんたあいつの若い頃にちょっと似てる」と言って甲高い声で笑った。笑い声が森の中に響いた。
しばらく歩いていくと少し開けた場所にでたが相変わらず夜の様に薄暗かった。奥に何かがある。近づいてみると大きな檻だった。熊でも捕獲するんだろうか?檻の扉は開いていた。何かが弾ける様な音がした。気がつくと檻の中にいた。頭が割れてるんじゃないかと思うくらい痛かった。どうやら殴られたらしい。あの中年女が殴ったのか?でも何で?檻から出ようとしたが扉が閉まり鍵がかかっていた。今何時位なのかと思いジーンズからスマホを出したが充電が切れていた。ケタケタとおかしな鳴き声の鳥が鳴いている。今が夜だろうと昼だろうと関係なくこの森はずっと夜なのかもしれない。後頭部を触ると生温かい感触がある。何だか風呂に入っている様な感覚で気が遠くなりながらあの中年女が誰だったか思い出す。よく行く近所のスーパーマーケットのレジ係だった。だから何なんだよ。
74夜 チャイナタウン
何が食べたいかわからない。でもお腹は減っている。家に帰ってから作るのも面倒だった。やけに賑やかな灯りがぼんやりと浮かび上がっている。中華街だった。少し離れた場所から夜見る中華街は何となくこの世という感じがしない。ふらふらとそちらへ向かって中華街の入り口で今夜は中華にしようと決めていた。そう考えると食べたいメニューがどっと頭だか胃袋だかに溢れてきた。平日なのに中華街は混んでいた。何を食べようか考えながら歩いていると人混みの中に見知った顔を見つけて思わず隠れた。昔付き合っていた彼氏だった。なんで隠れたんだろう?と自分でも不思議だった。そんなに気まずい別れ方をしたわけでもない。いや、今では何で別れたのかも覚えていない。何となく話しかけてみようかと言う気になった。どこに行ったのかと探すとすぐに見つかった。相変わらず背が高い。って背の高さは変わらないか。元彼は狭い路地へと入っていった。向こうも一人で来てるみたいだった。自分と同じ様に仕事帰りでたまたま寄ったのかもしれない。
ついていくと元彼は店に入っていった。店の前には見たこともないほど太った男が座っていた。店の扉の前に立つとその太って男が無言でドアを開けてくれた。私はお礼を言って中へ入った。思っている以上に広い店内にはお客さんがたくさんいた。その隙間を縫う様にして店員が片言の日本語でテーブルへと案内してくれた。驚いたことに店員が全員外にいた男と同じくらい太っていた。そして顔も似ていた。家族なのだろうか?私はメニューがないことに気がついた。店員に聞こうと思っているとラーメンが運ばれてきた。ラーメンの透き通った汁に店員のツルツルとしてブヨブヨの太って指が浸かっていた。どうやらメニューはこのラーメン以外ないので席についた時点でラーメンが運ばれてくるシステムらしい。麺とスープ以外に具は入っていなかった。店内を見回したが元彼の姿は見えなかった。指が浸かっていた事を思い出したが何故かあまり気にならなかった。スープを一口飲むと余りの美味しさに一気喰いしてしまった。それでもまだ食べられるのでおかわりを注文した。すぐにラーメンが運ばれてきた時、また指が浸かっていた。それをみてその指も舐めたいと思った。何故かその指が元彼のアレと似ている様な気がしながらあっという間にラーメンを平らげた。
結局元彼には会わなかった。自分の見間違えだったのかもしれない。家に帰ってシャワーを浴びて既に眠っている今彼を起こさない様にそっとベッドに忍び込んだ。今彼のアレを優しく握りながらラーメンに浸かっていた店員の指の感触を想像した。いつの間にか眠っていた。その夜は夢を見た。自分にとても太った子供がいる夢だった。次の日に私は妊娠していることがわかった。
75夜 voice
目が覚めてもまだ夜だった。トイレにいくと獣の様な声が聞こえた。ベッドで眠っている妻が出す寝言だった。大きな獣の様な声で妻がこんな声を出せるのかと不安になった。何か悪い夢でもみているに違いない。心配になって身体をゆすって起こすと驚いた顔をしている。
「え?誰?何?」と言って後退る妻をみてますます不安になった。余程怖い夢をみてまだ頭が混乱しているに違いない。
「大丈夫?怖い夢でも見たのかい?」
そう言うと妻の表情がスーと消えていった。
「夢見てんのはあんたの方よ」と呟く。何を言ってるんだ?と思いながらもなぜか背中に冷たい汗が流れる様だった。「水持ってくるよ」と言ってキッチンへいきコップに水を入れて深呼吸した。寝室に戻ると妻はいなくなっていた。部屋の外に出た気配なんてなかった。窓も閉まっている。コップの水を飲むと錆びたような臭いがした。窓の外を見ると誰かが立っていた。妻かと思ったが違った。男だった。男は手を挙げてこちらに挨拶した。窓を開けて男を見たが見覚えがない顔だった。「よう」と言われたが思い出せない。「こんな夜中に何のご用ですか?」と聞くと男は呆れた顔になった。「何の用ってお前が呼んだんじゃないか?まぁとりあえず中へ入れてくれ」と言いながら勝手に入ってきた。
「ちょっと待ってください、今はそれどころじゃ」「何だ何があった?」そう言われて簡単に今あったことを説明した。
男は冷蔵庫から勝手にビールを取り出して飲みながら大笑いした。「何言ってんだよ?お前結婚なんかしてねぇじゃん」そう言われると確かにそうだった。自分に妻なんていなかった。
それから男と二人で学生時代の思い出話を肴にビールを飲んだ。記憶にない男だったが話していると確かに学生時代にそんなことがあった様な気がしてきて段々楽しく飲んでいるうちにまた眠気に襲われていつの間にか眠っていた。目が覚めるとまだ夜だった。手にビールの缶を握ったまま眠っていた。男の姿はなかった。窓から風が吹きこんできた。窓の鍵を閉めてベッドに入ると獣の臭いがした。
76夜 dance
クラブの暗闇で一人で座りながら踊る人たちの影を眺めていた。音楽もよくわからないしお酒も飲めないし人とうまく話せないのに何でこんなパーティーに来ちゃったんだろう。友達は男の子とどこかへ消えてしまった。何人かの男の子が話しかけてきたけどうまく応答できなくて呆れられてしまったのか鼻で笑いながらすぐに別の女の子の方へ行ってしまう。どうしようかな。もう帰ろうかな。視線を感じた。見ると踊る人混みの影の隙間でこちらを見ている人がいた。赤いドレスにストラップの靴のものすごい美人だった。美人はゆっくりとこちらへ向かって歩いてきた。何か言おうと思ったが口がうまく開かないし身体も金縛りにあったみたいになっている。こんな美人は見たことがなかった。一体わたしに何の用だろう?美人は自分の右目に手を当てた。ぽろっと右目が取れて掌にのっている。わたしは相変わらず何も言えないで美人の眼球が取れた右目の穴を見ていた。義眼なんだろうか?右目の穴が少し光った。細い光線が美人の右目の穴から出てわたしの左目に刺さった。それからわたしは訳もわからずに踊り続けた。音楽が鳴り止むことはなかった。
77夜 rhythm
夜、中学生の息子の部屋が少しだけ空いているのを見つけて閉めようとしたが何となく部屋に入ると静まり返った部屋はいつも通り綺麗に整理されている。今夜は友達の家に泊まりに行っているので息子は留守だ。整理された部屋のベッドの下に何かが見えた。見てみるとDVDだった。盤面は真っ白で何も書かれていないDVDがベッドの下に大量にあった。年頃の男の子ならアダルトビデオ的なものを隠し持っていてもおかしくないけれど、これは少々量が多すぎる。悪いとは思ったが息子の部屋のテレビでDVDの中身をチェックした。どこかのビルの中で若い女の子が5人椅子に座っている。外国語で男が何かを言っている。それは何と言っているのかわからないが同じフレーズを繰り返している。それはやがてリズムになり5人の女の子たちがその声に合わせるように動いている。これは何だ?音楽なのか?アート的なやつか?よくわからない。よく見ると5人の女の子たちは顔がそれぞれ微妙に似ている。姉妹なのか?いや、もっと嫌な違和感があった。その5人は微妙に息子にも似ていた。他のDVDを見ると違うおじさん5人が今度は手を叩いてリズムを取っている。手を叩くリズムがそれぞれずれているのにちゃんとリズムになっている。そして5人のおじさんもまたそれぞれ微妙に似ているし息子にも似ていた。頭が混乱して何も思考できず只々画面を眺めていた。いつのまにかDVDは終わって黒い画面になっていた。どこからか木琴を叩く音が聞こえた。息子の部屋の窓を開けて耳を澄ませたが音がどこから鳴ってきているのかわからなかった。
78夜 roll
「夜はいつでも回転している」雑音の混じった音の中で多分そんな事を言っていた。カーラジオはまた雑音を流し始める。男は運転しながらラジオのチューニングをくるくる合わせようとしても、うまくいかない。今のはどこの局なのかわからない。他の局にも合わない。後続車のライトがバックミラーに反射する。バックミラーを見ると後ろに誰か乗っている。目が合った。女?驚いて急停車してしまう。後続車はどこかへ行ったみたいだ。女は不思議そうな顔でこちらを見ている。「えっと、誰ですか?」「つまりはそう言う事でしょ?」何を言っているのか全然分からん。「夢の論理で読まないと読めない現実もあるんじゃない?」「これは夢ってこと?」「そんなわけないでしょ。とにかく走って」とにかく走り始める。腹が減る。現実的に。
ファミレスに入った。女はでかいパフェを注文した。男は目玉焼きハンバーグステーキのダブルにライス大盛りを注文した。「ところで本当に君誰なの?」「あんたこそ誰なのよ?」「え?俺は俺だけども」あれ、俺って誰だ?自分の名前が出て来ない。ファミレスのガラスに映る自分の顔を見た。俺こんな顔だっけ?なんか違う。見覚えはある。「わたしここに来たかったの」「このファミレス?」「ここに来る夢を何度も見た。あなたはそこに座ってた」「訳がわからない」「本当にわかることなんてあると思うの?」「何が?」パフェが来た。「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?でしょうか?」「いや、まだハンバーグステーキきてないけど」「ご注文されてないようですね。すぐにご用意します」そう言って目の充血した店員は片手に持った目玉焼きハンバーグステーキの鉄板を隣に座る老人のテーブルに置いた。老人はハンバーグステーキを食べながら「まずい。まずすぎる」と呟いている。
79夜 Sunny
深夜の道路には他に車がいなかった。特に目的地もなくまだ通ったことのない道をなるべく選んでドライブしていると道に迷った。車の電力の残量が少し心配になって路肩に停車した。周りを見ると街灯が点々とあるが道の先は見通せない。周りには田んぼやら土砂の山の上にショベルカーが剥製にされた動物みたいに停止している。民家もあるがどこも電気が消えて静まりかえっていた。Googleマップで道を調べようと思ったがスマホを家に置いてきたことに気がつく。走ってきた道筋を思い出しながらシュミレーションしてみるとこの先で右に曲がればでかい道路に出るはずだ。そうすればスタンドもあるだろうと楽観的にエンジンをかける。暗い道を進んでいると「ねぇ」と声がして「わぁぁ!」と間抜けな声を出して急ブレーキをかけてしまう。後部座席から女の顔が出てくる。「ちょっと、危ないじゃない」とちょっと笑いながら言う女に見覚えはない。「これかけてよ」と言って女はカセットテープを渡してくる。思考が追いつかない。カセットテープを眺めていると「何やってんのよ」と女がテープを奪い取ってカーステレオに差し込んだ。え?カセットプレイヤーなんてこの車についていないのに?
音楽が流れ始めて女は後部座席にもたれながらタバコに火をつける。禁煙なんですけど、ってことよりあんたは誰?と言いたいのに言葉が出てこない。「さぁ行きましょう」と言われて無言で車を発進させた。広い道路に出るとやたら街灯や店の灯りで明るかった。バックミラーで外の灯りに照らされる女を見た。唐突に昔見た映画を思い出した。それは終電を逃した日にレイトショーで観た映画だ。内容もタイトルも思い出せないが一場面だけは覚えている。自分にそっくりな人間が出ていたからだ。世界には3人自分に似ている人間がいるらしいが間違いなくその一人だ。なぜか恥ずかしくなって顔を隠したくなった。見知らぬ観客は何人かいたがそのことに気がつく人はもちろんいない。劇中でもこの曲が流れていた。というより映画で観たままの場面が今再現されている。映画に出ていたのはこの女だった。車を運転する俺にそっくりな俳優と後部座席でタバコを吸う女は映画で観たままだ。映画を観た後で気になって自分にそっくりな俳優の事を調べようとしたが結局わからなかった。でも劇中で流れるこの曲のことは気に入ってレコードを持っていた。Bobby Hebbの『Sunny』だ。
その場面から映画がどうなったのか全く思い出せないまま走り続けフロントガラスの向こうから観客の視線を感じていた。
80夜 鍵
老齢の大統領はホワイトハウスの中を歩いていた。真夜中の誰もいないハウスを歩くのが好きだった。すると音が聞こえる。どこから聞こえてくるのか?探してみると東棟のファミリーシアターからだった。シアターには映画が映し出されていた。戦争映画だ。大統領は自分も昔この戦争に行った事を思い出していた。すると画面の奥に見覚えがある顔が見えた気がした。それはその戦争で死んだ戦友だった。戦友にそっくりなエキストラが出ているのか?この映画は何というタイトルなんだろう?そう思いながら画面の中に戦友を探していると今度は自分にそっくりな顔を見つけた。そんな事がありえるだろうか?若い時の自分や死んだ戦友にそっくりなエキストラが昔行った戦争を舞台にした映画に出ているという偶然がありえるんだろうか?それにこんな深夜に誰が映写しているんだ?そう思って映写室へいく。扉を開けると誰もいない。古い映写機は回転していない。映画なんて投影されていない。寝惚けたんだろうか?また妙な音が聞こえた。外からだ。建物に何かが落ちて当たっているような音だ。雹でも降っているのか?窓から外を見た。何かが降っている。それは鍵だった。大量の鍵が空から降っていた。
81夜 偶然の映画
熱がある状態で文章を書くとどうなるのかと思いこれを書いています。それというのも今は真夜中で熱が何度あるのかわからないですが、冷たくて熱い体を毛布に包んで家の中を移動してホットレモンを飲みながらテレビをつけると映画をやっていました。知らない監督で知らない俳優たちばかり出ているし内容的にも普段観ない映画だけれど暫くぼんやり眺めていると昔観たことを思い出しました。何歳かわからないですが、子供の頃でまだ映画なんて観ていなくてアニメや特撮ヒーローやら怪獣やらロボットやらが出ているものしか観ていない頃だったと思います。今と同じように風邪をひいて熱が出て一日中眠っていたし熱のせいもあって身体中が重いし痛いので目が覚めて眠れなかったです。家中静まり返って家族はみんな眠っています。毛布を巻き付けてぬるい麦茶を持ってテレビの前に来ました。テレビをつけると知らない外国人のおっさんたちが動き回っています。途中からでしたし内容なんてよくわからないのに何故か夢中で観ていました。本当に夢の中で見ているようなふわふわした感じを覚えているし思い出しました。
いつの間にか眠っていました。朝起きると熱が下がっていて、偶然の映画によって昔と今がつながったような気がしたんですが、もちろんそんなことはありません。同じ映画なのにそれは違う映画に変化しているような気がします。この映画を今観ても熱は下がらないでしょう。
子供の頃の思い出を今思い浮かべるのと、10年前に思い浮かべるのと、10年後に思い浮かべるのはそれぞれ全く違います。同じ記憶もそれを思い浮かべた瞬間にその時だけの思い出として想起されています。過去は変わらないわけではなく、過去は思い浮かべる度に変化しているんです。
外はまだまだ真っ暗で、偶然の映画はこの文章を書いている間にエンドロールが流れて孤立する真夜中を知らせています。
カップに入っている飲み物を飲むと麦茶になっています。ホットレモンを飲んでいた筈なのに?過去が未来を思い出すことも稀にあるのかもしれません。
82夜 泥棒
今日は仕事を休みにして久しぶりに飲みにいった。店を出ると雨が降っていたが傘を持っていないのでそのまま濡れて帰った。昔から傘を差すのが苦手だった。酔いも醒めて帰宅すると部屋の物が綺麗になくなっていた。泥棒が泥棒に入られるとはね。部屋にあったのは盗んできた物ばかりだった。もうどこで盗んできたのか思い出せない。押し入れを開けるとひとつだけ盗まれていない物が残っていた。懐かしいラジオだった。これは盗んだ物じゃない。盗みを始める前に持っていた物だった。もう随分前に処分した筈だ。なのになんでここにあるんだろう?まぁいいか。しかし盗んだ物は盗まれて自分の物は盗まれないなんて皮肉というか奇妙なこともあるもんだ。ラジオのスイッチを入れるとまだ電源が入った。ラジオから誰かが話している。時間の進む速度が速くなっているらしい。宇宙規模での重力の異常が発生しただとか、それは極小のブラックホールが原因だとか、通常のエントロピーの増大とは異なっているだとか科学者たちがあれこれ好き勝手な事を言っている。どうせ全部間違っている。外ではゆっくりと雨が降り続けている。俺はなんで泥棒なんかになったんだっけ?思い出そうとしてもうまく思い出せなかった。たぶんもうここは過去とも未来とも繋がっていない。この雨が宇宙をゆっくりと腐らせていった。
83夜 日常
彼女の不機嫌な顔が見える。なんで不機嫌なのかわからない。特に理由を思いつかないってことは僕には想像できないような理由に違いない。なんてことを考えていることがバレたらさらに不機嫌になるに違いない。こういう時は何も言わない方がいいに決まっている。なのに思わず聞いてしまう。
「どうしたの?」「もし私が死んだらどうする?」「そんなこと考えてたの?」「たぶん君は私が死んでもいつも通りご飯食べて、もち丸の散歩して、テレビ見ながら笑って、お風呂に入って、ビール飲んで、歯を磨いて眠る前にはちょっと私のこと思い出して寂しくなるけど、すぐにぐーすか眠りにつくのよ。枕は涙じゃなくて熟睡した涎で濡れるだけなのよ」そう言われてそのことについて考えてみた。「それはどうかな。常に君のことを考えていると思うけど」「そんなわけないでしょ」「どうしてわかるんだよ?」「私は君が死んでもたぶんいつも通りの生活を送っているからよ。何も変わらないで普通に時間が流れていくの。それに対して私はなんだか腹が立つのよ。そんな風に普通に過ごす私に対しても先に死んじゃった君に対しても」
「俺は先に死んだりしないよ」それに対して彼女が何か言ったようだったけれどよく聞こえなかった。昼間だと思っていたが外はもう暗かった。彼女に話しかけても無視された。機嫌が直らないらしい。今夜はもう放っておいた方がいいかもしれない。彼女は一人で寝室へ入っていった。僕は何故か全く眠くならない。テレビをつけたがどの局も何も映らない。時計を見ると時間が溶けている。僕はゆっくりと夜の闇に溶けていく。
部屋の大半を埋めるサイズのベッドの広さにまだ慣れない。私一人で眠るには広すぎる。明日は早いのに目が覚めてしまった。私は目を瞑りながら死んだ彼のことを思い出して少し寂しくなったがすぐに明日やるべきことをイメージしていた。すぐに眠くなって眠った。
熟睡できたおかげで朝は頭がスッキリしている。枕にできた涎の跡が架空の大陸のように見える。あっという間に1日が過ぎた。いつもと変わらない日だった。そのことに対して何だかムカつく感じがしたけれど、どうしてそう思うのかはわからなかった。というよりどうでもよくなった。中華萬次のニンニク丸ごと入り餃子がいつも通り最高に美味かったからだろう。
84夜 月を釣る
男と女が部屋の中にいた。
部屋の隅には幽霊がいた。
幽霊は何かをしゃべっているが男女には聞こえていない。
幽霊にとって1日は24時間ではなくなった。
腕時計の針は既に鳥のように夜の中へ飛んでいった。今頃はアフリカ大陸に向かっているのかもしれない。
幽霊は老人であるのと同時に子供でもあった。
男が何かを決断できないでいるのを女は見つめていた。女はタバコに火をつける。女の匂いとタバコの煙が混じり合う。幽霊はかつて自分がこの男だったことを思い出していた。
窓の外を見ると見知らぬ女たちが湖に髪を垂らして月を釣り上げている。
85夜 エレファント
布団に入って眠っている時にあるアイデアを思いついた。朝になったらきっと忘れてしまうが、寒いので布団からわざわざ出てメモをとるのも面倒だ。
しかし今書き留めておかなければ永遠に思いつくことはないかもしれない。まずは言語化してすぐにメモに取れるようにしよう。頭の中でアナログなイメージのアイデアを言葉に変換していく。止め処なく言葉が溢れてくる。アナログなアイデアの種はすぐに芽を出して巨大化していく。周りに生えているアイデアも巻き込みながらさらに巨大樹となっていく。
これはもう書き留めておくのにかなりの時間がかかるが仕方ない。そう思って起きあがろうとすると体が動かない。金縛りにあっている。なんでこんな時に!
体は全く動かないが瞼は開いた。
目の前に巨大な象がいた。
この家に入れるようなサイズじゃない。
象の幽霊?
そんなはずはないだろう。
金縛りは体は眠っているが頭の意識だけが起きている状態だと何かで読んだことがある。半分は起きて半分は眠っているという状態らしい。現実の風景に夢の映像がレイヤーを重ねるようにして見せているとかなんとか。
後ろの背景として見えているのは自分の部屋だ。それは本物で象だけが夢の映像ということだろう。そうは思っても象は消えたりしないし体も動かない。
象は長い鼻を眠っている俺の耳にくっつけてきた。これは現実じゃない現実じゃない現在じゃないと念じていると、掃除機のような音を出して俺の耳の穴の中を吸い込み始めた。耳の中から何かが抜けていくようだった。
気がつくと眠っていた。
朝になっている。
コーヒーを飲みながらテレビのニュースを見る。
何か忘れているような気がする。
しかし思い出す事はなかった。
86夜 壁
アールデコだかアールヌーボーだかの模様を施された大きな額縁に入った絵がある。シミのある壁のような抽象的なものを描いた大きな絵だった。壁にはシミや落書きが描いてあった。作者不明のその絵は資産家の屋敷に飾られていた。
パーティーを抜け出して広い屋敷の中を探索している時に見つけた。どこかで見たような気がする。しかしこの屋敷に来たのは初めてなのでここで見たわけじゃないだろう。
しばらく眺めていると違和感があった。それがなんなのかすぐにはわからなかった。更にじっくり見ていると気がついた。
壁のシミが増えている。
ゆっくりした変化なのでパッと見ただけではわからない。壁はどんどん劣化していく。少しずつ剥がれ始めている。
絵に見えるが映像なのか、それともそういう仕掛けがされているアート作品なのかはわからなかった。
気がつくとパーティーで伴奏されていたピアノの音は止んでいる。
どのくらい見ていたのか。腕時計を見たが止まっていた。会場に戻ると誰もいない。
それどころか屋敷はいつの間にか荒廃し廃墟と化していた。
何がどうなっているのかわからない。外はずっと太陽が照り付けていた。屋敷は海辺にあったはずだが砂漠になっていた。いつまで経っても陽が落ちない。時間がどこかへいってしまったみたいだった。
大きな絵があった部屋に戻る。額縁の中の絵の壁は剥がれきって暗闇になっていた。暗闇に触れると中へ入れる。額縁の中に身を入れると少し涼しくて心地いい。
そのまま暗闇に入って奥へと歩いていった。
歩く度に靴音が響く。その響きが心地よくて思わずタップを踏んだ。タップダンスをしながら最初に見た絵の壁のシミや落書きを子供の頃に見たことを思い出した。小さい頃に住んでいた故国を囲っていた壁に落書きした壁だった。
87夜 A Whole New Thing
パーティー会場はそれほど広くはない。ラウンジDJが会話が成り立つ程度の音量で音楽を流している。誰もが話しているがあまり話が頭に入ってこない。どうにも居場所がないような感覚が急に襲ってきてすぐにでも帰りたい。会話は途切れてもまたすぐに別の会話が始まっていく。きりがない。
奥の方で妻と見慣れない男が話している。時折男が不穏な目でこちらを見てくる。どうにも居心地が悪い。何気なく会話の輪から抜け出して妻の横にいくが気が付いてもらえない。
腰に手を回すとこっちを向いて「あら!」というはしゃいだ声を出した。
「今ちょうどあなたの話をしてたのよ!」そういう妻の目が輝いているのを見て胸が騒つく。
「この曲!」と言いながら妻は男の方を見た。
「この前のブルーノートで聴いたのは最高だったな」「本当に!スライは最高ね!」という二人の会話を聞きながら照明が暗くなっていった。
ブルーノート?なんの話だろう。何の話なのか聞く前に妻が言った。「あなたはまだ帰らないでしょ?私は送ってもらうから心配しないでね。ちょっとお手洗いに」そう言って妻が行ってしまうと男と二人になった。
「魅力的な女性ですね」そう言われて一瞬何の話なのかわからなかった。「ええ、ああ」と間抜けな声を出す。「いい夫の条件が何かわかりますか?」
「え?」
「何も感じないことですよ。何も見ないし何も聞かない何も考えずにいることが最良な夫の条件です」
暗くなった会場の中で男の目が光っていた。何か危険なものを感じた。とても恐ろしくなった。妻を引き止めるべきだと思いお手洗いの方へ顔を向けると肩に手を置かれた。男が耳元で囁く。
「余計な思考は危険を招くぞ。下手に触ると恐ろしいことになりかねない」男がまるで人間ではない、何か不吉な存在のように感じた。男の眼を見ると真っ暗だった。今まで見たどの黒よりも黒かった。これ以上この眼を見てはいけない。背中に冷たい汗が流れている。
それから時間は湿ったスナックのように流れた。
妻と男が出ていくのを呆然と見送った。
手に持ったビールがぬるくなっていた。
最早何も考えることができない。
パーティー会場は更に暗くなりSly & the Family Stoneの「Underdog」が流れている。DJは徐々にボリュームを上げていく。
何も考えることができなければ踊るしかない。
こうしてわたしは最良の夫になった。
88夜 Descendants of the Weekend
今は第六話だと思っていたがどうも違うようだ。第一話の前に最終話があったらしい。らしい?なんではっきり断定できないんだろう?それを知っているのが自分であって自分ではないからだ。つまり第一話の前にあった最終話は別の話の最終話だったと言うことだ。そしてそれを知っているのは別の話の最終話の方にいる自分だ。
最終話の自分は死にかけていた。胸に銃弾を受けている。
「一体何があったんだよ!?」
「大丈夫だ。俺は死ぬことはない。おまえが生きているのがその証拠だ」
「は?どういうことだよ?」
「俺の続編がおまえだからだよ」
「もしそうなら俺がそれを知らないのはおかしいだろ!」
「おまえはこれから記憶喪失になるんだよ」
「なんでおまえが知ってんだ?」
「予告編で観た。とにかく着いてこい」
気がつくとどこかに座っていた。暗闇の中で目の前に文字が流れている。どっかのバンドの曲が流れている。これはスクリーンか?エンドロールが流れているようだった。エンドロールが終わって明るくなった。劇場にいた。映画館だ。周りを見た。客席には誰も座っていない。これでよく続編作れたな。
かなり古い映画館だ。廃墟みたいだな。売店には埃を被ったパンフレットが並んでいる。スタッフがどこにもいない。壁に貼られたポスターは破れている。外に出ると見たことのある風景だった。ニューヨークだ。実際に行ったことはないが、映画で観たことがある。しかし周りの誰もが日本語で話している。
なるほど。
どうやらここは吹き替え版のようだ。
89夜 Chord
最終電車は空いていた。自分の他には三人ぐらいしか乗っていない車両の一番端のボックス席に座って真っ暗な外を眺めていると何もない空き地の街灯の下でトロンボーンを吹いている人がいた。一瞬音が聞こえたような気がした。コードはFのように聞こえた。そう思っていると歩道橋の上でトランペットを吹いている人がいた。夜の中へ吹き抜ける音のコードもFだった。トンネルを抜けるとビルの屋上でドラムを叩いている。駅に着くと僕は鞄からサックスを取り出してホームに出た。他に乗っていた乗客もバイオリンやフルートやウッドベースを持って出てきた。改札口に向かうための階段が鍵盤になっていた。街に吹き込む風がコードを知らせている。
駅員が指揮棒を上に掲げてカウントを始めた。
90夜 convenience store
深夜目的もなくドライブしていた。缶コーヒーを買いにコンビニに寄る。肌の赤黒いおっさんが一人レジにいた。何気なくおっさんの胸元にある名札を見ると写真が全く違う。ちょっと可愛い感じのギャルだった。おっさんの顔をもう一度見ると弛緩した表情でどこか定まらない一点を見ていた。もしかすると名札を間違えたのか、もしくはこのおっさんとバイトのギャルが付き合ってて、悪ふざけで名札を交換しているのかもしれない。
そう思っていると店の奥からもう一人の店員が出てきた。見るとレジのおっさんと全く同じ顔だった。レジに同じ顔のおっさんが二人並んだ。後から来たおっさんの名札を見ると大学生くらいの男の子が写っている。どう言うことだろう?このコンビニでは、ある程度の期間働くとみんな同じ顔になるのだろうか?缶コーヒーを買って店の外で飲んでいると窓ガラスにバイト募集の張り紙が貼ってあった。「私たちと楽しく働きましょう!」という文言の下に店員がみんなで写っている写真があった。全員同じおっさんの顔だった。
91夜 Closing Time
昼食にパスタでも茹でようかと思い鍋でお湯を沸かしているとインターフォンが鳴った。インターフォンの通話ボタンを押すと友人のKだったので、「まぁ上がれば」と言って家の中へ通した。
「喉乾いたなぁ」と言いながら勝手に人の家の冷蔵庫を開けるところは変わっていない。冷蔵庫からビールを取り出してソファーに座って飲み始めた。つられてこちらもビールを飲む。
「お前も食うか?」と聞くと「頼む」と言ってKはビールを持ち上げた。ミートソースのパスタを作って二人で食べている時に思い出した。
Kは3年前に死んだはずだ。
「お前死んだよな?」
「まあね」
「随分元気そうじゃないか」
「それほどでもないさ」
「アホか。嫌味だよ」
「パスタなかなか美味いよ」
「パスタ食いにきたのかよ」
「違うよ」
「じゃあどうした?」
「盗まれたんだよ」
「何が?」
「墓」
Kが言うには自分の墓が丸ごと消えたらしい。
「なんで盗まれたって思うんだよ?」
「書いてあったんだよ」
「書いてあった?」
「盗んだ後に〇〇を頂戴しましたとかルパンとかが置いておくような置き手紙みたいな」
「なんて書いてあったんだよ?」
「あなたの墓を頂きましたって」
「なんだよそれ?誰が盗んだかわかってるの?」
「それも書いてあった」
「マジで怪盗ルパン?それともキャッツアイ?」
「いや、お前」
「え?」
「お前の名前が書いてあった」
それからしばらくお互い黙ったままパスタを食べ続けた。ビールを飲み終わったKは冷蔵庫からビールを取りに行くついでにレコードプレイヤーにレコードをのせて回転させた。トム・ウェイツのクロージングタイムだった。昼食時には向かない選曲だ。こいつは時間というものに頓着しない傾向があった。死んでからそれが更に酷くなったのかもしれない。幽霊になると時間のことなんてきっとどうでもよくなるに違いない。
食べ終わって2本目のビールを開けながら言った。「お前の墓は盗んでないぞ。盗む意味もないし」「まぁそうだな」どうでも良さそうにKは言いながら外を見た。「天気いいな。ちょっと散歩するか?」
たしかに気持ちがいい。ちょっと海岸まで行こうと言うことになった。砂浜を歩いていると夕陽が落下し始めている。もうこんな時間か。ドラム缶に火を起こして網を引いてスルメや片口イワシやらを焼いている爺さんが三人いた。何となく見ていると「食うか?」と手招きされたので輪に加わった。
「そんならビールでも買ってくるわ」と言うとKは待ってると言う。コンビニで人数分のビールを買って戻るとKの姿はなかった。
「あれ?俺の連れはどこ行きました?」と爺さんたちに聞く。「帰る場所がわかったって言って行っちまったぞ」と海の方を顎で示した。爺さんたちにビールを渡して片口イワシとビールを口に入れながら海を眺めた。燃えた流木からパチパチと音が鳴った。
「まぁそういうこともあるわな」と爺さんの一人が言った。空は暗幕が降りたように真っ暗だった。
92夜 All Tomorrow's Parties
報酬はぼちぼち上昇傾向にあった。鰻ほどではないが鯖くらいだ。鯖がどこへ行くのかは知らんけど。
社長が言う。
「別に減るもんじゃないんだからいいじゃない」
おかんも妹も言う。
「ええやん。そんくらい減るもんちゃうし」
「税金みたいなもんちゃうの?」
こいつら全員焼きそばだよ。
具のない焼きそばだ。減ってんだよ!私の何かがさ!
そいつは目に見えるわけじゃないけどさ。私の中にあるとかでもない。私の何かは夜の中にある。ここが昼間でもどこかはいつでも夜なんだ。日々回転し続ける夜の中に私の何かはあるし、それは間違いなく減っている。誰も見えないし誰も知らないから私の何かは無いことになっているけれど、私の何かは確実に存在してる。
熱い風呂を沸かして閉店間際の店で買ったばかりのスカーフを首に巻いて上下白のジャケットとパンツ着たまま湯に浸かる。ヴェルヴェットアンダーグラウンドのニコみたいな格好だ。ソファーで腐り始めている元カレの携帯がメッセージを受信し続けている。頭のてっぺんにハサミが突き刺さっている元カレとそれを写真に撮っている自分を思い出してわらけてきた。ハサミの取手の輪っかが小さいネズミの耳みたいでかわいいってアホか私は!
風呂場で笑うと声が響いていつもより笑っているような気がする。笑い疲れて湯船に浸かりながら上を見ると換気扇がうるさく回転して笑い声の残響が吸い込まれていった。夜の中にある私の何かはまた少し減っていく。
93夜 夢の涯てまでも
なんとなく、誰も自分の事を知っている人がいない場所へ行きたいと思うが、それはなかなか難しいと彼は考える。隣で眠る(実際には眠ってはいないが)彼女を起こさないようにベッドを抜け出して静まり返った街に出る。建物の明かりも街灯も全て消えている。月明かりに照らされた城やゲートを通過する。彼は車も持っていないし最終電車の時間も過ぎている。歩きながら何処かを目指した。知らない場所ならどこでもいい。自分の事を知らない街ならどこでもよかった。しばらく歩くと飲み屋街があった。街行く人たちはみんな彼を見つけると声をかけて一緒に写真を撮りたがった。彼はいつもと変わらない笑顔を向けている。それから彼は行く先々で声をかけられた。自分が行ったことのない知らない街でも、みんな彼のことを知っていた。通りかかったバーから音楽が聞こえてきた。今まで聞いたことのない音楽だった。店の前の黒板には「PATTI SMITH AND FRED SMITH Live」と書かれていた。歌を歌っている女性と目が合うとウィンクしてくれた。
彼は結局自分の家に戻ってきた。海に浮かぶ月を眺めながら彼は自分があの月と同じなのだと思った。それは希望とか絶望とかとは無縁の感覚だった。永遠を与えられたネズミは静かにベッドの中へ潜り込んだ。彼の影はずっとベッドの中で眠っていたようだ。彼は夢を見ることはない。なぜなら彼は夢の国にいつもいるからだ。
94夜 ルイ・アームストロング
飛行機の窓を上げるともう夜だった。急に夜になったように感じた。いつも徐々に夜になっていくのが嘘のようだ。突然帰省することになった。母親が再婚するからだ。物事が起こるというのは大抵唐突に起こるものらしい。再婚するような相手がいるなんて全く聞いていなかった。「まぁそういうものよ」と母親は電話口で言っていた。妙に艶っぽい声だった。住んでいた実家は今は他人に貸している。子供の頃に住んでいた家が今は他人が住んでいるというのは何だか変な感じだ。母親と再婚相手は二人でマンションに住んでいる。「あんたが眠るところくらいは作れるわよ?」と言われたが久しぶりに友達にも会うからそっちに泊めてもらうと嘘をついてホテルを予約した。
久しぶりに会った母親は何だか若くなっていた。髪も肌も艶々していた。ネイルされた爪が光っていたし手の皺もなく潤っていた。私は飲み屋の洗い場で洗い物ばかりしているガサガサの手を思わず隠した。やたら高そうなレストランで食事をすることになった。再婚相手は仕事で少し遅れるらしい。母親は食前酒を飲みながら生演奏のピアノにうっとりとしている。そんな母親の姿は見たことなかった。まるで違う人間に見えた。再婚相手が到着した。何だか曖昧な顔の男だった。大学での生活のことなどを聞かれて話したがすぐに話題がなくなった。母親と再婚相手は音楽だとか映画だとかの話を始めた。私は二人が何を言っているのかわからなかった。適当に相槌を打ちながら二人を眺めた。違和感を感じた。母親の右目の下には黒子があったはずだ。それが無くなっている。病院に行けば結構簡単に取れるらしいがいつ取ったんだろう?昔そんな話をした時に「運命が変わるから取りたくないし、わたしは結構気に入ってんのよ」と言っていたのを思い出した。
母親がトイレに行くために席を立った。どうやって食べればいいかわからない料理が運ばれてきてぼんやり眺めていた。白い皿の上でウネウネと何かが動いている。ラブクラフトの小説に出てくる邪神みたいだ。
「この曲は知っているかい?」と再婚相手の男が聞いてきた。顔を上げて初めて男の顔をまともに見た。どうして気が付かなかったんだろう?男はトランプのキングそっくりだった。というよりトランプから抜け出してきたかのようだ。
「この曲はね、ルイ・アームストロングの『この素晴らしき世界』って曲なんだ。君のお母さんとの思い出の曲さ」そう言ってトランプのキングはウネウネと動く邪神を口の中へ入れた。私は震える右手を左手で押さえた。右手は余分な角質が落ちてすべすべになっていた。レストランのギャルソンがテーブルの下に落ちた私の抜け殻をサッと拾い上げて社交ダンスのような身のこなしでテーブルの合間を縫って厨房へと消えていった。
95夜 タクシードライバー
タクシードライバーは乗客を降ろした後に駅前まで戻らずに帰ろうと思った。戻っても今夜はもう客はいないだろう。さっさと帰ってビールでも飲んで熱い風呂に浸かりたい。そう思って走っていると赤い服を着た女が手を上げていた。最近景気も悪い。もう一稼ぎしてから帰ってもいいか。
女を乗せる。
「どちらまで行きましょう?」
「南に向かって」
「海岸方面ですか?」
そうバックミラー越しに聞くと女は静かに頷いた。海岸沿いの国道まで来たが女は何も言わない。しばらく海岸沿いを走っていると外を眺めていた女が唐突に言う。「煙草ある?」
「いや車内は禁煙で」
「それはどうして?」
「どうしてと言われましても。そう決まってるんで」「個人タクシーでしょ?決めたのは誰?」
「まぁ私です」
「ごめんなさい。別に車内で吸うわけじゃなくて砂浜で吸おうかと思ったのよ。あなたは吸うでしょ?」
「いや、やめたんですよ」
「タクシードライバーなのに?」
「タクシードライバーは煙草を吸うものですか?」
「知らない人を乗せて知らない場所へ運んだ後に知らない景色を見ながら吸いたくならない?」
「たまに吸いたくなりますね」
「そうでしょ」
海岸沿いを走っている途中にコンビニがあり女が寄りたいと言うので寄った。女は煙草と缶コーヒーを2缶買って1缶をタクシードライバーに渡した。「ついてきて」と女に言われてタクシードライバーは女の後ろを歩いていると波の音が聞こえてきた。歩く地面の感触が巨大な爬虫類みたいな感触になって目の前に黒いインクのような海があった。女は煙草に火をつけて開け口から煙草が一本飛び出した箱をタクシードライバーに向ける。特に違和感もなく煙草を抜き取って口に咥えると唾液がフィルターに染み込んでいった。女がライターで火をつけてくれた。煙を肺に入れると毛細血管に電気が走って頭の中で彗星のように破裂した。空も海も真っ暗だった。
「どれだけ速く走れば逃げ切れるかしらね?」
「何からですか?」
「寂しさ」
96夜 コルトレーン
長靴を履いてレインコートを着た子供は高速でインターネットに乗る。これから世界を食べるつもりだ。もしかすると宇宙も食べるかもね。カレー味とかサラダ味とかバーベキュー味とか色々楽しめる。高速で走るインターネットはどこもかしこも毛糸のようにぐちゃぐちゃに絡み合っているように見える。どこももかしこもどこにあるのかわからないけれど複雑ぶった世界の抽象画を高速で見るのも飽きてきた。傘を槍のようにして投げ込む。逆向きに開いた傘は花のようだった。明日か明後日か百年後かには誰かがそれを摘みにくるだろう。インターネットに乗って色々な物を投げ込んでいく。まだ誰も知らないことだけれど、その投げ込んだモノ自体じゃなくて投げ込んだ時にできる波紋は時間を超えている。過去にも未来にも干渉するレーンが無数に存在する。現在だけには干渉しない。当たり前のことだけど現在だけには時間がないからだ。5歳の時には全部わかっていた。5歳の時にはすでにパーティーに飽き飽きしていた。だからインターネットに乗っている。
(*でも5歳の時にわかっていた全てはもちろん全てじゃなかった。全ては常に上書きされている)
世界やら宇宙やらを食べるのが目的じゃない。あらゆる人があらゆるモノを高速で投げ込んでいる。みんなそれが過去やら未来やらにどんな影響を与えてるか知らない。それは当然でパーティー中は誰も何も知らないものなのだ。子供だけがパーティーを抜け出せる。波紋だらけの絡みあった抽象画は誰もどうなるのか計算できないと思っている。計算できないと思った時点で計算は狂っていく。計算できると思っているなら未来の自分が計算をしている筈だ。
パークハイアットのジャズバーで計算機を鍵盤みたいに叩く大人になった自分を見つける。酒を楽しむ客に向けて一礼しカウンターでジンジャーエールを飲む自分に計算の結果を訊ねると面倒臭そうに応える。「夜も計算も、もう終わることがないんだよ」そう言いながら口に含んだ氷を飛ばした。店内はやけに静かだった。放物線を描いて飛んだ氷は舞台上に置かれたサックスの中へ入っていった。それと同時に演奏が始まった。テナーサックスとソプラノサックスとアルトサックスという編成だった。三人とも同じ顔をしている。ジョン・コルトレーンだった。
97夜 Revolution 9
プルートーには特殊な能力がある。俺の考えを察知することができるみたいだ。餌とか散歩に関係することだけだけど。冷蔵庫にビールがない。そう言えば今日は雨が降っていたのでプルートーの散歩に行ってないな〜なんて考えているとさっきまでぐうすか眠っていたくせに湿った鼻をこちらにむけて潤んだ目で様子を伺い、もう雨は止んでいて夏が終わりかけて湿気は多いけどなかなか気持ちがいい夜なのでビールを買いに行くついでに散歩でも行くかと思うとプルートーはひと鳴きして玄関に直進する。もうほとんど確信した目で見ている。散歩用のリードを持つのを見ると興奮を抑えられなくて鳴き始める。わかったわかった。
湿気が多いせいで夜の景色はぼんやりして見える。もう22時を回っているのでここら辺でやっているのはコンビニしかない。そこへ向かって歩いていると建築途中の家がいくつかあった。まだ家を潰したばかりの更地もあった。ここが前はどんな家だったのか思い出せなかった。何度も通っているのにまるで記憶がない。あるいは夜のせいで何かが景色を曖昧にしているのかもしれない。プルートーが更地になった方へ行きたがった。既に雑草が生えてきている更地の中央に向かってプルートーは臭いを嗅ぎながら進むと音が聞こえた。更地の中心にゴルフカップほどの穴が空いていた。音はそこから聞こえていた。耳を澄ましてよく聴く。聴いたことのあるような声で「ナンバーナイン」と繰り返している。穴の中を覗くと当然のように暗闇だった。暗闇の中に目が見えた。驚いた拍子にプルートーのリードを離してしまった。プルートーは暗闇へ駆け出した。この更地は崖の下にある。その先は行き止まりで崖の壁しかないはずだ。プルートーの名前を呼びながら奥へ行く。穴からは様々な音が漏れていた。プルートーの姿が見えない。更地の外へ行ったなら見逃すはずがない。辺りを探したが見つからない。犬には帰巣本能がある。きっと帰っているはずだと思って家に帰ったがプルートーの姿は見えない。門を開けてドアの鍵穴に鍵を差し込み、開けると目の前にプルートーがいた。何事もなかったように定位置で眠っていた。首に付いているはずのリードは付いていない。ドアには鍵が掛かっていたし門も閉まっていたのでプルートーだけでは入れないはずだった。どうやって入ったのかプルートーに聴いても鼻を鳴らすだけだった。
次の日に更地に行って見たが穴もなくあの声も聴こえなかった。あの時見た目が本当は何だったのかわからないままだ。あの目は動物とかではなく人間の目に見えたけれど、それと同時に人間ではないものだろうという気もした。それから暫く経ってあの更地で建築工事が始まった。家はあっという間に出来上がった。そこに全く同じ家が二軒並んだ。穴があった辺りがどこかもうわからなかった。そこへ二組の夫婦が住み一組は女の子が産まれてもう一組は子供はいないままだった。それから何事もなく15年が経ち女の子は高校生になった。子供のいない方の夫婦はもっと大きい家に引っ越して家は別の人に貸すことにした。知り合いのミュージシャンをしている男性が借りることになる。それまで二軒の家は特別な交流のなかった。顔を合わせれば挨拶する程度だった。ある時高校生になった女の子が部屋にいると隣の家から音楽が聴こえた。聴いたことのない曲だった。女の子はミュージシャンと顔を合わせた時に思い切って聴いてみた。「ビートルズって言う昔のバンドだよ」それから女の子はミュージシャンの家に遊びに行くようになった。壁いっぱいにレコードがあった。自分でも何枚あるかわからないと言いながら色々なレコードを聴かせてくれた。それから何ヶ月か経って女の子の妊娠が発覚した。両親は父親が誰なのか訊いても女の子は頑なに答えようとしなかった。絶対に産むと言ってきかなかった。両親は説得を続けたが無駄だった。娘の決意の硬さに負けた。ミュージシャンは引っ越していた。今は中国にいるらしいが連絡はつかなかった。中国に行く時にレコードを何枚かもらった。女の子は貰ったレコードを部屋で聴くのが好きだった。特にビートルズのレボリューション9という曲を聴いていると不気味な曲なのに何故か心が落ち着いた。プルートージュニアを散歩させている時にあの音が聞こえてきて思わず立ち止まった。すっかり忘れていたが聞いた途端に思い出した。確かこの家が建つ前の更地にあった穴の中から聞こえてきた声?曲?と同じだ。プルートージュニアを見るとこちらを見ながら屁をこくだけだった。
それから女の子は無事に男の子を産み男の子は成長して前衛音楽をやるようになった。主にヨーロッパで有名になりフランス人の女の子と結婚して日本に帰ることはなかった。それからさらに時が流れて二軒の家は空き家となり取り壊されて更地となった。また更地に穴があってあの音が鳴っているかはわからなかった。なぜなら僕はもうとっくの昔に死んでいるからだ。幽霊になった僕はレコードに針を落とした。プルートーとプルートージュニアが散歩に行きたそうな目でこちらを見ている。
98夜 グラスパー
既に閉店の時刻は過ぎていた。客の面々は誰も帰る気配がない。店主は仕事中には飲まないビールを飲み始めている。こういう夜はある。帰りを拒むような心地よくて濃密な暗闇が店の外に充満している。店にはたっぷり酒もつまみもある。いつもなら店の二階で眠っている店主の家族も今夜はいない。レコードの針が上がるタイミングを見計らったように男が入ってくる。男はロバート・グラスパーの最新のレコードを持って入ってきた。最初にここのスピーカーで聴きたかったと言って一番端の席へ座る。店主は男が入ってくる瞬間にビールを注いで男がカウンターに座るのと同時にグラスを男の前に置いてグラスパーのレコードを受け取った。全ては無音だった。誰も喋らなかった。そこには既にグルーヴが発生していた。レコードに針を落として曲が流れる。曲に合わせてグラスに酒を注ぎ中華鍋を振るって宇宙の断片のような会話が続き僕はタバコが吸いたくなって店の外に出た。店のガラスのフィルターを通して聴くグラスパーも最高だった。煙草を吸っていると暗闇の空に何かが浮いていた。それは二階建ての一軒家ほどの大きさのビニール傘が開いた状態でより集まったものが浮遊していた。その中心が微かに発光し点滅していた。なんとなく巨大なクラゲのようにも見える。それはゆっくりと海の方へ向かっていった。煙草を吸い終わる頃には見えなくなっていた。レコードは三曲目が流れていた。
グラスパーのA面とB面を何度も往復して飲み続けた。やっぱりこの面子で飲むのは楽しいと思ったが、よく考えてみれば座る顔は今日初めて会ったばかりだった。名前すら知らない。それが堪らなく心地よかった。
そろそろお開きの時間だった。知らない星座がひしめき合っている夜は酔った奴を置き去りにするのが常だった。外は音のない雨が降っていた。ぼんやりと上を見上げて舌の先に雨の滴が落ちてくる。少しピリッとした。店に忘れ物の傘がいっぱいあると言って店主が奥へ行った。後ろを見たが一人足りない。グラスパーを持ってきた男はどこへ行ったんだろう?もう帰ったのか?他の面子に訊くと不思議そうな顔をしている。「誰のこと?」と言われたが僕にもそれはわからない。誰のこと?
店主が店の奥から戻ってきたが腑に落ちないといった表情だった。「傘がない」そう言いながら店主は空を見上げて煙草を吸いながら先ほどまで聴いていたグラスパーの曲を口ずさみ始めた。なんとなくみんなそれに合わせて靴をタップさせたり指を鳴らしたり舌を鳴らしたりしていたが、当然そんなレコードは存在しない。妙に頭が寒く感じて切ったばかりの髪をかき上げる。いつも帰る時にここが理髪店だということを忘れている。
99夜 Changes
深夜、特に目的もなく車で走り出そうと愛車が停まっている立体駐車場の中を歩いていると、音楽が聞こえてきた。聴いたことがある曲だ。デヴィッド・ボウイが歌う宇宙飛行士についての曲だったと思う。有名な曲なのにタイトルが思い出せない。奥にある銀色の車から聞こえてくる。音からするとカセットテープかもしれない。誰かが乗っている。通り過ぎる時に横目で見ると宇宙服を着た男だった。宇宙服の中で男は口を動かしている。歌を歌っているようだ。宇宙服の男は車から出てきた。こちらに気がつくと歌うのをやめてとても驚いた顔をしている。多分こちらも妙な顔になっている。すれ違いざまに男は「そんなだったかな〜」と呟いた。振り返ると男は重力が軽くなっていくような足取りで立体駐車場から出るとゆっくりと高く飛び上がり夜の中へと消えていった。いつの間にか街灯も住宅街の明かりも何もない暗闇に包まれていた。立体駐車場だけが孤独で小さな惑星となっていた。
0夜 TV show
昼間に夜の番組を見ていた。テレビ放送がされなくなってどのくらいだろう?映画やドラマも予約しているがたまにバラエティー番組を見たくなる。もう何度も見ているのに見たくなるのは見ていると昔の生活を感じさせてくれるからだ。その番組を見ていると後ろから妻がコーヒーを持って現れて子供たちがまだ眠くないから一緒にテレビを見ると言ってソファーに陣取る。もちろんここには誰もいないしもはや誰も来ない。カーテンを開けて外を見るとゾンビたちがふらふらと歩いている。「なぁ、そんな目で外を眺めていないでテレビを見たらどうだい?」振り返るとテレビ画面に映るバラエティ番組のMCがこちらを向いている。「さぁソファーに掛けたまえ」そう言われて呆然と立ち尽くしていると「そんな間抜け面はよせよ」そう言われてゾンビのようにふらふらとソファーに座る。「あんたは誰だ?」「この番組のMCだよ?知ってるだろ?」「それは知ってるけど、なんで俺と話ができるんだ?」「それはもちろんテレビだからだよ」「テレビだから?」「そうさ。テレビってのは視聴者が見たいと思うものを映す鏡なんだよ。あんたがこれを見たがってるんだ」「そんなことは」「ありえないか?俺たちはこうやって話してるじゃないか?」「それは」「あんたの頭がイカれちまってるからだって?」「そうだろそりゃ」「鏡に映る自分が本物だと思っているのか?あれは虚像だよ。本物の自分は決して鏡に映らないんだ」そうMCの男が言うと画面が切り替わった。一瞬わからなかった。このソファーに座る自分の後ろ姿だった。後ろを振り返るのが怖かった。振り返らなくてもそこに何があるのかわかっているからだ。気がつくと部屋も外も暗くなっていた。暗い部屋の中で砂嵐を映すブラウン管テレビの画面だけが光っていた。荒れ果てた部屋を出て玄関のドアを開けた。腐りかけた手ではちょっと開けづらかった。頭をかくとどさっと何かが落ちた。頭髪が皮膚ごと全部落ちていた。慌てて後頭部を触ると何か硬いものがある。突き出しているし骨ではなさそうだ。引き抜くとテレビのリモコンだった。腐った指でボタンを押すとテレビが消えた。
A面につづく
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