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カナリヤのラストソングは聞こえない

本記事もバカの云うことですが、笑い話ではありません。
心が弱ってる方は、回避して下さい。

「生け贄」は過去の話?

「生け贄」 昔は世界各地で当たり前のように行われていましたが、今の感覚ですと、考えられないような残酷な制度。

 しかし、薬だと10万人1人とか、重篤な副作用が出ることがわかっていても認可されます。9万9999人のために、1人が重態もしくは死亡しても仕方がないとしているわけです。

 これは「生け贄」と、どう違うのでしょうか?

 すぐに思いつくのは、古代の生け贄の場合は強制だったが、薬であれば、希望者に限定されると云うこと(義務化されているもの、事実上、拒めないものが増えてますが…)。その違いは一つあります。
 ただ、古代の生け贄の場合は、皆が感謝してくれました。そういう社会的な理解がありましたが、薬の副作用についてはどうでしょう。9万9999人の人は被害者に感謝しているでしょうか? 「どうせ特殊な人でしょ」と、自分とは関係がないかのように思ってはいないでしょうか?

 著名な元医学者は、対談でこんなことを云っておられました。

「頭の良い(皮肉)役人が、副作用のことを『副反応』と云い換えた。わたしらの頃には、『副反応』なんて言葉は聴いた覚えがありません。なんのためにそんな云い換えをやったかというと、『副反応』だと、重篤な反応をした患者に責任があるかのように聞こえるからです。印象操作ですよ。被害を抑えることよりも騒動になることを気にしている……」

 その「生け贄」と、ある意味、対極にあるのが「人権」という概念。
 戦後生まれの者にとっては当たり前のものですが、しかし戦時中には二の次三の次の権利でした。国家あってこその個人とされ、非常時には命まで捧げるのが当然とされたからです。強権的な政府がそれを主導したわけですが、社会もそれを追認した。というか進んで戦時体制を加速させた。

 そう考えると現実には、「人権は必要だよね」という発想と、「多少の犠牲は仕方がないよね」という発想は、同居している。
 辛辣に云えば、自分の危険が少ない場合には「生け贄」を容認し、自分が「生け贄」になりそうになると「人権」を強く求める。

 でも、権力はそのことをよく知ってますから、少数派から「生け贄」が選ばれるような制度を作って、多数派に実行させる。

「普通の皆様方には何の心配も要りませんから。
 文句ばかり云ってろくに税金を払わない連中、みんなの福祉予算をたくさん使う人たちにこの際、生け贄になって貰うということです。何せ、非常時ですから。何らかの形でお国の役に立って貰わねばなりません。
 よろしいですね? では、その方向で進めさせていただきます……」

多数派の人たちは、どこまでそれに乗っかり続けるのか?

 薬で云えば、10万人に1人のリスクというのも一つの薬についてですからね。また、治験中の薬となるとケタが幾つも違ってくることもある。
 あるいは、食品添加物やら農薬やら種々の化学薬品大気汚染水質汚染等々、リスクの数は膨大にあるんです。すべてを勘案すれば、どのリスクにも引っかからないほうが難しい。
 実際、癌の発症が2人に1人になったというのは、まさにそれでしょう。癌だけではありません。死因には心臓や脳の疾患もありますし、交通事故なんかもありますが、そこに個人では回避出来ない要因(社会構造による要因)も相当ある。

どんなけ「生け贄」が必要な世の中なんだ


 豊かになったといわれる現代社会ですが、「生け贄」の数も空前の規模。 

 もし「生け贄」を燃料のようにして繁栄してきたのが近現代社会であるのなら、今後の発展には、これまで以上に多くの「生け贄」を必要とします

 昨今、しきりに繰り返される「世界の持続的発展」、一番必要とされているのは「膨大な生け贄」なのでは?


「普通の皆様方には何の心配も要りません」という「普通」の人たちは、昔は大半だったのでしょうが、今や2人に1人以下。将来は、1割2割になっているかも……。

 そこで陰謀論者は、○○が悪い! とやるわけですが、そこにも計算があるかもしれない。特定の組織や超富裕層が企んだことにすれば、大衆を敵に回さずに済むからです。

 しかし、この社会に「生け贄」の黙認があるのなら、大衆こそが墓穴を掘っている。自分は生き延びられるとタカを括って、どんどん墓穴を掘り続けている……。悪名高きかつての収容所と同じ光景。

「生け贄」にされそうな少数派は炭鉱のカナリヤのようなものかも。

 カナリヤのラストソングは聞こえません。
 息絶えているから。
 そして、そこに留まって欲しくないから……


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