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[暮らしっ句]釣瓶落し1[俳句鑑賞]

 壜透けて 釣瓶落としの城下かな  深澤鱶

 この句を見た瞬間に丹波立杭、篠山の記憶が蘇りました。ちょうど数日前、立杭の陶器市がテレビで紹介されていたからだと思います。テレビに映ったのは、ン十年前には影も形もなかった洒落たお店でしたが、わたしの脳内に再生されたのは当時の光景。
 その時、陶器市での買い物の他にやったことは二つ。篠山に移動して城跡で弁当を食べたことと酒屋でお酒を何本か買ったこと。わたし、お酒飲めないんで、飲めない体質だとわかってからは買うことなどなかったのですが、その時はなんとなく誰かにあげるつもりで買った。
 もしね、その時のお酒がどこかに眠っていて、ひょっこり出てくれば、ちょうどこの句のようなシチュエーションになるわけですよ。酒瓶の向こうに篠山の城下町が見えるという。
 こじつけたようなこと云ってますが、スピ的に云えば、シンクロニシティですからね。偶然はない。ただ、つながりには気づいてもその意味まではなかなかわからないんですけどね。

 そのことと関係があるのかないのか、この後、トンデモ・ワールドに入ってしまいました~
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 書庫梯子 降りずに釣瓶落しかな  能村研三

 梯子が必要な高い本棚がある書庫。上の棚にあるのは、もう見ることもないだろうと見切った本…… のはずだった。
 ところが、その日は探し物でもあったのか上まで昇ったところ、どんどん引き込まれて時間の経つのも忘れたと。それが表面的な意味ですね。
 ではそのベースにある普遍的な意味はなんでしょう。

 思えば、書庫に限らず古い住まいなら、そんな忘れ去られた場所が幾つもあるでしょう。忘れ去られた物たちは生きているのか眠っているのか……
 昔なら「眠っている」とでも云うしかなかったと思いますが、今なら「量子論的な解釈」も出来そうです。すなわち「観察されていない物は、その間存在しない」です。もちろん量子的なふるまいをするのは電子のような極小のもので、本が見えなくなるわけではありません。
 が、この句を鑑賞しているうちに、本にだって量子的な実体があるのではないかと。そう思えてきました。たとえば「魂の抜け殻」という云い方がありますよね。この「魂」というのは量子的な存在のことを云ってるのではないでしょうか。誰かに読まれている本は「抜け殻」ではありません。しかし、放置され忘れ去られると「量子的実体」が消えてしまって「抜け殻になる」。
 でも、この句のように主がまた「観察」してくれると、その消えていた「量子的実体」が再び現れる。止まっていた時間が流れ出す。その本を手にしていたのがついこないだのことのように思えてくる。それもそのはず「量子的実体」を構成する素粒子は不変で劣化することもないからです。
 わたしの云うことは戯言ですが、でも、仏教の世界観と量子論的世界に共通点が多いというのは、科学者の方もよく云われていること。もしかしたら、当たらずとも遠からずかもしれません。

 この仮説、気に入ったのでもう少し語らせて下さい。
 おじいちゃんが若い頃に使っていた思い出の品は、孫からすれば単なる「ガラクタ」です。それは孫が見ても、ン十年前の量子的な実体が再現されないから……と説明することが出来ますおじいちゃんが見た場合にだけ、ん十年前の量子的実体が現れる

 俳句の鑑賞で、トンデモカガクを語るなと怒られそうですが、
 表現活動の醍醐味の一つは、感動が伝わること。共感、共鳴が生じることですよね。ものすごく大事なことです。このトンデモ量子話は、そのことの説明にもなるんですよ。
「観察者A」が経験した大恋愛。そこから生まれた作品があるとします。普通だと、それは他の人には伝わりません。それが恋人の肖像画であれば「上手な絵」とか「美人」だとかそういうことしか伝わらない。肝心の大恋愛の思いはなかなか伝わりません。それが普通。
 ところが、優れた藝術作品だと「伝わる」。我々は「伝わる」という云い方をしてきましたが、量子的に云えば、「観察者A」の前でしか再現されないはずの量子的実体が、他の「観察者」の前でも再現された! そういう希有な現象が起こったと。そんなふうな説明ができそうです

 ふだんからこんなことを考えてるんじゃないですよ。この句を見ての反射的な連想。
 この句からは、もう一つ重要なことが連想されまして、それは「対象」と「観察者」のほかに「マジカルな要素」があるのではないか、ということ。
「主」と「本」だけでは特別なことは起こりませんから。「釣瓶落し」が重なって初めて感慨が生じたわけです。今回の即席用語で云うと「量子的実体」が再現された。つまり、ここでは「釣瓶落し」がマジカルな要素。俳句用語で云えば「季語」
「季語」が句を鑑賞する側にとっても共感・共鳴の大きな助けになってくれることは云うまでもありませんが、量子論の世界ではどうなんでしょうね。「確率的に存在する」なんて云ってるのは「季語」のような存在に気づいていないからかも。いわば「必然」が「偶然」にしか見えてないのでは? 量子論の世界にも「季語」のようなマジカルな要素が発見されれば「確率」は消えるかもしれませんよ。
 もしかして「確率論」の対極にあるのが「シンクロニシティ」?

 今回は、これぞトンデモという話になりましたが、シンクロニシティに始まってシンクロニシティで終わる当たりが、怪しいでしょ? 

 その「つながり」にどんな意味があるのかは、知らんけど~


出典 俳誌のサロン 歳時記 釣瓶落し 
釣瓶落し
ttp://www.haisi.com/saijiki/turubeotosi1.htm


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