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[暮らしっ句]麦 秋2[俳句鑑賞]

 麦秋や 人呼ぶ声の一度きり  木下野生

 こちらはファンタジーというよりオカルト的。
「声の一度きり」というのは、返事をしなかったけれども、しばらくは耳をそば立てていたということでしょう。しかし、次はなかった。
 軽く云えばアテが外れた。でも、大袈裟に言えば、瞬間「闇」が覗いた。

「ご飯よぉ!」 お母さんが二度も三度も大声を張り上げる。うるさいなあ、わかってるわよ…… でも、これが一度きりなら……。

 要介護者がまた大事なことを思い出したかのように呼びつける。日に何度も同じこと。しかし、そんなうんざりした日々も長くは続きません。「今日はやけに静かねえ」ということが多くなり、「何とか云ってよ!」になる。
 それが麦畑とどう関係するのか?
 フロンティアへの旅立ちのチャンスも、実は一度だけ?
 リクツじゃなくて、振り返ると、そんな気がしませんか?
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 行く他はなし 麦秋の深轍  森岡正作

 こちらの主題も「人生の旅路」。作者の事情は存じ上げませんが、「行く他はなし」からは相当の覚悟が察せられます。そしていかにも暗示的なのが「深轍(わだち)=車輪がえぐった跡」。わたしには『車輪の下』がオーバーラップしました。
『車輪の下』… 将来を期待された主人公が都会の学校に進学しますが、結局、中退して村に戻ってくることに。もはやただの人。思ってもみなかった底辺人生のはじまり……。
『車輪の下』では、主人公の底辺人生は入口のところしか描かれません。どうしてヘッセは、その先を描かなかったのか? そこでゲームオーバーとでも思っていたのでしょうか? よくわかりませんが、「深轍」に比べれば「車輪の下」は真に迫った言葉ではありません。「深轍」こそが地べた。
 エリートが馬車でさっそうと通過した後の「轍」。「あいつら自分たちさえよければいいんだ。あいつらの通った後は歩きにくくてしょうがねえ。結局、それを直すのもオレたちだ……」
 しかしこの不平不満の意味は「はい」であり「わかりました」なんです。えぐられた道を歩くことを受け入れるし、わずかな駄賃でそれを直す仕事も引き受ける。底辺を生きると云うのは、そういうこと。

 この句の作者が底辺だとはどこにも書かれていませんし、そう推察するだけの根拠もありませんが、「行く他はなし」を、わたしの言葉で説明するなら、そういう心境だと思います。
 それは断じて「嫌々行く」ということではありませんが「喜んでいく」ということでもない。また「これが自分の人生だ」と達観するほどでもない。ただ、歳を重ねて、にこやかにはなれずとも心穏やかにはなってきた。それが「麦秋(麦畑)」に重ねられている。
「麦」は豊かな実りの象徴である「稲」とは違うんです。わが国では「貧乏には麦を食え!」などと云われる存在。でも「稲」と比較しなければ、世間の評価を気にしなければ、何の不足があるでしょう!

 誰に向かっていってるんだ? そこが問題。作者の中には、まだかすかに自問自答がある。それがあるから句になる。その燻りが他者の共感を呼ぶ。


出典 俳誌のサロン 歳時記 麦秋
歳時記 麦秋
ttp://www.haisi.com/saijiki/bakushu1.htm


[暮らしっ句]麦 秋1[俳句鑑賞]|トマリエ (note.com)

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