[暮らしっ句]外套[鑑賞]
「外套の景色」編
店先に吊る 質流れ長外套 品川鈴子
今どきのことはわかりませんが、かつての質屋さんのショーウインドウには独特の雰囲気がありました。ネットで中古品を物色するのとは違います。特に衣類となれば、着ていた人の気配が強く遺っているわけで、それが見る者の心にも影を落とす……。
夜明け前が一番暗いといいますが、一年で云えば、冬至の前が一番陰鬱な時期。季節性うつとかいいますが、この時期はむしろ陰を十分に受け止めて、それから心機一転するのが自然のリズムかも。
外套の衿 きつちりと 神父老ゆ 丹羽啓子
ベタな神父さんのイメージですが、「老ゆ」という一語で意味を逆転。
今の時代、多くの人と接していても、たいていは役割上の関係。上司部下。医者、店員、運転手、お客、サービスの人、警官等々。求めること求められることは、役割をちゃんと果たすこと。仮面の内側の人間にはむしろ関わらないようにしている。でも、何かの拍子にその人間がハミ出してくる。老化もその一つ。
たとえば、近所の高齢者。ニコニコした気さくなおじさん、おばあさんという時期は、つかの間です。数年もすれば、要介護。あわれっぽくすがりつくような視線になったり、認知症になって変なことを云うようになったり、危なっかしくて放っておけなくなったりする。挨拶だけではすまなくなるわけです。本来それが人間と向かい合うということなんでしょうが、直面すれば、戸惑ってしまう。
わたしが云うと理屈っぽいですが、作者はたったこれだけの短い言葉で、実にさりげなく不穏さを伝えてくれます。
外套も 涛も巻き上げ 日御碕 松本米子
※涛=波 日御碕=島根・出雲
これは火曜サスペンスみたいな光景。北陸辺りなら完全に思い詰めたニュアンスになりますが、この場合は、どうなんでしょう。何となくですが、不動心を感じませんか? 世界が荒れても私は立ち続ける、みたいな。
もしかしたら、「もうダメだ……」というのと「負けるもんか」と奮起する状況は、ほとんど同じなのかも知れません。「負けてたまるか!」と思えば、そこがどん底。あとは這い上がるだけ。
パパと手をつなぎ赤いオーバーの子 江倉京子
これはそのまま。赤いオーバーが鼻歌まじりにスキップしている~
外套に幼抱き込む夜の道 林敬子
母ですね。普通は夜に出歩くようなことはしないはずですから、想定外の用件があったのでしょう。やむを得ず小さな子どもを連れて寒い中を移動せねばならなくなった。子どもに罪はない。そう思うと、余計に、守ってやらなければという気持ちが増してくる……。
でも、愛がほとばしるというのは、そんな非常時かもしれません。そういう時間がずっと記憶に残ったりする。わたしにも覚えがありますよ。
風邪引いて診療所まで行った帰り道。バス停で三つ分の距離だったんですが、帰りは時々歩いた。母親と歩くことに何の苦もありませんでしたが、後から思うと、お金がなかったんですよね。きっと。ですから、たぶんその時は優しかったんだと思います。だから、夜道を愉しく歩けた。途中に居酒屋があってね、その灯り、臭い、にぎやかな声、表の盛り塩の白さまで鮮明に覚えています……
詫び言を聴く 外套を脱ぎながら 山田暢子
トラブルがあったようですね。作者は迷惑を被ったほう。本来なら、詫びる相手が来るべきなのですが、事情があって、こちらが先方に出向いた。寒空の中を! それだけで怒りが何倍にも増幅している。相手もそれがわかってるから、先手を打って、作者の態勢が整わないうちに、謝りの先制攻撃~ それもまた作者の勘に障る、みたいな。
決して気持ちの良いシーンではないのですが、親しみが感じられます。
「謝って済む話ではないでしょ!」と叱りつつ、それで済んだという時代が、戦後の一時期にはあった。
ただ、それも戦争という極限の経験をした者たちだからこその、度量の大きさだったのかな。
今回は、全般的に重かったですね。冬至前だから仕方がないという部分もありますが、語っていて、自分でも年寄りだなあ、と思いました~
出典 俳誌のサロン 歳時記 外套