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[暮らしっ句] 虫売り2[俳句鑑賞]

 集まった客が、虫売りのパフォーマンスに夢中になっている最中にも、
俳人はさめた視線を走らせます。

 虫売の手練や けふも闇を売り  夏生一暁

 一般の者は、良い声でなく虫が売り買いされている思っているが、そうではない。 アイツらの売ってるのは「闇」だ! と喝破したわけですね。
 実際、昼間は店を出しませんから。何故? そのへんの草むらと差がなくなるじゃないですか~ 俳人は探偵でもある。
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 虫売りの本当の顔 隠しをり  高倉和子
 虫売りの中に紛れては いないか  中居由美

 まさに探偵目線。ふだん花を愛でたり、さりげない心遣いを句に詠んでる人たちが、探偵に豹変。虫売りの怪しさに反応してしまったわけです。
 誰だっていくつかの顔を持っていて、それを使い分けて生活しているものですが、虫売りはその程度が尋常ではないと。それが高じて、本当の顔を隠しているということは、何者かが虫売りに変装してるってことよね!? となる。子どもたちが変な服装の大人を見かけて怪しむようなもの。指名手配の犯人とか、スキャンダルで身を隠している有名人とか、そういう特定の誰かを疑っているわけではなく、単に怪しいから怪しいと。それは作者も承知の上。探偵ごっこ。怪人ごっこです。

 もちろん、その一方で大人の視線もあります。.

 虫売の 虫に愛情示しをり  塩川雄三
 さみしくて 虫売は虫さわがすや  成瀬櫻桃子

「愛情示しをり」…… 誰だって自分が扱っているものは大事にするし特別な感情があるものですが、虫売りの場合は、なんたって虫ですからね。子犬や子猫を売ってるのとはわけが違います。つまり、当たり前のことを云ってるようで、実はギャップが詠まれている。
 それはいいんですが、別の見方をしているのが下の句の作者。
「あれは、さみしさを紛らわしているんじゃないかしら?」
 
上の句の作者は「愛情」と云いましたが、下の句の作者の見立てでは「さみしさ」。「さみしさ」と「愛」はどう違うのか? 
「さみしい=人恋しい」とすれば「恋」と「愛」はどう違うのかという問題になります。確かに同じではありませんね。一方は「求める気持ち」が強く、もう一方は「与える気持ち」が強いとか。
 じゃあ虫売りは、誰かを求めているのでしょうか? SNSの承認欲求のように、誰かに注目されたくて虫売りをやっているのでしょうか?
 少なくともこの作者は、別のことを考えているようです。
 デリカシーのないわたしが、身も蓋もないことを云うと、
 この虫売り、本当は自分が泣きたい。でも泣けない。だから、虫を鳴かせているのではなくて、そうではなくて、鳴きたい心情をもっている虫たちに共鳴している。
 虫に「鳴きたい心情」があるというのは虫売りの勝手な思い込みですが、「恋」はまさに思い込み。「こんな人だとは思わなかった」で、一瞬にして冷めるのが恋。
 ということで、この勝負。わたしは下の句の作者に軍配を上げたいと思います。 愛というよりも、さみしい(恋)説にアッパレ~(古いか)
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 水音のせり 虫売の早じまひ  伊藤白潮
 虫売りの 虫の音積んで 去ににけり  城孝子
 虫売りの あをき匂ひを 残しけり  酒本八重

 つかの間のライブも幕。明かりが消え、音が遠ざかり、そして匂ひだけがかすかに残った。
「あをき匂ひ」が何の匂いなのかは示されていません。もし虫の匂いだったとしたら、花鳥風月の世界ではありません。虫のエサの胡瓜や茄子の匂いだったとしてもです。作者が詠んだのは、おそらく生々しさの余韻。
「生々しさの余韻」…… トイレが水洗になって劇的に減ったもの。でも、たとえば混んだ電車で空いた席にすぐに腰掛ければ生温かい。
 思えば、身体に直接触れても生々しいとは云いません。生々しいというのは、どちらかという間接的なのに妙にリアルという場合。
 生々しさの感じって残るじゃないですか。さっきまで人が座ってたから生暖かい、と思っても全然すっきりしません。というか、その生暖かさが消える時というのは自分がそれに同化したときで…… きゃぁぁぁぁ!

 虫売りの 去りたる後に 虫の声  葛西茂美

 虫はまだ居た! 虫売りから逃げ出した虫なのか、それとも虫売りがそっと遺していった虫なのか、あるいは、そのへんの草むらにいた虫が商品の虫に引き寄せられて来たものか…… 最初はそんなことを思ったのですが、日を置いて考え直してみると、「虫の声」は心理的なものではないかと思えてきました。そこに虫がいたわけではなく気配が残っていたと。その時、思い出されたのが、芭蕉の「古池や……」の句。
「かわず飛び込む水の音」というのも、実は音が消えた後の余韻を表している。「ポチャン」はいわばプロローグ。その後を芭蕉は作品化しようとしたのではないかと思えてきたのです。
 蛙の鳴き声を描かずに飛び込んだ音を表現したところがスゴイという解説が多いですが、あの句を鑑賞している間中、「ポチャン」「ポチャン」「ポチャン」「ポチャン」「ポチャン」と音がリピートしますか? そんなことはないですよね。「ポチャン」は最初の一回。後はずっと余韻「…………」です。10分鑑賞しても1時間鑑賞してもそこにあるのは「…………」だけ。
 俳句というのはそもそも連歌の発句。それが独立したと云われていますが、連歌から独立したのではなく、後を捨象したのではないでしょうか。発句の続きは鑑賞する人が各々自分の中でイメージしてくれと。そういう連歌の発展型(ミニマル化)が俳句だったのではないか。
 ちなみに、日本人なら誰もが知っている俳句のもう一つは子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」です。奇しくもあの作品も余韻なんですよね。あの句を鑑賞している間中、「ゴーン」「ゴーン」「ゴーン」と音を聴いてる人はいないわけで、やはり余韻の「…………」を聴いている。
 余韻を使うことによって、作品の時間を引き延ばしつつ、作品世界と現実の融合を図っているのでしょう。

「虫売りの 去りたる後に 虫の声」も、いわばその系譜。同じワザを使ってる。ワザと云いましたが、もしかしたらそれは「呪」のような魔術的なものかも知れません。
 その場限りの作用ではなく、感染させるような感じ。ウイルスが遺伝子を書き換えるようなもの。病原性でなければ、その時は大きな異常は起こりません。しかし、感染していれば、何年もしてから発症したりする。
 これ以上云うと、作品から離れていきそうなのでこのへんにしたいと思いますが、最後に予告編?を少々。

 芭蕉の「古池や……」の句と子規の「柿食えば……」の句は、もしかしたらつながっているのかもしれませんよ! 怪しい点に気づいたので、これから調査を開始したいと思います~ 結構壮大 子規はふれてはいけない法隆寺の名を出し、芭蕉は肝心の名前を隠してカムフラージュした…… でも、その名前も子規は別の句で出しているという。子規の行為は無意識っぽいですが、それだけにこわい。俳句の遺伝子が子規を操っていた!?

出典 俳誌のサロン 歳時記 虫売

虫売
ttp://www.haisi.com/saijiki/musiuri.htm

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