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らんだむカメラ 4

 今日の撮影中のシンクロニシティは、二つあったのですが、一つ目は、「のる」 と 「のっとられる」の話が聞こえてきたこと。

 直接的には、吃音(きつおん、どもり)についてのお話でしたが、自分にとっても重なることが多く、考えさせられました。

 吃音者が、「のる」というのは、どういうことか?

 まず、共通しているのは、歌を唄うときには、どもらないということ。
 だから、会話においても、こっそり、リズムを刻むと、どもりにくくなるそうです。もちろん、いちいちそんなことをするのはたいへんだと思います。隠れた苦労をされている。
 次に、役を演じる場合。これは人によるそうですが、演じると、どもらない人も少なくないそうです。中には、大勢の人前で演説すると、スラスラと言葉が出てきたという例もあるとか。歴史上の名演説のエピソード。

 では、「のっとられる」というのは、どういうことでしょう?

 要するに、役を演じ続けると、それまでの自分ではなくなるということです。役に乗っ取られてしまう。
 これはなかなか根の深い問題で、吃音に限らず、車椅子の方でも、ご自身としては普通の人間なんです。ところが外に出ると、障碍者として扱われる。譲ってもらったり介助してもらえたり、それは便利といえば便利。しかし、その間中、障碍者を演じ続けなくてはならない……。
 障碍者に限らず、女性だと、かわいい女性を演じれば愛されるが、本当はそうじゃないとか。
 あるいは、アーティストだと、こうすれば売れるが、それは本当に表現したいことじゃない、みたいなことがつきまとうのでしょう。

 素人の写真だって、それはあるんです。それらしく撮る、ということの問題。
 以前は、普通に撮っていたので、ときどき隣に並ばれたりしました。当然、そっくりの写真を撮ってたと思います。嫌なものですが、そもそも自分が「それらしい」ものを撮ろうとするから、そうなるわけです。「それらしく」というのは、「のる」ようなものですね。「それらしく」という意識がある限り、「のっとられた」状態。

 吃音者の話に戻ります。
 中には、苦労して吃音を直したのに、ある時、そんな自分が嫌になって、また苦労して吃音を復活させた人もいるそうです。
 あるいは、どもる度に、おもしろがる相手と出会って、失礼なヤツだと思いつつ、そういう相手の前ではラクになってる自分に気がついたとか。

 その話をされていた先生(伊藤亜紗さん)は、ご自身が吃音を抱えながら、いわばそれをパスポートにして、さまざまな障碍者の内側に入って行かれたようです。
 そこにも思い当たることがありました。出かけることができなくなり、近所だけで撮ってるから、こういう撮り方になってきたからです。普通に名所に出かけていれば、こんな変な世界には入ることはなかった~

 それにしても、伊藤亜紗さんの話はおもしろい。というか、障碍者の方たちには、いまや数少なくなったフロンティアがあると感じました。

 ちなみに、障碍者が誕生したのはいつか?
 産業革命の時だそうです。その時に「労働者・賃金・標準的な労働」という概念が生まれ、標準的な労働が出来ない者が障碍者とされたのだそうです。
 それまで? それまでは各地域で、個性に応じた仕事があった。共同体が用意したわけですね。
 これにも、ちょっと思い当たることがありました。
 子どもの頃のことですが、目が悪かったので野球の際、ボールを打つことが出来なかったんです。なので、わたしがバッターの時には、ボールを転がしてくれた。低学年まで、でしたけど。そういう世界は誰に教えられなくても自発的に行われるんです。
 しかし、それがどうなったかというと、高学年になった頃には、打席に立たせてもらえなくなりました。まさに障碍者扱いですね。子どもたちも大人の真似をするようになる。
 ただね、野球をしなかった子どもも少数ですがいたわけで、わたしももっと強い意志で、自分のできることを考えていればよかったかなと。
 制約というのは、生かすもそれに足をとられるのも、自分次第。

 ということで、本日も、狭いテリトリーの中で、ああでもないこうでもない写真~


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