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「三島由紀夫」は彫刻。

 好きだったもの、思い出、作品。それらは日々の中で、濾過されていって、イメージだけが身体に残る。内容は覚えていても思い返し、見直し、読み返すことで「ああ、こうだったこうだった。」となっていく。ぼくは作品を細かく覚えているより、自分の中に濾過され残っていくイメージが大切だと思う。それゆえに忘れてしまっていることはたくさんあって、そのことを愛がないと揶揄されれば、それもそうだと認めるしかない。だが、イメージこそが、何を好きでいるか、嫌いでいるか、何が大切か、捨て置くかを決め、ひいては各個人の世界のすべてを作っているのではないか。ぼくはそう思う。だから大切なのは、イメージだ。


 日本語は美しい。それを空に掲げた刀剣のように示してくれたのが三島由紀夫「金閣寺」だ。それはまるで彫刻のように硬く鋭く空に向かって、視線を投げかけるような刀だった。日本語とはここまで洗練され、良い響きを持ち、濃密な意味を抱えることができるのかと驚いた。それまでは物語のためや、伝えるための日本語ばかりに触れてきたことを実感した。金閣寺の文面には、日本語としての美しさが存在しており、その上で物語を力強く推し進める濃い意味が伴っている。響きの流れに乗り、読み進めていく中で、言葉はもっと自由であるべきだとぼくは考えるようになった。伝えるためにわかりやすくわかりやすくすることが良いことだとされている風潮を感じて、ぼくは抗いたいと最近よく思う。この感覚は金閣寺がくれたものだと思う。

自分が伝えたいことは、わかりやすい言葉にすることで、意味が変わってしまわないか。伝えたかったことは本当にこのわかりやすいことだったのか。ぼくは丁寧にわかりやすくすることで伝えるのではなく、伝えようともがいて伝えていこうと思う。少しの感覚も、切り捨ててもいいとされる感情も。

「金閣寺」の素晴らしさ、それは本当の苦悩の在処を示してくれるところにあると思う。いつもどこかにある苦悩、苦悩の本当の姿。日々の端々にこそ、潜んでいる暗い何か。そして、傷つくこととは何か。少しずつ溜まっていく想い、引き金になる少しの狂気。綿密に描かれる一人の男の精神。美しい日本語によって描かれるそれらは、読み終わったぼくに開放を与えてくれた。共感とも言えるであろう(もちろん金閣を燃やそうとは思わないけれど)。


そして、初めて読んだとき、率直にぼくは思った。

文章と日本語が難しいっ!!!!!美しいのはわかる!!!!だがががががががががが、辞書持ちながらじゃないと読めないっ!!!!

今は一通り調べ尽くしたから普通に読めますがね。なかなか現代人にとってこの文章はハードですね。美しさが勝るから読めるんですけどね。

これまじでムズいですよ。友達とかには勧められないですね。言葉が好きな人は読んでいる人が多そうです。


話は戻る。

読了後、強烈に残った【日本語は美しい】というイメージ。

ぼくの中の日本語の存在感を高め、彫刻のように今も心の中にどっかりと居座っている。世界に美しい刀剣の在処を示してくれた。

金閣寺。強く鋭いイメージを与えてくれたこの小説に深く感謝しているし、言葉の可能性に気づかせてくれた大好きな小説です。




読んでくれてありがとう。


また。



とまお

いただけた時には、本買います。本を。