見出し画像

川端康成著「雪国」を読んで

「雪国」は既に読んでいるはずである。でも、どうしても思い出せない。そこで何十年かぶりに再読する。川端康成の文学的な質を確認したかった。読んで記憶にある川端康成の小説は「眠れる美女」だけである。感想文も書いている。なお、「眠れる美女」は1960年に、「雪国」は1037年に初めて発表されて、その後1947年に完成している。まず「眠れる美女」を思い出しながら改めて記述すると、老人が睡眠薬を飲まされ眠らされている裸の少女と添い寝する。無論、少女に触れても構わない。ただ、性的関係は禁じられている。この眠れる美女と寝ながら、老人は人生の特に女性関係を思い出すのである。現実の少女の裸体と思い出が交互に描写されている。だが、両者が重なることはない。老人は眠れる少女に親近感や欲望も感じながら、思い出の女にも未練を感じている。老人が本当に欲望を持つなら、老人の思いの中に過去の女たちも素裸にして、色香や肌艶を鮮やかに甦らせて少女たちの裸体に重ねなければならない。この現実と過去との思いの断絶が、老人の人生の終末における哀惜と絶望とを混じらせた小説と受け取らせるのである。 

三島由紀夫はデカダン文学の傑作と評していたが、デカダン文学とは言えない。むしろ人生への哀愁と、もはや老いた自らへの哀惜を帯びた作品である。老いても募る欲望がまだあるかのように見せかけた中途半端な作品である。枯れてこびり付いた記憶の痕跡に、生々しい今現在の欲望があるかのように織り混ぜている。裸体の眠れる少女を、このもはや死なんとする老人に添わせること自体が無謀な筋立てである。そうとしか読み取れない。それとも老人にはまだ残余の欲望があるのだろうか。谷崎潤一郎の晩年に描いた老人の女へ欲望する作品と比べてみると良く分かる。谷崎の現実味を帯びた生きた老人の性作品に対して、川端は嘘くさい架空の作品を作っているのである。 

デカダンとは何か、生への虚無と言うならなら当たっているだろう。性への異質的な欲望と言っても当たっているだろう。ただ、眠れる美女と添い寝するのも、過去の不埒な行為を含んだ経験もデカダンではない。虚無的にむしろ退廃的な精神が生み出す放蕩をこそデカダンと言うなら、「眠れる美女」に描かれている世界は決してデカダンではない。単なる正常なむしろ健康的な精神の行為であり、出来事である。文章の内に流れる精神が社会と隔たり孤独はあっても、いたって正常であり、生に対する歪みや卑屈さも嫌悪感もない。ただ、感想文を書いて放っておいた今に思えばこの単調な文章の内に、もしくはこの「眠れる美女」なる小説以外の作品の底流に、川端康成の本来的なデカダンが含まれているのかもしれないと思い始めた。デカダンとは空無と言い換えても良い。決して悟り言葉ではない、虚無が昂じて何もなくなり、空無となるのである。もっと正確に言うなら「雪国」なる小説にこそ、これらのデカダンの資質が含まれていると感じさせる。「眠れる美女」はこの空無さえ消し去ろうとする、もはや死を間近に控えた老人を単に描いていただけなのかもしれない。 

「雪国」がやはり川端康成の文学的資質の底流を教えてくれた。何度も言うが、「眠れる美女」は決してデカダン文学の傑作ではない。デカダンは表現されていずに、現実の眠れる美女と過去の思い出の女との記述は乖離して小説を分断させている、決定的に小説の質を貶めている。これらを承知のうえで、川端康成は「眠れる美女」を書いていたのだろうか。川端は無理を承知の筋書きを展開させても読ませる不思議な能力を持っている。彼の作品をたくさん読めば彼の虚無とも空無とも言える精神を読みとることができるかもしれない。そして、彼はこの心の底の空虚さを埋めるために日本的な美をかざして、例えば絵画や花瓶などを室内の空間に飾り立てていたのかもしれない。三島由紀夫が川端康成を師としたのも、ひとえにこの空虚さに惹かれていたためであろう。空虚さとは何をも惹き付けて埋もれさせる魔力のようなものである。だが、彼らはそれぞれの空虚さを別々の方法で埋めていくのである。三島の空虚とは川端とは異なった空虚であり、むしろ空虚ではないのである。なお、三島についての文学論は機会があれば語りたい。彼らが自らの空虚さと小説の質の相違により、次第に離れ遠ざかっていくのは自然である。なお、川端作品の「禽獣」を読んだ時に、三島由紀夫の川端康成論が掲載されていて、たいへん興味深く読むことができた。私の見解も含めて紹介できる日がきっとくるであろう。 

さて、「雪国」の出だしの『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』は有名である。美しい小説の始まりのような印象を与える。島村は同じ列車に乗る葉子という美しい女を眺めている。彼女の瞳の中には、ともし火がある。こうして始まった小説は葉子の瞳を強調しながら、主人公島村に雪国にて温泉芸者になった駒子と再開させる。駒子は情熱的な生き方をしている。時には刹那的に暴飲し酔いに嘆きながらも、島村と遂に関係を結び愛していて、強く生を脈動させるごとく生きている。なお、駒子は置屋の師匠の息子、行男のいいなずけと言われている。この息子は病弱で、葉子が世話をしていた。行男は駒子が、この町から出て行くとき、ただ一人見送ってくれた人である。でも駒子は行男の葬式にもでかけなかったのである。 

こうして「雪国」は島村と駒子のやり取りが主に話は進んでいくが、島村が葉子のともし火を宿した目を眺める話など、葉子も確固として話の筋に加わっている。つまり二人の女が対照的に描かれている。視線を透過させる冷静な葉子と情熱的に生きる駒子がいる。島村が昆虫の悶死するさまを見る描写は、志賀直哉の「城の崎にて」を思い浮かばせる。確かにとても似た文章であるが、志賀直哉の文章の方が静的な視線からの印象を持たせる。なぜ川端が同じような描写をしたのかは分からない。島村の駒子に投げ掛けた言葉「いい女」が駒子を怒らせる。この言葉の裏の意味を駒子が悟ったのである。ただ、本文中には「いい女」に関する説明はない。私の解釈はあるが説明は省く。最後は繭蔵にて行われた映写会の映写機から火が出て大火事になる。葉子は映写会に出掛けていた。昇天しそうな顔をした葉子を抱きながら駒子は「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」と叫んでいる。駒子に近づこうとした島村の中に、さあと音を立てて天の川が降り落ちるようであった、と書かれている。「気がちがうわ」と言う言葉に違和感を持ち、他の言葉に変えようと思ったがなかなか思いつかない。適切な表現かとも思う。これが「雪国」の端折った筋書きである。 

「川端康成 人と作品」と題して竹西寛子が解説している。鍵になる言葉を拾い出すと、当事者と傍観者。この世との和解、憧憬や思慕はあるのに陶酔を許さないという川端文学、昆虫の悶死するさまの描写の解説、ダイアローグによってドラマを展開させた谷崎潤一郎の文学と比較して、川端文学はモノローグで和歌に繋がっている。そして、論述述志の文学ではなくて、感覚と直感によってこの世との関係を宙に示している、詩と詩論の類に厚みがある文学であると述べている。 

『雪国ついて』題して伊藤整も論じている。鍵になる言葉を拾い出すと、近代日本の抒情小説、「枕草子」にある区分と分析との微妙な混淆と同じ文学である。現象からの省略と言う小説手法を用いている。島村は列車の中の葉子を、窓に映る姿と現実の姿とを眺めている。窓に映る姿は鏡なのである。張り詰めた生き方をする葉子と、悲しいまでに真剣に生きる駒子の存在の無い所では、島村は無に帰してしまう。無意味な具体性は廃棄している。トルストイやフローベール的ではなくプルーストやドストエーフェエスキー的である。「いい女」と言う島村の生活の継続、つまり汚れや無意味さと繰り返しに耐えられない彼の生き方の限界を理解して駒子は絶望する。生きていることに切羽つまっている女と、その切羽詰まり方の美しさに触れて戦いている島村の感覚との対立がある。この伊藤整による「いい女」の解釈は高級すぎて戸惑うが、愛や命などとは関係ない、別個の客観性を持った対象として即物的に女を眺めていると理解しても良いであろう。即ち、一時限りに寄り添う都合の良い女、美しくて眺め続けていても飽きない良い女である。 

竹西寛子と伊藤整の評論は、結構本質をついて論じているが、欠陥もある。ただ、ここではこれらについて論じない。敢えて言えば、同じ感覚派の横光利一と比較して論じてもらいたかった思いがある。横光利一の生命に対する感覚は、川端康成と反対側の位置にある。例えば「上海」における最後の場面、暗闇の中で愛する女の温かい肌に触れる場面は川端康成には無い命に対する愛おしさに溢れている。横光の短編小説は新感覚派にふさわしい感覚的な斬新さが文章に刻まれていて楽しむことができる。これに対して、川端康成の文章は切れ切れであり、場面を飛ばし規範を逸脱する。誰もが称する川端の小説は「抒情小説」と言えば誉め言葉になるが、規範を逸脱した欠落小説と言えば誉め言葉にはならない。ただ、欠落は不安を抱かせ虚無を内包する、文章の不安定さは狂気を潜ませていると思わせる。そうした川端の本質を三島由紀夫は前にも述べたように「禽獣」で論じている。 

横光利一の小説は川端の描く「空無」などとは無縁であり、「美しい」という言葉も無意味に多用することはない。「雪国」は初め下手な小説と思っていた。全体を読めたのは、きっと川端に潜んでいる「空無」が忍んで来て読ませたのだろう。そして太宰治の「人間失格」や阿部公房の「砂の女」のように、小説としての輪郭と堅固な内容を持たずに、むしろ小説形式を毀損させて内容を欠落させていながら、これらの小説とは異なった今までの日本の小説には無い別の表現と形式による質を感じさせる。ただ、この質は「人間失格」や「砂の女」との比較であって、「抒情小説」ではなくて、もっと質の高い「抒情詩」と比べれば、やはり興を減じさせられる質である。無論、もっと質が高い作家はたくさんいる。なお、川端を論じることは、再度言うが、別の機会「禽獣」の読書感想文にて、三島由紀夫の川端諭を参考にして行いたい。 

こうしてみると、ずっと以前に「雪国」を読んだ時の記憶が無い理由が良く分かった。内容を理解できずに、筋も追うことさえできなかったのである。筋などあって無き如くである。駒子と葉子を順繰りに描きながら、成り行きが筋を支配し、ただ結末だけが用意されている。そして、漱石のような心理的な解釈や込み入った描写を排除して、ぼっとして無感覚な「空無」をのみ感じる島村に、作者自らの一部を重ね合わせて書かれている。「雪国」は「空無」を持つ男の周囲に対称的な生きざまをする女を配置して、その「空無」を際立たせるように描いている作品である。なお、「空無」とは「無」と異なることに注意されたい。 

「無」はベルグソンに言わせるとあるべきものが無い状態である。「無」は「空無」ではない。「空無」は「般若心経」に書かれる「色即是空」の物質と実体のない空虚なる「空」でもない。もっと虚無的である。最初に述べたデカダンと近い言葉であるのかもしれない。この「空無」は静であり、動ではない。眺めるだけである。眺める先は自らの主体を素通しさせて、女なる生き物である。静とも動ともなれる美しい容姿と感情と持った女である。本小説では「美しい」という言葉が多用されているが、女が美しいばかりではない。この世界から動く力を除去し静止させて眺めれば、美しく見えるはずという絵画的な希望を隠している。ただこの希望は、この世界が常に作動するからには決して実現されることのない美しさである。従って、作動する世界に翻弄されて生きることになる。最後には死を希望するしかなくなる。今思うと、三島由紀夫の作品の方が輪郭構成をしっかりさせていて質的に高いが、三島の世界より川端康成の描くぼんやりした輪郭の無い世界の方を身近に感じないこともない。でも、横光の短編小説はそれ以上に魅力に溢れている。さすがに小説の神様である。ただ、横光は長編小説が質的に落ちるため残念である。やはり、この「雪国」は川端康成を論じる代表作と言えるであろう。そして、川端は横光以上に知的論理の欠如した感覚的な作家である。 

以上

この記事が参加している募集

読書感想文

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。