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題:ジャン=ポール・サルトル著 渡辺守章・平井啓之訳「マラルメ論」を読んで

モーリス・ブランショの「来たるべき書物」では結構マラルメについて論じていた。サルトルも「マラルメ論」を書いていると知り読んだ本である。なお、サルトルは「ジュネ論」や「フローベル論」も書いていて、訳者の解説によると、作家とテクストとの関係、テクストをサルトルは視座しているとのこと。これらも読まなければならないのかとも思うが、ともかくサルトルがマラルメをどう書いているか知りたかったのである。読んでみるとサルトルにしては文章が粗削りながら、不思議に抒情が漂っている。内容の新鮮さはないけれども、懐かしい存在論が感情として波打ち寄せてくるのである。

初めにブランショに関する記述から紹介したい。ブランショの「文学空間」では次のように感想文を書いている。〖文学は、特に詩は『くりかえしのあの全くの無力性、何ひとつ生み出すことのない長々しさに耐えている』であり、書く人とは『終わりなきものの絶えざるものを「了解」した人間』なのである。こう述べてブランショはマラルメについて現実性に関わる「なまの言葉」と事物を遠ざけ消し去る「本質的な言葉」のこれら二つの言葉から論じる。そして、言語には無が活動しているのであり、この言語は己を無化することで呼び戻される全体そのものであり、この全体のなかで己を不在化する能力を持っていると言う。簡単に言い換えれば、作品の全体において言葉は無化することで表わすことをせずに、自らは不在となるのである。この能力は自己破壊行為でありながら、これこそがマラルメ作「イジチュール」の至高の瞬間に立ち会わせ、真理性を与えていると言う。マラルメの空間的な中心地点であり、彼の文学的な経験はこの地点に絶えず立ち戻させるのである。こうしたマラルメ論や書くことと絶望の観点から論じたカフカ論は読み応えがある〗

ブランショの「来たるべき書物」では〖マラルメの「骰子一擲」を来るべき書物であるとする。なぜなら『文学は、それから可能性の日常的な諸条件をのぞき去るような経験ののちに初めてその本質的な完全さにおいて抱懐されるだろう』だからである。この「骰子一擲」の書物での「骰子の一擲は、けっして偶然を排除すまい」という詩句が、この新しい形式の特質を表しているからである。即ち、偶然と必然的なものが崩れ去ったときに、初めて偶然を支える一般的な規則が存在し得て、かつ彼方にあるものと一致した場合、未だ知られざる作品そのものが空間を生み出して現存できるからである。なお「骰子一擲」に示されている「星座」を含めた詳細な論述は本書を参照のこと。こうして、マラルメにおいては空間を存在するものではなくて、時間との関係で「節奏され」「内面化され」散り散りにされて休まされるのであり、通常の時間を締め出すものだとし、この空間そのものが「書物の空間」であるとブランショは述べる。そして、『ただ詩だけが――この未来の書物だけが――この空間の持つ運動と時間の多様性を確立することが出きる』と述べるに至る〗

さて、サルトルの「マラルメ論」は「マラルメの現実参加」と「マラルメ(一八四二―一八九八)」の二つの論文から成る。なお、「マラルメの現実参加」はⅠ「無神論の遺産相続人たち」、Ⅱ「選ばれ者」の二つから成る。Ⅰ「無神論の遺産相続人たち」におけるサルトルは『<存在>と<物質>とは互いに入れ替え可能な言葉となる。<存在>とは散乱であり、不活性であり、外在性に他ならない。詩人は、自分を純粋に散乱状態にしてしまうこの<物質>を唾棄している』と詩人と物質との関係について述べている。こうした詩人は貴族的な<プレシオジテ>(言語と恋愛感情の人工的洗練を目指した文学)を必要とするブルジョアジーの優位性とは明確に区別して、ブルジョアジーに反抗するのである。そしてサルトルは存在論へと移っていき、<存在>が存在する仕方の否定となるこの存在の否定の戯れの内に居るのが詩人には心地よいとする。発散気味の文章はまとめにくいが、『もし詩的観念が、誰かの中で死に至る意志的な病となるなら、もし広大で明晰な意識が、詩的観念のすべてのニュアンスの総体を、同じ一つの行為の内部で保有させるのであれば、詩的観念は、マルクス主義的解釈と社会的条件付けから逃れることができるであろう』と言うのが結論とも思われる。

即ち、マラルメの詩的観念はアンガージュしないのである。ブルジョアジーに反抗することが現実参加ではない、詩的観念そのものは現実参加しないのである。つまり詩的観念そのものとして作動することになる。そもそもサルトルにはこの「マラルメ論」の前に、『書かれた文章のひとつひとつが人間と社会のあらゆる水準において反響をひきおくすのでないとしたら、それはなにも意味していないことになります。ひとつの時代の文学とは、その文学によって消化された時代の謂いなのです』との文学の現実参加の思想が記述されている。こうした思想ははなはだ疑問であるが、マラルメがもし現実参加するなら、サルトルの思想に基づいた文学的な現実参加しかあり得ないはずである。文章が人間と社会に反響を起こすことに意味があるとのサルトルの思想と、ブランショの思想の「骰子一擲」により生み出される作品空間とは大きな違いがある。

Ⅱ「選ばれ者」の方が各段に優れている。もう一度読みたいと思っている。それはマラルメの生い立ちなども含めて母と海とのフロイト理論に基づく心理学的な分析をおこなっているためではない。マラルメのアンアンガージュマン(投―企)が詩的に晦渋なサルトルの文章によって存在論的に的確に捕らえているためである。マラルメのイジチュールなど作品を通じたサルトルの解釈が、晦渋に散乱した文章ながら良く論評されているためである。引用で要旨を示せば『一つ一つの人間的現実は、それ自身で、新たに<全体>への独自の関係として作らなければならない』のであり、これは『ある偶然的な現実の投企であり、しかもこの現実は、様々な現象の直中に埋没しており、己を押し潰す全体性に向かって自己を超える運動として自らを立てているのである』『人間は彼自身によって偶然というものがこの世に出現したのだから、偶然に刃向かっても無駄なのだ。彼の行動の一つ一つは、それが破壊しようとしている当の宿命そのものから生まれてくる。この苦しい苦行、この自分自身への反転、これこそが人間の努力である。すべての世代の無用な螺旋形、これこそが<歴史>の運動なのだ。出発点への回帰とは、つまり自殺である。』ただ、マラルメは自殺しない、書くことを続ける。『墓において、栄光に輝く究極の人間的難破を実現させること、そして祖先の墓に横たわることだ』が彼の完成形であり、『個人的挫折を<詩>の不可能性へと転換する。そして更に再び反転して、<詩>の<挫折>を<挫折>の<詩>へと転換するのだ』として、生のあらゆる形態の普遍的断罪の運動を行うのである。ここでテクストは終了しているらしい。なお、「マラルメ(一八四二―一八九八)」については面白いけれども省略。

こうしてみるとサルトルのマラルメ論は、まさに実存主義的な投企とは異なった投企を行っているという文学論であり哲学論である。ただ、彼の文学論は先に述べたように彼の主要な思想とは乖離していると思われ、吟味が必要である。また投企も現実参加という言葉も、マラルメの論じ方としてはふさわしいとは思わないけれども、Ⅱ「選ばれ者」は妙に説得力がある。私はモーリス・ブランショの記述の方が好きである。けれども、彼らの論評を詳細に論じて評価するには相当な時間と力量が必要である。つまり、文章、作品が生み出されることと、現実における投企、社会改革などの関係性を論じることである。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。