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ダンテ・アリギエリ著 原基晶訳 神曲「地獄篇 煉獄編 天国編」を読んで

本書は厚い、三巻もあって長い。従って少しずつ眺めただけである。叙事詩だけに詩形式の記述である。でも、おおまかに神曲とはどういう書物か分かることができた。この有名な「神曲」の感想文を書くのは難しい。根本を理解していないからである。原基晶の解説をざっと眺めると、人間の認識の能力とその認識から生まれた美が振る舞う人間たちの愛の関係を自然哲学風に述べたものであるとのこと。結局は、叙事詩なる形式に客観的な感情や思想が塗り込めて記述していると思えば良い。そして神への捧げ物でもある。本作品を記述するにあたっては種々の背景があるらしい。後で少し触れたい。 

読みこなすのが難しいのは、原基晶が指摘しているように、種々の題材が織り込まれ紡がれているためである。神話、当時の世相に文壇、宗教界それにダンテの親族などが題材とされ、無数の名前が現れている、けれど分かる名前は少ない。当時の社会人やダンテの親族など分かるはずがない。ただ、本書の左頁の左側に注釈が記載されている。更に各巻の最後には地獄篇三十四歌、煉獄編三十三歌、天国編三十三歌のそれぞれの歌のあらすじと重要な点を四、五頁にまとめている。これらを丁寧に読みこなして行けばより深く理解できるに違いない。でも、時間が掛かり過ぎる。ずっと昔、時間を掛けて「源氏物語」を読んだことがあるが、さっぱり記憶にない。従って、この「神曲」を丁寧に読んでも、日本人には、否、私には難しすぎる書物なのである。 

文章は格調高い。詩の情景として鋭い描写がたくさんある。でも、このように良く分からなければ、如何に異なった場面であろうとも同じ内容に同化してくる。言い換えれば、地獄で焼野原を歩いても、各種の責め苦を受けるとも、苦痛により呻吟する根本の境遇は同じであって、時と場所が定かでない環境に諸処の肉体たちが個体変数となって、処罰を侍って受けているだけとなる。無論、処罰ではなく至福の時もあるだろう。これは、もしや、どの境遇であっても同一化しようとする恐ろしい発想であり、悲惨な殺人現場を見た刑事が無感動に陥るように、ある種の慣れが、不思議な感覚を呼び起こして、斬新な叙事詩の文章表現に驚き感動しなくなってくるのである。従って感想は、この「神曲」の始まりと、主にベアトリーチェの足取りを追い駆けて記述していきたい。なお、ダンテは1265年生まれで、貸金業の家に生まれ、十八歳から詩作を始め、永遠の恋人ベアトリーチェを「新生」にて歌っている。まさにその時に、ダンテは妻ジェンマ・ドナーティと結婚している。 

当時イタリアは大都市に分かれていた。そして各都市は教皇派と皇帝派の二つに分かれ争っていた。フィレンツェの統領に就任したダンテは、彼らの間で政権を維持しようとした。ただ、内部抗争の結果、ダンテは亡命者となる。更に死刑を宣告されるのである。こうした政治的な背景も「神曲」には多数記述されている。また、当時の世界は不作に飢饉、疫病に水害が人々を苦しめていた。原基晶は殺し合いが生じて、都市は地上から消失し、罪のない正しい人々が苦しまなければならないのか、この問いにダンテは希望を捨てずに世界の運行の中に神の意志を求めて行くのである、と明確に記述している。なお、ベアトリーチェはダンテが9才の時初めて会い、9年後にまた出会うが、すぐに死んでしまうのである。「新生」を記述したのが1293年頃と言われているので、きっとダンテは28歳前後、ベアトリーチェは既に死んでいるのである。ただ、ベアトリーチェに実際のモデルがいるかどうかは意見が分かれているらしい。従って「神曲」にてベアトリーチェに煉獄から天国へと導かれるダンテは、彼女を単に愛の寓意として捕らえていただけなのだろうか。きっと彼女の類まれな知性と人類愛とをダンテは描き、彼女に導かれて確かな道筋を歩めることを示したかったに違いない。 

さて、「地獄篇」からさっと眺め読み始める。やはり叙事詩の格調は高い、明晰で張りのある言葉が続いている。第一歌で、主語が私であることには驚いた。私が森の中をさまよい、険しい道をじっと見る。斜面の始まるところには敏捷な豹の姿がある。眼前に現れた獅子の姿が恐怖を与える。狼さえいるのだ。すると現前に不意に現れる人がいる。詩人である。獣たちは猟犬が殺すまでは増殖していくのだ。地獄の中に獣たちが戻るまでは増え続ける。こう言って、詩人は結局自らの後をついてくるのが一番良く、ここから連れ出してやると言う。ただ、苦しみ続けている太古の霊を見ることになる。地獄めぐりを行うことになる。ただ、祝福された人々に加わる時を待ち望んでいるなら、自らの代わりにその任にふさわしい魂を持つ彼女のもとに置いて行くという。こうして詩人なる師に導かれて私は地獄巡りを始める。第二話にて、この詩人が差し向けたのはベアトリーチェであることが分かる。彼女は主の御前に戻った時には褒め称えたいと言っている。初めから、主の御前にいく「神曲」における私の行き巡りは仕組まれていたのである。苦難の道を巡って、天上界に至ることを半ば約束されていたのである。こうして、下界を下って地獄の情景が続くことになる。さまざまの地獄の情景の描写がある。なお、私とはダンテ・アリギエリ本人である。 

「煉獄編」では、当然煉獄を巡ることになる。煉獄とは初めから在ったのではない。上流層、中間層、下級層に分かれて死後の世界も天国、煉獄、地獄の三階級に分かれたのである。なお、ダンテの煉獄は地下にあるのではなく、地上で最も高い山の頂、天国のすぐそばにある。煉獄で魂は生前に犯した罪を償うと天国へ昇天できるのである。第三十一話で、私は、二種の生物の中に一つの位格を持つ霊獣に/真っすぐ向いているベアトリーチェを見た/のである。清い水の流れに見た美しい貴婦人とはベアトリーチェなのだろうか。弦と弓を強く引きすぎて矢が当たり死んだのはベアトリーチェなのだろうか。詳しく読まなければ分からない。ただ、ベアトリーチェは目撃したことを書き記すように私に命令する。矢が狐を描いて栄光の戦車の内部に襲い掛かっていくと、おぞましい情景が生まれその罪を彼女は責める。三人組、四人組の美しい貴婦人たちは、きっと乙女たちだろう、歌を歌って、ベアトリーチェは涙を流しながら聞いている。この美しい貴婦人は私の手を取って私たちと来なさいと言う。私は無垢になり、昇る備えができたのだ。煉獄は罪を償うと同時に魂をより浄化させる役割を持っているのだ。貴婦人と言う単語がたくさん出てくるのは、妖精か天使か天国に近い位置に在って、彼女たちもこの頂にやって来ることができるのである。 

「天国編」では、万物を動かされる方の栄光を記述している。栄光とは宇宙を遍く貫く光でもあり、法則でも真理でもある。ベアトリーチェはこの永遠の光の輪の中に目を向けていたので、私は彼女を見ていた。すると私の内面が変容してきて、彼女は私が自らを愚鈍にしてしまい、見えるであろうものが見えていないと批判する。彼女はこの宙の秩序の中に、永遠の徳の刻印を見ることができる。そして、この徳こそが到達点であると言う。私がこの天体の斑点の謎を問いかけると、彼女は形相に質量や光線と鏡について述べる。このように「天国編」では、ベアトリーチェが哲学的な言葉を含んで地上を含むこの宙の全体を述べるのである。 

無論、ベアトリーチェは地上の宗教や争乱に、愛と甘美な眼差しについても述べる。中心から円の渕へと至る幾何学模様に、それに己の十字架を背負ったキリストについても述べる。私の感情はベアトリーチェを見詰めているうちに、あらゆる欲求から解放される。そして私に、私たち人類の肖像画が現れてくる。幾何学模様が円と人間の像とが両立してあり得るようだ。私の知性は烈しい閃光に撃ち抜かれ、望んでいた神秘が知性の中に到来してきて、きっと神なのだろうか、私の望みと意志とが中心から等距離で輪のように回っている。これは太陽と星々をめぐる人間たちの愛の形の相似形でもある。 

ざっと読んでみると、この「神曲」は人類の確かな未来について述べている。それも神に導かれて、ベアトリーチェの支援にもよるのだが、人類は幾多の困難を徳によって乗り越えることができ、この世界を愛と希望に満ちさせることができるのである。それは真実な人間たちの未来でもある。私の大雑把は読みでは、このように解釈することができた。ただ、あまりにも文章を読み飛ばしており、訳者の原基晶の全ページに渡る注釈や各歌の簡略化した要旨さえ読み飛ばしており、彼の多大な労力を生かすことができずに残念に思っている。でも、短い時間で読むことが迫られており、それにこの「神曲」がキリスト教文学の最高峰に聳え立つ作品であっても、申し訳ないが西洋の宗教や歴史に疎い者には難しすぎるのが難点であると痛感した。仔細が分からず、残念であるけれど「神曲」なる作品はこれで読んだことにしたい。ベアトリーチェに導かれた結果、未来のこの世界が、幾何学模様が円と人間の像を両立させて愛と希望に満ち溢れていることを願っている。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。