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題:スピノザ著 畠中尚志訳「デカルトの哲学原理」を読んで

デカルトの「哲学原理」を読んではいないが、スピノザゆえに敢えて本書を読んでみる。デカルトの思想に、スピノザの解釈・批判が加わっていて、理解するのはなかなか難しいが、スピノザの考え方が、特に神についての記述が論理的でありながら、高揚としていて神に魅入られたスピノザの姿を見出すことができる。どうしてスピノザは神にこだわるのだろう、そうした疑問を持つが、自然界のさまざまな調和が神秘的にもたらされること、そしてこの神秘的な調和に自ずと身を委ねることが人間にとって最善であることを確信していたに違いない。スピノザの証明しようとした神とは、こうした東洋的な思想の匂いも伺える、雑多な人間たちを超えた一つの深遠な信念であり、自然に対する崇拝とも言うことができるはずである。

デカルトはスコラ哲学の影響を受けており、このスコラ哲学から脱出した自然科学的な思想を目指したとも言える。彼の著作なる「哲学原理」は四部からなり、第一部は人間の認識について論じている。「われ思う、ゆえにわれあり」はあまりにも有名である。第二部から第四部は自然科学について論じている。無論、手法としては数学的な定義、諸定理に、諸公理に基づいているとのこと。本書の最初にロデウェイク・マイエルの「公正な読者への御挨拶」では、スピノザもデカルトにならい、デカルトの定義を本書の初めに置き、また定理や公理も記述してデカルトの哲学原理の解明を行っている。無論、批判も含まれているが、あくまでデカルトの思想を弟子に教えようとしたものであること。ただ、ロデウェイク・マイエルは、デカルトとスピノザの思想の違いを端的に示している。

マイエルの「読者への御挨拶文」から、デカルトと異なるスピノザの思想の記述を引用して紹介したい。『意志は知性と異なったものではなく、ましてや意志はそこ(「哲学原理」のこと)に説かれているような自由は認めれるべきではないのです。・・デカルトは人間の精神が絶対に思惟する実体であることを何らの照明なしに単に仮定しています。これに反して我々の著者は、自然の中に思惟する実体が存在することは承認するけれども、しかしそのような実体が人間の精神の本質を構成することには反対しています。むしろ、延長がどんな制限によっても限定されないと同様、思惟もどんな制限によっても限定されないことを主張するのです。従って、人間の身体が絶対的なものではなく、むしろ単に延長的自然の法則に従い運動と停止によって一定の仕方で限定された延長であると同じように、人間の精神或いは霊魂もまた絶対的なものでなく、むしろ単に思惟的自然の法則に従い観念によって一定の仕方で限定された思惟である、と彼は主張します。

そしてこの思惟は人間の体身体が存在し始めるや否や必然的に与えられる、と彼は結論しているのです。この定義からして、意志は知性と区別されるものでないこと、ましてや意志はデカルトが認めているような自由を有するものでないことを容易に説明できると彼は考えます』と述べている。この文章を読むと、少し混乱してくるが、自然の中に限定されない思惟があることとは、きっと神のことであり、人間の精神或いは霊魂が一定のしかたで限定された思惟であることが注目に値する。そして、意志と知性は区別されず自由を有するものではないのである。

さて、スピノザの「デカルトの哲学原理」の第一部では、「私は思惟する、故に私は存在する」という命題を「私は思惟しつつ存在する」という命題と意義を同じくする単一命題として、スピノザは詳しく論じているのである。この論じている内容は、結構、面白いが詳細は省略するが、ただ、『すべての物の観念或いは概念のうちには存在が含まれている』のであり、『私は、完全性ということを単に実在性と即ち有のことと解するのである。・・従って実体は偶有性よりも一層必然的な、また一層完全な存在を含んでいることを明確に理解する』と展開していくのである。こうして『すべての必然的な存在を含むものは最も完全な実有即ち神であるということが帰結される』と述べるに至る。

ここで私が私自身を維持できるかどうかが問題になる。結局『・・私自身を維持する力を有しない。従って私は他のものによって維持されるわけである。・・自らを維持する力を有する他のものによってである。・・その本性が必然的な存在を含んでいるようなもの、つまり、・・すべての完全性を含んでいるようなものによってである。従って、最も完全な実有即ち神は存在する』こうして『存在するすべてのものは、神の力にのみよって維持される』となる。

こうした神をなぜスピノザは論じるのであろう。またしても疑問が生じてくるけれども、早急に結論を出すのは止めたい。自然科学について論じた第二部から第三部については、古いゆえに省略する。付録「形而上学的思想」の第一部、第二部では『この中では、形而上学の一般部門並びに特殊部門に於いて有とその情態、神とその属性及び人間精神に関して出て来る比較的困難な諸問題が簡単に説明される』とのスピノザの言葉通りに、スピノザの思想の根幹が明らかにされている。この内容についての紹介は省略したい。付録「形而上学的思想」はとても良く書かれている。

なお、スピノザは汎神論と言われるが、汎神論にも無神論に近いいろんな思想が含まれている。結局、簡単に述べれば、スピノザの神とはこの自然であり、人間や物も含めたこの世界である、この神のみが存在していて、自由意志はあり得ない決定論的な思想の持主がスピノザなのである。ドゥルーズの「スピノザと表現の問題」を再度読んでスピノザの思想を思い出し調べたいが、特に自由や意志を絡めた存在論との関係である。また、表現と形式の問題である。更に、スピノザの決定論の高貴性は確率や不確定の混沌性とどう絡んでくるのか、スピノザを崇めつつも、決定論の純粋性が高貴であればあるほど混乱、破壊へと繋がる可能性があるのかどうか。

即ち、もはや政治的な領域に入るが、この世界には多数の神がいて、この神が人間と人間の組織形態を打擲すると、彼らは鼓動を打ち鳴らして血潮を噴き出させても神に反逆するかの問題である。更に問題を数珠つなぎにするなら、歴史的に見ても人間性に変わりなどないならば、機械的に人間性を変える時代が来るかどうかである。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。