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お正月 祖母との思い出

実家なのに親ももういないし祖父母もいない。
名義上は私の家。
おせちもお雑煮も自分で作るしかない(笑)。
それでも何故か、母が亡くなって3回目の正月をまた、実家で過ごしている(自宅とは別)。

年末年始の準備も、うるさいことを言う人が誰もいないし
自分のこだわり?だけで、丁寧にやるも適当にやるも自由。
3回目ともなればもうとっくに慣れていていいのに、
今回やっと少しペースがつかめてきた感じ。

小学校2年生から、うちの家族は父の両親と一緒に住み始めた。
祖母はちょっと小うるさいところのある人で、まあ、悪気はないんだけど、よくいろんなことで母と「嫁姑バトル」をしていた。

年末には正月を迎える準備。松飾り。鏡餅。お花を生ける。
母に松飾りのためのアレコレを買って来いという。
松はこのくらいの枝ぶりで、とか、いろいろ細かい指示を出す。
当時の祖母、七十代。
そんないろいろこだわりがあるなら自分で買いに行けば? と
今なら思うし、言うし、仮に私の相方の母親なら(90手前だけど)
自分で行く。絶対。
それでもあの頃の嫁姑とはそういうもの。嫁がいるのに姑自ら正月の準備にのこのこ買い物に行くなんてもってのほか! 
だったのかどうなのか、とにかく、私は祖母が自分で買い物しているのを、そう言えば見たことがない。
松飾りと言ったって今みたいに全部出来上がってるものが売ってるわけではない。各家でしきたりやこだわりに合わせて松と幣などを組み合わせて飾る…つまり、カスタマイズするのだ。

年末になると駅の近くに屋台が出て、松飾やしめ縄や幣やらなんだかわからないけれどあれこれを販売するのが季節の風物詩だった。
リモートで祖母に言われて買い物に行く母が、帰って来てから
「違う!これじゃなくてこう言う形の」などと言われて
翌日また屋台へ行っておじさんに交換してもらったり、何度も手間をかけさせられていたのを知っている。
そのうちに毎年来る屋台のおじさんに覚えられて「あああのうるさいお姑さんのいる家だね、それはこの松だね」とか
すんなり買えるようになるという(笑)ウソのような温かい話。
母は山陰の生まれなので、正月飾りの風習も関東風になじみがなかったんだろうと思う。気の毒な。よく頑張ってたよね。

鏡餅は毎年米屋さんから届く。
今みたいにパックに包まれたものではもちろんなくて、大小のお餅を積み上げたもの。
食べるお餅より若干水を少なめにしてつくらしい。(それは後に、子どもの小学校であった餅つき大会にお手伝いとして参加してから知ったんだけどね)
そこに、ただ橙(ミカンじゃないのよ)を乗せて終わりではなくて
まず三方にウラジロを敷いた上にお餅を乗せる、その上の橙は動かないように竹串で上のお餅とつなぎ、ホンダワラ(乾燥した海藻。昆布の代わりかな?)と松葉と榊を半紙で包んだ物を真横に置いて、紅白の水引を掛けて結び、イセエビの作り物を引っ掛ける。
これがまた面倒で大変(笑)。

↑なんでこれだけちょっと詳しいかと言うと、この鏡餅を飾る祖母のお手伝いを、小学校高学年くらいからずっとしていたから。
最初は70代のシャキシャキ姑だった祖母がだんだん80代のうろ覚え姑になり、私の方は小学校高学年が女子大生に、忙しい勤め人になり、
だんだん立場が変わってきたのが懐かしい。
祖母が「こうするんだよ」って教える口調で言っていたのが
「こうだったかねえ?」と心許ない感じで言うようになって
私は私で「こうするの?」って手伝っていたのが
「うん、そうそう、そうだったよ」って半分適当になりつつ
お互いの落としどころを決めて形作るようになった十数年。

今年のお正月はなんだかそんなことを
しみじみと思い出した。

孫が8人いた人だったけど、これを教わったのは私だけなのかなと思ったら
いつか再現したいななんて思ってしまった。
でもさ、鏡餅はあっても、もう、ホンダワラやら何やらがないよね。
それに鏡開きまで放置したカピカピのお餅のカビを削ったり、割れたところからほじくり返して細かくしたりしてお汁粉にするなんてとても無理。

今年も小さなパックになった鏡餅を縦にスライスしてお汁粉作ろうっと。


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