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教育とは、<物語>をつくるものだ。

久しぶりにnoteを書きます。院試や卒論準備であっという間に夏休みも終わりそうです。

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さて、今日noteを書こうと思ったのは、「教育」を言葉にしてみたくなったから。

実は、昨日は院試1日目、筆記試験でした。試験は3科目 ――英語と人間科学全般の論述と、教育学、特に教育人間学分野の論述。

そのうちの3つ目、教育人間学分野の論述で出た問題がこんな感じ。

言語と教育、あるいは人間形成とのかかわりについて、自分の問題関心と結び付けて論じなさい。

なんとまあざっくりした問題だこと。
でも、ざっくりしているからこそ、あらためて「教育」の本質を問われているような気がする。ずっしりと重い問いだ。

試験時間中、ちょっと楽しみながら考える。
問いに対しての答えももちろん考えながら、「教育」とは何か、という教育の本質についても思考を巡らしていた。

結果、後者の問いに対して自分が出した答えはこれだ。



教育とは、<物語>をつくるものだ。



そう、<物語>である。
それは、決して国語に出てくる物語や、歴史に出てくる偉人の物語だけを指しているわけではない。

<物語>とは、自分とあるものごととの間にある関係性に、自分なりの意味をつけたもののことだ。

たとえば、社会の時間に、労働に関する法律、制度、権利などを学ぶとしよう。
もしテストのために、労働に関する言葉を学ぶのであれば、その言葉はその言葉自体が持つ以上の意味をもつことはない。すなわち、その意味は、自分の意味ではなく、だれかがつくった意味なのだ。

では、それら労働に関する言葉を、その言葉が存在する社会的な価値、その言葉と自分との関係性とともに学ぶとしたら、その言葉は学び手に取ってどんな意味を持って立ち現れるだろう。

間違いなく、その言葉はそれ自身がもつ以上の意味をもって学び手の前に立ち現れる。

その言葉の存在によって、労働者となる自分は守られるのだ。
その言葉がなければ、労働者は弱い立場とされ資本家に搾取され続けていたのだ。
その言葉は、資本家が優位の社会への批判なのだ。

言葉にこのような意味を付け加えられたときはじめて、学び手はその言葉を自分の<物語>の中に組み込み、新しい<物語>をつくることができる。

<物語>をつくるのを助けることこそが、教育の役割だと思う。間違っても教育の役割が「知識を増やすこと」と言ってはならないと思う。

知識は、それ自体では価値は生まれない。

知識が<物語>として編み込まれたとき、はじめて価値を持つのだ。

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では、<物語>をつくるのを助ける教育とは、どのような教育だろうか。

ここからは仮説だが、<物語>をつくることと、探究的な学びは、とても親和性が高いのではないだろうか。

探究には教科書がなく、自分で自分の足跡を自分の教科書としていかなければならない。だからこそ、探究の足跡を<物語>として編んでいく必要があるのだ。

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ではでは、学び手の足跡を<物語>として編むことを助ける「探究」とは、どのような営みだろうか

これは、今後の自分の問い。卒論で明らかにしたいな。

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ちなみに、ぼくの<物語>の考え方は、いきものがかりの水野さんの考えにとっても影響を受けています。よければそちらもぜひ読んでみてください。人間の核心に触れた、ひりひりとする言葉たちです。


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