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用の美と意味の美

この記事は奥田が友人たちと行っているaaiu radioというPodcastの『用の美と意味の美』の回を書き起こしたnoteです。
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プロダクトデザインという言葉について

こんにちはaaiu radio奥田です。今回は用の美と意味の美という話をしていきたいと思います。

プロダクトデザインという言葉があります。デザインのジャンルの一つです。さて、これは何のデザインをするのでしょうか?
美術大学に所属している方であったり、デザイン教育を受けてきた方であれば、広く物質的なハードウェアや製品、企業が作る製品に関するデザインのことを概ね想定するかと思います。

しかし、最近デザインを特に学んでいる人であったり、もう少し広い意味でデザインを学ぶ人の間でやっぱ、もしかしたらサービスであったり、アプリケーションなど、ソフトウェアのデザインを、頭に浮かべる人もいるかもしれません。

今デザインの業界、業界となんとなくすごく排他的なワードなのってあまり使いたくないのですが、その中ではプロダクトデザインという言葉の意味で、ダブルスタンダードの状態が起きています。これは単なる言葉のスレ違いではなくて、結構根深いデザインに関する審美の基準の問題が起きているのではないかと考えます。
今回は、この言葉の変容をもとに、用の美と意味の日というものについて考えていきたいと思います。

日本におけるプロダクトデザインの絶対的な基準というか、大元の方として、柳宗理さんというデザイナーの方がいらっしゃいます。
大変著名な方なので、ご存知の方も多いかと思いますが、彼は何でしょう、バタフライツールって言われるような、曲木を使ったデザインであったり、少しちょっとプロダクトデザイン的には巨大なんですが、高速道路の壁面、そういったもののデザインをしていたりします。



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この方のお父様にあたる柳宗悦という方、がいらっしゃいます。その方は日本の中から民芸という存在を発掘し、その美しさを用の美という言葉で説明しました。民芸というのは、各地方に存在する、その土地の中でずっと作られてきたような、お椀であったり、花器であったり、日常品の以上のことを指して用の美という言葉で柳宗悦は説明しましたつまり、この用の美という言葉が指すものというのは、素朴で、生活に必要な機能が必要なだけ施されており、商業的でない、物のことを指しています。

柳宗理さんという方は、本当に著名な方で、数々の名作を生み出されているのですが、著名であるからして、もちろん柳さんの次の世代の方々にも多大なる影響を与えています。例えば、数年前に亡くなられた榮久庵憲司さんという方がいます。

彼はキッコーマンの醤油差しの形をデザインした方です。もう少し若い若いといっても、もう高齢に当たるんですけども、現在はそういう形で言えば、例えば深沢直人さんであったり、森正洋さんであったり、プロダクトデザイナーに限らず多くの方やったり、ライフスタイルそのものに影響を与えたデザインの形です。

これらの方々は基本的には製品のデザインを通して、デザインのアウトプット制作物を発表していく。それらが商品となって現在でも流通しているものが多くあります。それぐらい長い間、使用に耐えうるようなデザインこそが美しい、それこそが用の美であるというふうに彼らは美しさというものを定義してきたと言えるんじゃないでしょうか?

翻って、最近のデザイン、プロダクトデザインというもののことを考えてみたいと思います。
冒頭に述べた通り、プロダクトデザインという言葉が、製品のデザインだけではなくって、これも広く言えば製品なんですが、アプリケーションであったり、サービスというものまで、言葉の使われ方、用いられ方をしてきているという現状があります。
これは背景として、スマートフォンっていうものの存在が強くあるというふうに考えられると思います。2008年に日本でiPhone3Gが発売されました。特にiPhone4であったり、4S以降、つまり2010年以降においては、スマートフォンというのは、私たちの生活にすごく浸透した
プロダクトになりました。

今、このポッドキャストもスマートフォンで録音をしてるんですけども、つまり、今まで例えばこの録音というのは、ボイスレコーダーで行うものであったと。カメラというものも、ある種の製品を購入して得られる機能だったと思うんですね。
しかし、スマートフォンというものが現れてきてしまってから、この板一つで、おおよその生活の中で使う、ある製品を買わなければ達成できなかったような機能というものが、達成できるようになってしまったと、そういったところが大きく影響してるんじゃないかと思います。それはつまりプロダクトデザインというものが物体をデザインするということから、スマートフォンの使い方をデザインするというところに変化してきたというところがあると思います。つまりそれはソフトウェアであったり、アプリケーションのデザインっていうことになりますね。というような流れを経たときに、2010年を境に、プロダクトデザイン製品のデザインというような対象が一気に有形のものから無形のものに変わってしまったと言えます。これが冒頭に述べた、プロダクトデザインという言葉が変わってきた背景に存在すると
僕は考えてます。

これはただデザインする対象が変わったというだけではなく、もっと広い意味を持った影響を与えてるんじゃないかと思います。つまり人のニーズというものが、物を買うことであったり、物を買った上で何か機能を得るということから、その機能単体だけが切り取られててしまい、つまりその体験のデザインというものにすごくフォーカスがされていくということになったわけですね。これが近年、すごく重要視されている、UXデザイン、ユーザーエクスペリエンスデザインと言われるようなもののデザインする対象になっていると言えます。

それが何を指しているのかとこれが今回のテーマというか、趣旨である意味の美という話になっていきます。
物体を持つことが、ある意味、その人のステータスであったり、その人の体験の向上に繋がっていたという時代から、物体を持つことではなく、何かその機能を用いて、アウトプットするカメラのアプリを使って写真を撮る。レシピのアプリを使って料理を作る、録音の機能を使って、ポッドキャストを作るそういうことに変化してきたわけです。
そういった新しい価値感が生まれたときに、用の美ということは、どう使われるでしょうか?

そもそもは、必要な機能であったり、必要な条件を達成するための造形を作るようなことが、用の美として用いられていたというところを、そのままアプリケーションに応用するとすれば、快適な操作性であったり、操作を誤らない、間違いないということであったり、そのアプリケーションを使う、もしくはその機能を使うということに対する安心感のようなものに変わっていきます。
言ってしまえば、ブランディング的な話になっていきます。

拡大するブランディングの役割とその影響についての考察

ブランディングというのも、かなり抽象的な言葉なので、扱いに注意したいところなんですけども、今回、ブランディングという言葉は、ある特定のサービスの発行元であったり、サービスそのものに対しての認知という意味で使っていきたいなと思います。
ブランディングというものがある種の認知であったり、信頼のようなものあったときに、それっていうのは、非常に定量化しにくいもの、数値で測りづらいものとなってくるんですけども、そこであらわれてくるのが意味という言葉です。


デザインにおける「意味」というものを研究している方に、イタリアのロベルトベルガンティ教授という方がいらっしゃいます。この方の書かれた本に突破するデザインという本があるんですけども、その本で書かれていることは、人が何をもって今も儲かっているのかという話です。『
突破するデザイン』比較的最近、2010年以降に書かれた本ですけども、そこで書かれているのは、ろうそくの例があります。今、おそらく日本に住んでいる方の多くは、家の中に電気が通っている家庭が多数派だと思われます。
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電気が通っているということは、夜中でも明るく部屋を照らすことができますそうなったときに、ろうそくというものは不要になるのでしょうか?そこに意味のデザインが必要だという話を、ロベルトベルガンティさんは本で書かれています。それは何かというと、今までろうそくの意味というものが、電気がない中で、明かりつまり光を灯すものであったと。

それが光というものが不要になった今、ろうそくの機能というものはほとんど不要なものと言えるんですね。しかしろうそくというものは、その本ではアメリカの数値が出されていたと思うんですけども、売れ続けていると、それ何で売れているんだというところを調査したところ部屋の空間の演出であったり、雰囲気を作るためにというふうなマーケティングをした商品が売れていたという話です。
ヤンキーキャンドルという商品だったんですけども、それをベルガンティ教授は、ろうそくの意味が変わっているんだと。明かりを照らすための存在であったものが、その生活の中での意味づけというものが変わっていたと。これは、今までの用の美という概念だけだとなかなか見つけづらい考え方であります。

なぜなら用の美というものは、使う人たちがどのような今振る舞いをしているかというような話であったり、もう少し現代的な言い方をすると、人間中心デザインというような言い方もありますけども、そういった指標の場面から逆算して考えていくからですね、対してこの意味という概念は、そうではなく、これも『突破するデザイン』に書かれていた話なんですけども、個人のビジョンというものからスタートしていきます。個人がこうあるべきだ、こうある方が良いのではないかという発想を持って結晶化させて、結晶化させたものが商品になる、そういうプロセスを突破するデザインでは奨励しています。


僕がこの本を知ったきっかけとして、Takramというデザインファームに所属している渡邉康太郎さんという方が提唱しているコンテクストデザインという話があります。渡辺さんがnoteに書かれている『コンテクストデザインとは』のところから引用したいと思っております。




コンテクストデザインとは、それに触れた1人1人からそれぞれの物語が生まれるようなもの作りの取り組みや現象を指す。換言するならば、読み手の主体的な関わりと、多義的な解釈が表出することを、書き手が意図した創作活動だ。もともと現代的なデザインは、産業革命以降の大量生産、大量消費を背景に成長してきた。それは特定の使い手を一意に想定し、特定の問題を解決するためのものだ。デザインは普通、正しい使い手に、正しい使い方で、正しい価値を提供することを目的とする。明確に言語化された比較化可能な価値を定め、選んでもらう。例えば、数百の赤が揃っている口紅、高解像度のカメラを備えたスマート加工が綺麗な写真やっぱり、これらはマーケットの要請に応えるために必要だ。でもこのような条件を前提としないデザイン活動があってもいい価値そのものの定義が使い手の側に委ねられているデザインがあってもいい。
コンテクストデザインは完成されたものの、使用による意図通りの価値提供を目的としない。むしろ、未完成のものの使用によって、意図した価値提供を超え、デザイナーの創造の先、物語を波及させることを目的とする。

と書かれています。

もう少し端的に言ってしまうならば、ある特定の機能を価値とせず、そのプロダクトであったり、何かデザインを通して、それを使うが、受け手であった人がいつの間にか発信者であったり、そのデザインの価値そのものを決めていくというか、定義していく
ような設計をしたデザインというものを、コンテクストデザインと説明しています。コンテクストデザインの具体例としては、Message Soap, in timeという商品があります。これは石けんの中にメッセージを書いた1枚の布が込められているという。ものです。使い手は、最初は一見普通の石鹸なんですが、それを使っていくことで、中からメッセージが表出していく。それを、ふとある時気付き、使っていくうちに全ての文章が読めていく、そういうデザインです。これはある意味、使い方の一つわかりやすい想定としては、ギフトというものがあると思います。人から人にプレゼントを渡すときに、手紙を書くというのも少し恥ずかしかったりだからといって、何も伝えないというのも寂しかったりします。そこで、このような少し時間差があって、届くような手紙であったり、そもそも使ってもらわなければ読まれることがないというような手紙を送るということに価値が現れてきたりするというような想定を作っています。



もちろんコンテクストデザインの、先ほどの引用文からもあった通り、それは一つの想定される価値でしかないんですが、そのように、ただ用いる際の勝手であったり、使い勝手であったり、使うときの機能を超えた先にある価値、それはごく個人的なものであったり、測れないものだったりするんですが、そういったものが求められていくということが、特に2010年以降起きてきたのではないかと考えます。

この用の美という概念の対極に存在するような意味の美しさというものか、これからデザインにおいてすごく重要な位置づけを占めてくるんじゃないかと僕は思うんですね。それは先ほど述べたブランディングの話も通じます。
そもそも、ブランディングというものも、はるか昔の例えばルイ・ヴィトンのようなファッションブランドであったり、ポルシェやメルセデス・ベンツのような車であったり、様々な商品群の中で語られてきたそこまで新しい概念ではないとは思います。ただ、2010年以降という一つの区切りを設けたときに、そのブランディングという価値が特に重要な位置づけがデザインの対象の中で占めてきているというふうに感じます。今回はブランディングの話はそこまで深掘りせずに、それが結果的に起こしているであろう問題について提起したいと思います。

これはわかりやすく言えば、世代間のデザインをめぐるすれ違いということです。日本のデザインというものは、特に1960年代以降、決定づけられてきた概念だと思います。ご存知の通り、64年には東京オリンピックがあったり、それから高度経済成長期であったり、インターネットのようなものが日本に入ってくるような時代の中で、特に日本は製造業というものが強く力を持っていた国でした。
車であったり、家電を輸出することで利益を得ていくというような国の戦略がある中で、デザインというものは、その製品のスタイリングというものにすごく特化してきたわけです。で、特にそこに+αで用の美という概念が変わっています。
例えば、全く別の国を見れば、かなり違う進化の仕方をしている。イタリアだったりすれば、生活にどのような面白みを与えるかっていうようなことをコンセプトにしている。ALESSIというブランドがあったり、例えば日本でもかなり人気ですが、IKEAのような北欧家具のブランドというものも多数存在していたりしますが、そういったものと比較して、日本の製品デザインというのは特に質素な存在感・世界観であったり機能性、ここでいう機能性というものはスペックのみではなくていかに快適な使い勝手を提供することができるかというようなところにフォーカスされていきました。

さらにそれがライフスタイル的に生活の中でどのようなあり方をするかというような話まで広げたのが無印だと考えます。無印良品は、ブランドの最初のコンセプトとして、MUJIがいいではなく、MUJIでいいというようなことを提唱していました。

生活をする上で、すごくハイスペックなカメラとか、かっこいい車みたいなものだけではないところがたくさんあると思うんですけども、例えば洗濯物ばさみであったり、ちょっとした文房具であったり、日用品と言われるようなものたちに対して選ぶということをなるべくしなくても、無印に行けば、それなりに満足する質のものが買えるぞというようなブランディングをしたわけですね。
これはまさに用の美という概念の結実した結果だと思います。日用品に対して、粗悪なものであったり、加飾なものを求めるのではなく、必要最低限の質素だが、長く使えるような存在を提案していく。そのことによって、無印は今やグローバルに展開するような有名なブランドになったわけです。

この無印というものを、特に牽引したのが、原研哉さんであったり、深沢直人さんといったところになります。もちろん他にも、(同世代には)山中俊二さんであったり、岩崎一郎さんであったり、黒川雅之さんのような著名なデザイナーの方はいらっしゃいます。

しかし、彼らの多くは、2010年、つまりスマートフォンという存在が世間に浸透するより前に、多くの業績を残した方々であります。これは単に時代に対して批判をしたいという話ではなく、彼らの与えた影響に対しての問題提起をしたいということです。

偉大すぎる先人たちの下で起こる問題

彼らは素晴らしいすぎるデザイナーであるが故に、後世にまで多大な影響を残しています。つまり、僕たちデザインを学ぶ若い人たちに対しての影響力のことを指しています。1980年代以降から、特に活躍をし続けた、今挙げたような方々というのは、美しい製品を作るっていうことにすごく長けた方々です。そのデザインというものは、作品集であったり、インターネット上の画像で多く残されているのですが、これら今そのまま参考にしてしまうと、すごく問題が起きると思うんですね。それはつまり先ほどから述べている通り、意味の美というものが、今時代として要請されているからだと思います。
ものの美しさであったり、その使い勝手、用の美というものだけだと何のためにその製品を使うのか、それは機能的な話ではなくもっと情緒的な部分でどういう価値が生まれ得るのか、一義的な解釈ではなく、多義的な解釈と渡辺さんがおっしゃっている通り、それを手にする人たちというものは、必ずしもその機能がなくても事足りているような人たちであるということです。
最も問題なのは、これがすごく短期間の間で起きてしまっているということです。
つまり、今、教員をされている方の方は、1980年代から活躍してきたようなデザイナーの方たちと同世代だったり、少しその下の世代というところだったりするわけですね。なので、デザインにおいての基準というものが、自分たちが肌感として感じるような社会の価値感であったりに要請されているものとずれているところがあるんだと思います。

少し話は変わるのですが、欧州で言えばオランダであったりフランスなどは最近は特にサーキュラーな経済圏作りであったり、地球環境への配慮に対してデザインがどういう営為を為し得るかというところが、盛んに議論されていたりします。

例えば、マテリアル素材の話であったり、市民がどう関わっていけるか、ただ都市を作って終わりではなく、そこに住む人たちは、そこの都市に対してどういった意味を見出すのか、そういったところが議論されていたりします。
日本においては、あまりそういった動きは少ないです。特にプロダクトデザインにおいては、今までの用の美の話から、製品を販売するということに特化したビジネス重視のデザインという慣例が起きてしまったせいで、若干そこに対して出遅れてるような印象を受けます。


用の美から意味の美へ向かう為に


これは僕は非常にまずいんじゃないかと思ったりするわけなんですけども、つまり商品が売れなくなっていってしまうような今からの状況に対して、用の美というものを追求して人が買ってその後どうするかというような話をするフォーカスにデザインが偏ってしまうとどんどん、どんどん何か社会の状態から乖離してしまうようになってしまうんじゃないかと思うわけです。

これが今回、僕が提起したかった問題です。では、そのようなすれ違いが起きていっているときに、我々学生はどうすればいいんでしょうか?
ここに答えはないんですけども、一つはやはり多面的にデザインを扱う方法を考えていきたいなと思います。
多面的というのは一つの切り口、つまりビジネスとしてのデザインという話のみではなく、例えば、いわゆるソーシャルデザインと言われるような社会課題を解決する手法としてのデザインはどのようなものになり得るか、社会課題というと広いので、もう少し狭めるとしたら先ほどオランダの例で話したような環境問題の話も一つあるでしょうし、高齢化社会に対してどういう意味が必要になるだろうかという話もできると思います。
ここはかなり慎重に考えなければならないところで、つまり先ほどの用の美の話に行くと、いかに持ちやすい食器を作るかであったり、例えば認知症を患った方が、徘徊をしないような空間設計をするかといった話に行きがちです。そうではなくその方たちがそのサービス施設のサービスを享受する意味というものはどういうデザインで整えられるべきなのか。その方がもっと言えば例えば老いて生きるっていうことの意味とは何だろうかというような、かなり抽象的なところまで切り込んで考えなければ、今までと同じような用の美にとどまってしまうんじゃないかと思います。
そのためには、抽象的な概念というものをもっともっと使っていく必要があるんじゃないかと。
このポッドキャストというのは広くリベラルアーツ的なところであったり、思いもよらないような角度からの話をなるべくしようと心がけているチャンネルなので、何かこういったポッドキャストからもヒントを得てもらったら嬉しいなと思ったりします。さて、今回は用の美と意味の美というものについて話してきました。ありがとうございました。

aaiu radioはデザイン・人類学・経済学を専攻している学生3人が創作をする人のインスピレーションとなるような話をしていくpodcastです。 毎週火曜日に更新予定。 aaiu とはarts & academics in urban lifeの略で芸術と学術をまたぎながら生活の中で考えていることを取り上げていこうと思います。

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