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偶然は用意のあるところに

道を歩いていたら、偶然、こんな看板を見つけた。

しばし立ち止まり、その言葉を心の中で反芻してみた。
とてもいい言葉だなと思った。

展示のタイトルらしい。西澤徹夫さんという方をまったく知らなかったが、ジャケ買いみたいな気分でタイトルに惹かれ展示に立ち寄った。

京都京セラ美術館、八戸市美術館などを手掛けた有名な建築家さんだった。

遡ること1時間前。
僕は姪の結婚式に併せて新しい靴を買っていた。

新しい靴はいつだって、人の気持ちをワクワクさせる。
思わず近所を散歩してみたくなった。

どこに行くというわけでもなく、ただ新しい靴を履いて歩くという目的のために外を歩きたくなった。

新しい靴を履いて歩くと、
通い慣れた道まで新しくなった気持ちになる。

普段気にも留めない「トマレ」の路面表示さえ、思わず靴の足跡みたいな部分に靴を合わせてみたくなった。

さすがに小学生に見られてはまずいと思い少しズラした。
大人のたしなみというやつだ。

そこからほどなく歩いている時に偶然見つけたのが、あの展示の看板だった。

「偶然は用意のあるところに」

何度でも言いたくなるような、声に出して読みたい日本語だ。以前、そんなタイトルの本を出した齋藤孝先生にも教えてあげたい。

これを見てふと思い出したのは、キャリア論の世界では有名な「計画された偶発性」という言葉だ。なんだかこれも不思議な言葉だが「個人のキャリアの8割は予想しない偶発的なことによって決定される」というもの。

「キャリアって8割も偶然で決まるなら、そんなに頑張っても仕方ないよね。コーヒーでも飲みながら漫画でも読もうよ」と喧伝して回りたいところだが、「偶然をチャンスと捉えて、自分のキャリアを良くしていこう」という考え方でもある。

まぁ、俗っぽい言い方をすれば「ポジティブな後付け」だ。スティーブ・ジョブズ的な言い方をすれば「connecting the dots」とも言えるだろう。

物事というのは、大抵の場合、ものの見方によって、気の持ちようによって、いかようにも解釈できる。

でも、西澤さんの展示のタイトル「偶然は用意のあるところに」は「後付け」ではない。むしろ「前付け」だ。

「前付け」という言葉があるのかは知らないけど、起こった偶然に対して、後から意味づけをするよりも、意味ある偶然のために、用意をしておくというなんとも素敵な気配が漂っている。

ニュートンだって、物理学への興味関心がなければ、木から落ちたりんごをただ美味しく食べたに違いない。

「セレンディピティ」という英語のタイトルの本を翻訳する日がいつか来たら(おそらくそんな日は訪れないだろうが)、邦題は「偶然は用意のあるところに」を推したい。西澤さんに会いに行って許可をもらいにいきたい。意味があっているかどうかはよく分かっていない。

僕が新しい靴を履いて歩く行為に心が躍ったのは、きっと、心のどこかで新しい何かに出会える期待感が高まったからではないだろうか。

そして僕は西澤さんの言葉に出会った。展示で見た彼の手掛けた「八戸市美術館」にも行ってみたくなった。

せっかくだから、新しい靴を履いて行きたい気もしたが、八戸市美術館に行く頃にはもう新しい靴ではなくなっているかもしれないし、歩きやすいほうがいいので履き慣れたスニーカーで行こうと思った。

偶然を求めて心が躍るのは、何も新しい靴に限ったことではない。

どんなことでも心の用意があるだけで、
何気ない普段の日常に彩りが生まれるような気がした。
そして少しだけ目線が上がるような気がした。

思えば西澤さんの展示の看板もビルの上のほうにあった。これまで展示会場があることさえ気づかなかった。目線が上がれば自然と視野が広がって、新しいものに出会う機会も増えるのかもしれない。

目に映るすべてのものはメッセージということだろう。

……あ、最後の締めが、何だか有名な歌の歌詞みたいになってしまいましたが、決して他意はありません。あくまで「偶然」ということにしておいてください笑。

このnoteをたまたま見つけて読んでくれたあなたにも、
きっと素敵な「偶然」が訪れますように☺️

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