心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その21

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その20

 スコップを持って隣の家の屋根の上で叫ぶ父
 高校1年の春、天気がいい日曜日、珍しく映画を観に行かないで家にいて、例の『月刊シナリオ』という雑誌を読んでいたら、隣の家の方から「トントントン」という釘を打つ音が聞こえて来た。
 その半年くらい前に自分の家を改築したばかりで、その頃は、自分の家の一帯で家を改築するのが流行っていた。改築と言っても、1棟に4軒が入っているテラスハウスなので、根本的に壊して立て直すわけではなく、やや大規模なリフォームという程度のものである。
 釘を打つ音は、そんなにバカでかいものでもなく、自分の家を改築する時にもこのくらいの音はしただろうと考え、「しょうがないなあ」と思いながら2階の自分の部屋で例の雑誌を読んでいた。
 あまりに気になるようだったら近くにある区立図書館に行こうと思っていたが、それほどでもなかった。
 自分の家は、2階建てのテラスハウスが並んでいる中の一軒だった。各戸は横並びで街路沿いに玄関がありそれぞれに庭がついていて、玄関側が2階建て、庭側が1階建てで、玄関側の2階の窓から庭側の1階の上の屋根に出ることができた。
 釘を打つ音がしばらく続くと、突然父が血走った眼で、スコップを持って2階に上がり自分の部屋に入ってきた。どうもかなり酒を飲んでいる様子で、眼の焦点が合ってなくて虚無的な雰囲気が漂っていた。薄汚れた灰色のステテコをはき、少し汚れたダボダボの白い長そでのシャツを着ている。それは、家にいる時のいつものスタイルであった。
 どうしたんだろうと不思議に思っていると、窓を開けて、窓枠に足を掛け、自分の家の屋根の上に出た。そして、屋根伝い隣の家の屋根の上に行き、そこでスコップを屋根に「ズデンズデン」という鈍い音をさせて打ち付けながら「君は釘を打つのが趣味なのかね、えー、キミイ。君は釘を打つのが趣味なのかね」と叫び始めた。
 透き通るような青い空をバックに、隣の家の屋根の上で薄汚れた下着姿の中年の男がひたすらスコップを屋根に打ち付ける。頭上には餌を食べすぎた元気いっぱいの子豚ちゃんのようなまるまると太った白い雲がぽっかりと浮かんでいて、足元のすすけた空色の屋根が鈍い太陽の光が反射している。19世紀の印象派の絵画のような妙に絵になる光景だった。
 叫ぶといっても、なかなか大きな声が出ず、「キイキイキイ」という感じの線が細い声であまり迫力がなかったが、それでも隣近所には十分聞こえていたと思う。
 それに対して、苦情を言う人もいないし、それで改築工事が中断するわけでもなかった。
 職人さんたちは気がついていなかったのかもしれない。あるいは、聞こえていたけど仕事が忙しかったので無視していたのかもしれない。
 とは言うものの、時々道を歩いている人が怪訝な顔をして見上げているし、なんと言ってもいわゆる奇行の部類に属することなので、なんとか止めさせた方がいいと思ったが、自分が言っても駄目だ、ということはこれまでの経験からわかっていて、止めさせる方法がわからなかった。
 「早く終わらないかなあ」と思っていたが、同じことを延々と繰り返していた。
 どうすれば止めさせることができるかわからなかったので、母に相談しようと思って、探すために1階に降りていったが母は見つからなかった。
 「この時間にいないということは、買い物にいったのだろうか」と思って、家を出て近くのスーパーマーケットに行ったら母を見つけることができた。
 事情を話すと母は「教えてくれてありがとう」と言いつつひきつった顔をしていて、買い物を切り上げて家に戻ってきた。
 母は、自分の家の2階の窓から首を出して「パパ、やめましょう」と熱心に何度も同じことを言い、しばらくして、父も同じことの繰り返しに飽きたのかなんとなく止める気になったようで、スコップの操作を止めてこちらの家の屋根の上に移り、そして窓から家に入った。 
 自分はその一部始終を見ていて、「あーあ、あんな頭のおかしい男の言いいなりになって奨励会を辞め、自分の夢をあきらめ、生きがいや希望をなくし、居場所をなくしたんだなあ。まったくさえない話だ」と思った。まったく幻滅である。
 父が奨励会退会を言い張っていた時の「金子太鼓ボンボンボン、金子太鼓ボンボンボン」という人を馬鹿にしているように同じように同じフレーズを連呼する様子とか「キチガイになっちゃう」という発言を繰り返す様子なども思い出した。
 そしてその時、頭の中で「元奨くん」の悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。

 なんなんだろうねえ。あの頭がおかしい男は。
 薄汚れたステテコ姿で他人の家の屋根に乗って、「ズデンズデン」といかにも軽薄な音を響かせてスコップを屋根に打ちつけながらわけのわかんないことを叫び続けている。
 あんなことをする頭が悪そうな奴に、金子先生のことを「キチガイキチガイ」とバカにする資格はないじゃあないか。いや、頭が悪そうな奴ではない。正確には、頭がおかしい奴だ。自分が気違いのくせに人のことをキチガイキチガイと言ってバカにするような奴は、絶対に自分の父親として認めることはできない。
 金子先生のように人里離れた野山を巡って太鼓をたたく方が、隣の家の屋根の上でスコップを打ちつけるよりも、少なくとも他人の迷惑にならないという点ではおおいに優れている。
 俺はあんな頭がおかしい男のせいで、夢を失った、希望を失った、挑戦も、冒険も、感動も、考える喜びも、工夫する楽しさも失くした。居場所を失くした。生ける屍になった。
 どうしてこういう運命なんだ。いくら親だからと言って、日本国民の憲法で定められた職業選択の自由を勝手に奪えるなんて馬鹿げている。
 なんという世の中だ。
 親というのはそんなに偉いのか。
 まったく馬鹿げた世の中だ。
 あんな奴は自分の父親として認めない。
 俺の本当の父親は奨励会そのものだ。
 奨励会を失った俺がいるところは、父親がいない真っ暗な闇の世界だ。
 本当の父親を失った俺はどこに行けばいいんだ。
 行くところがないじゃないか。
 チクショー、チクショー、チクショー。

 自分の父親の様子がおかしいのに、こうして自分の奨励会退会のことを考えているのだから、自分のことしか考える余裕がなかったのだろうか。
 でも、「元奨くん」が自分の人格のすべてだというわけではなく、わりあい父の様子を冷静にじっと観察している自分もいた。
 どうも、ただ単に音がうるさいから頭に来てやっているというだけではなさそうで、ほとばしるようなメッセージ性のようなものを感じた。
 何かと戦っているようなのだが、何と戦っているのだろうか。そもそも自分で何と戦っているのかわかっているのだろうか。
 戦うという言葉も間違っているわけではないが、護っていると言った方がいいのかもしれない。
 試験管の中に入れて大切にしている小さく脆い自分の魂を必死になって護っている。
 そんな雰囲気だった。繊細で弱くて傷つきやすく脆い人なのだと思った。
 それと、父はどうも目の焦点が合っていなくて、右目と左目で違うものを見ているようだった。
 でも、何と何を見ているのか聞ける雰囲気ではなかったので、推測してみた。
 理想と現実、現実と非現実、仕事と家庭、戦前と戦後、戦争と平和、官僚と政治家、公務員と民間人、乞食と大金持ち、気違いと偽善者、いくつか頭に浮かんだが、どれが有力な推測なのかわからなかった。
 今この時のことを振り返ってみると、もし奨励会を退会して3か月程度までだったら、自分の心は全面的に「元奨くん」に占領されていただろう。だが、この時は1年くらい時間が経っていたので奨励会退会時の挫折・喪失体験についてある程度自分の心の中で相対化が進んでいて、「元奨くん」の考え以外のことも頭に浮かんでいた。それと「右目と左目で違うものを見ているようだ」という発想は、わりあい文芸書とか芸術映画に接する機会があったことと関係があるのかもしれない。
 世界史に例えると、1年くらい前ならば自分の心の周辺部分にいた少数異民族が、かなり勢力を増して心の中央に進出してきた。心の中で、ゲルマン民族の大移動とかゲルマン諸国の分立のようなことが起きたのだろう。
 自分で自分が意外な存在に見えた。「元奨くん」みたいに単純に、「あんな奴に奨励会を辞めさせられて悔しい」ということだけ考えるのではいけないのだろうか。「どうも自分は妙なことを考える変に複雑な人間になってしまった」と思い、自分で自分が不思議だった。
 親とか教師はそれを、「大人になった」「精神的に成長した」などと言うかもしれないが、そういう言い方は嫌いだった。では、なんと言えばいいのだろうか。変節・転向・成熟・相対化・分裂・エネルギーの低下・情念が枯れた、等々の言い方が浮かぶが、どれもあまりピッタリと来ない。
 そういう心のわけがわからない変化を、もしかしたら中二病とか思春期などと言うのかもしれないが、それもつまらないレッテル貼りのような気がする。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その22

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