心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その20

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その19

 映画に熱中する
 「もう奨励会のことはあきらめるしかないのかな」とあんまり納得していなかったが、なんとなく「仕方がないか」「いつまでも『俺は終わった人間だ』なんて言っていてもしょうがない」と思っていたその頃、たまたまテレビをつけていたら映画評論家の淀川長治さんが登場して映画について熱く語っていた。
「なんだか熱いおじさんだな」
「面白い口調で話す人だな」
 というのがその時の第一印象だった。
 そのうち、新聞・ラジオの番組スケジュール欄を見ていて、TBSラジオで「淀川長治ラジオ名画劇場」という番組があるのを発見し、毎週聴くようになった。それから、『日曜洋画劇場』の解説者が淀川さんであることも知り、これもほとんど毎週見るようになった。
 そして映画が好きになり、お小遣いをはたいて名画座に映画を見に行くようになった。将棋盤や本の中だけでなくスクリーンの中にも閉じこもる場所が見つかったのである。
 それと、本屋で『月刊シナリオ』という雑誌があるのを発見し、毎月のように買って読むようにもなった。
 なんとなく、「将来映画関係の仕事につきたい」と考えるようになり、『月刊シナリオ』にも「好き嫌いなく娯楽映画も芸術映画もいろいろな映画を読むことが映画監督やシナリオライターになるための第1歩」みたいなことが書いてあったので、たぶんそうなんだろうと思い、毎週のように名画座に行って映画を観た。ハリウッドの活劇みたいな娯楽映画やフェルリーニやベルイマンの芸術映画、チャップリンの喜劇、日本のやくざ映画、巨匠黒澤明の映画等々様々な分野の映画を主に名画座で観て、高校1年の頃は年間90本くらいの映画を劇場で観た。それと、当時はテレビで映画をやっている番組がたくさんあった。『日曜洋画劇場』『月曜ロードショー』『水曜ロードショー』『ゴールデン洋画劇場』などで、それらもほぼすべて見ていた。学校でその話をしたら、友だちから「そんなにテレビばっかり見ていて『勉強しなさい』と親からおこられない」と言われた。たまに親からそんなことも言われることもあったが、親もあきらめていたのか、ある程度黙認されていたようだった。
 また、原稿用紙を買ってきて『月刊シナリオ』に出ているシナリオをお手本にしながら、自分で映画のシナリオを書いてみた。その原稿は今はもう残っていないのだが、たぶん一言で言えば支離滅裂な変な内容だったはずである。
 少年が道を歩いていると空飛ぶ円盤が現れ、それを追いかけていくと美しい花園に迷い込む。そしてたくさんの美しい花に囲まれてニヤニヤにやけていると、突然あたりが暗くなり、空から巨大な悪魔が舞い降りてくる。
とか、だいたいそんな感じのファンタジー系のわけのわからない自閉的な話だったような記憶がある。
 このシナリオを映画が好きな学校の友だちに見せたところ「わけがわかんない」と言われ、自尊心を傷つけられたり、まあ当然そうかもしれないと思ったりした。
 それと、「言葉を使った創作活動の基本は詩だ」「詩を作ることは感性を養うのにとても役に立つ」というフレーズをどこかで読んだので、作ってみた。
 その内容は、だいたい覚えている。

 人間の心は底なし沼です。
 人間の心は、玉虫色の歪んだ光を放つ、不気味で得体のしれない底なし沼です。
 沼の正体を突き止めようとして水をすべて汲みだして中をのぞいたら、沼が死んでいることに気がつくでしょう。
 水がないと沼が死ぬ。
 死んでしまったものを調べても正体を突き止めたことにはなりません。
 沼の正体を知ることはできません。
 沼の中に何があるか知ることはできません。
 沼を理解することはできません。
 絶対に理解することはできません。
 ぼくたちは、一生理解できない底なし沼と一緒に生きていかなくてはいけないのです。

 こんな感じだったと思う。記憶の改変または変容が多少はあるかもしれないが、だいたいの内容は復元できているはずだ。
 今、復元して読んでみると、もちろん芸術的価値があるようなものではないと思うのだが、「元奨くん」などの自分の心の中にいるうっとうしい人格に悩まされて自分で自分の心をもてあまし困っていた当時の心境がよく表れている。
 でもその時は、書いてから自分で読んでみて「なんだか下手な詩だな、やはり将棋以外のことをやっても大した才能はないのだろうか」と思った。
 もっとも将棋の才能があるかと言えば、それにもまったく確信はなかったのだが。
 後で知るのだが、有名作家・人気作家になるような人の中にも中学生や高校生の頃は箸に棒にもかからないような変なものを書いていた人はいるようなので、そこで悲観しないで、文章を読んだり書いたり映画を観たりすることを続けていたらどうなっていただろうか。そんなことはタイムマシンがなければ実験できないことなのだが、今考えてみるとけっこう興味深い。まあ、あまり大したことにはなっていないような気がしないでもない。

 自分が通っていた学校は中高一貫校だったが、中学から高校に行く時にクラス替えがあった。新しいクラスには映画好きな子が何人かいて、その子たちと友だちになり、日曜日に一緒に映画を観に行ったり、横浜でやっていた「淀川長治友の会」に参加したりした。
 でも、学校の成績は、奨励会にいた頃の方がよかった。将棋と学校のテストとは、両方とも時間内に正解を考えるという意味では頭の働きが似ているのではないだろうか。映画鑑賞というのは、論理よりも感性の世界という感じで、学校の勉強への影響は将棋の方がプラスに働きやすいと思う。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その21

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