心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その60

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その59

 死者からのメッセージ
 自分は、JRの小平駅を降り、父が眠る小平霊園に向かって歩いている。
 よく晴れた春の午後、空を見上げるとどこかで見たことがありそうな餌を食べ過ぎた子豚ちゃんのようなまるまると太った雲がぽっかりと浮かんでいる。道の両側には、格式が高そうな立派な仏具店が並んでいて、うっすらとお線香の匂いがする。
 道行く人々はゆったりと歩いていて、時間の流れもゆったりとしている。
「グレアム・グリーンというイギリス人の作家を知っているかね。えっ君イ」
 父の声だ。まだ霊園の門にもたどり着いていないのに、早くも死んだ父からのメッセージが聞こえてきた。死者からのメッセージである。
 「えっ君イ」という言い方は、自分が中学や高校生だった頃は嫌いだったが、あれは癖みたいなもので、別に相手を不愉快にさせるのが趣味で言っているわけではないと思うので、今では聞いていて嫌な感じはしない。
「あー、高校の頃に見た『第3の男』という映画の脚本家だということは知っていますが。でもあんまりよく知りません」 
「グレアム・グリーンはこんなことを言っている。『確信を持った共産主義者と確信を持ったカトリックの信者の間には、ある種の共感が通っている』。それでは、おやじいと君が、以前君が中学生だった頃に奨励会について話し合った時に、ある種の共感があっただろうか」
 グレアム・グリーンがこんなことを言った人だとは知らなかった。「死者のメッセージというは結局自分が本当に考えていることだ」というフレーズがなんとなく正しいような気がしていたのだが、そうではなく霊魂とか幽子情報体といったものが本当に存在し、それが生きている人間に対して話しかけているのではないだろうか。自分が知らないことを言われたのだから、そう考えた方がいいのではないか。
「どうもなかったような気がします」
「うっちっちっち。それは、おやじいもそう思う。それはどうしてだろうか?」
 「うっちっち」という変な笑い方をバカにされているように考えて母は嫌っていたが、どうも相手を認めている時にも父はこの笑い方をするようである。
「ずいぶん難しい質問をしますね。でも、それを考えて何か役に立つんですか?」
「過去の大切なことをできるだけきちんと解釈することが、現在や未来の自分について考えるための第1歩だ。おおいに役に立つ」
「そうですか…。お母さんは、『終わったことはしょうがないじゃない』なんて言いそうですが」
「あれはそういう条件反射的な程度の低いことしか言えない女だ。別に悪気があるわけではなく真面目に考えたことを言ってはいるのだけど、どうも考えが浅い。というそれだけの話だ。気にするな」
「わかりました。あの時、お父さんは学歴至上主義者で、自分は将棋至上主義だった。同じ至上主義の中における流派争いだったから、イスラム教のスンニー派とシーア派の争いみたいに、なかなかまともな話し合いにならなかったんじゃないですか?もし、お父さんが商店街のおじさんとか、中小企業のおっさんみたいに日々お金が儲かって楽しく過ごせればいいやと思っている人だったら、『まあ、将棋指しになるという目標を持って頑張るのはいいことだ。がんばれ』みたいな考えになったかもしれない」
「なるほど、そういうとらえ方もあるな。それもわりあい有力な見方だ。でももう一つ別のとらえ方もできる」
「別のとらえ方ですか?」
「そうだ。マルクスの共産主義もキリスト教も、ユダヤ教という共通の根っこあるいは土壌から出てきたものだ。一方、『学歴』という考え方は明治時代以降に出てきた近代的な考え方だけど、将棋の修行の背景にある、『芸道』『極める』という考え方は江戸時代からあるもので、共通の土壌からでてきたものではない。そこが違うんじゃないか」
「そうですか。でもそれは簡単に検討できるようなことではなく、いろいろと本を読んだりして考えてみないと何とも言えないことだと思います」
「それは、いい見方だ。確かにそうだ。それと、話し合いの進め方だけど、あの時は紙やペンを使わないですべて口頭で行い要点や論点を紙に書き出すことはなかった」
「それは、ぼくも今になってみて気がつくんですよ。紙に書き出すだけでも少し違っていたんじゃないか。もちろん、『AとBは同じ方法論で考えられるからまとめて考えよう』とか、『Cは理由ではなくなぐさめの言葉みたいなものだから、今すぐに検討しなくてもいい』とか整理できるといいのですが、そういう整理というのは価値判断をしないとできないので、双方が納得できるようにするのが難しいと思います」
「確かにそうだけど、どうやって整理するのがいいか話し合う方が、いきなり結論を出そうとするよりもうまく話し合える場合もあるんじゃないか」
「そうかもしれませんね」
「うーん。こうしてみると、話し合いのための方法論について話すことに関しては一致しているところがけっこうあるな。確かに、大学のゼミでの討論とか小学校の学級会の話し合いよりも、こうした実人生に密着したことを親子でよく話し合った方が考える力がつきそうだ」
「そうですね」
「うっちっち。おやじいと君はそれなりに一致できるところがあり、むしろ、あの女の方がわけがわからない奴なんじゃないか」
「そうかもしれません」
「うっちっち。まあ、来年にでもまた墓参りに来てくれたら、さらに続きを話そう。さて…。おやじいは、そろそろ寝るとするか」
 それきり、メッセージが聞こえなくなった。
 父はなかなか機嫌がよさそうだったなあ。と思いながら空を見上げると、さっき見た子豚ちゃんのようなまるまると太った雲が、そのままぽっかりと浮かんでいる。
 そして、相変わらず時間の流れがゆったりとしている。
 今のやりとりは、本当に父と話していたのだろうか。霊魂とか幽子情報系といったものは本当に存在するのだろうか。それとも、自分が本当に考えていることを「死者からのメッセージ」という形で意識することができたのだろうか。
 振り返ってみると、今の話の進み具合はどうも流れがよすぎる。返事につまったり、次に何を話したらいいかわからなくて沈黙が生じたりしないところが、どうも二人で対話をしているにしては不自然だ。ただ単に一人で考えていることを二人で話しているようにAとBに分けただけみたいだ。それと、話の内容も父にしてはどうもものわかりがよすぎる。向こうの世界に行ったからと言って、そんなにものの考え方や話の進め方が変わるものだろうか。どうも、自分が父に対して「こういうことを言ってほしかった」「こういう話の進め方をしてほしかった」と思っていたことが反映されているような気がする。グレアム・グリーンが言ったとされているフレーズも、本当に知らなかったわけではなく、自分がどっかで聞いたことが心の深いところに眠っていて、それが出てきたのではないか。
 でも、ユダヤ教とか近代とか江戸時代等々、思想史的にものの考え方のルーツを探る思考方法というのは、自分はそれほど重視したことがない。せいぜい、「立身出世主義は日本の近代化に伴って流行した考え方だ」とか、そのくらいのことしか頭に浮かべたことがない。あれは、自分では思いつきそうにない父が考えそうなことである。それに、向こうの世界に行くというのは人間にとってはもちろんとても大きなことだから、それによってものの考え方や話の進め方が大きく変わるというのは当然あり得ることだ。
 結局どうもよくわからない。
 来年も墓参りに来たら、また「死者からのメッセージ」を聞くことができるだろうか。
 ただし聞いたとしても、それが本当に自分が考えていることなのか、それとも父の霊魂のようなものが降臨したのか、そこはわからないままなのかもしれない。
 でも、わからなくても聞くことに意味があるのだろう。
 そんなことを考えながらふと頭上を見上げると、先ほどと同じように太った子豚ちゃんのようなふっくらとした雲が見える。
 そして、その上にチョコレート一粒くらいの大きさに見える何かが動いている。よく見るとそれは人間のようだ。顔がよく見えないが、どうも雰囲気が父のようだ。いや、父に違いない。
 わかった。
 やはり、さっきの言葉は父が降臨して話してくれたのだろう。
 雲の上にいる父は手に何か持っていて、それを雲に打ちつけている。
 スコップではないだろうか。
 雲の上にのっても、まだあんなことをしているのか。
 その姿は、なかなかユーモラスだ。
 それにしても遠くに行ってしまったものだ。
 来年も会えるだろうか。
 さっきの話の続きが聞きたい。
 来年も必ずこの場所に来ようと思った。

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