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コロナ禍の美術展・文化施設を訪ねる(ディレクター日記 2020/8/19)

8月2日の梅雨明け以降は酷暑日が続き、強い陽射しとゲリラ落雷が轟く夏になった。お盆の頃には日中の最高温度が40度を超え、全国で一週間に1万2千人が熱中症で搬送された。都内の8月の熱中症での死者数はすでに100人を超えた(8月19日現在)。まさに殺人的な暑さの中、コロナ感染者数が報道されている。

■TURNフェスの中止でできた夏休み

本来であれば8月15日から19日が、私がディレクターを務める「TURNフェス2020」の会期だった。物流や工場の動きがピタッと止まるお盆休み直後の期間に開催してきたのは第3回の2017年からで、2020年のオリンピックとパラリンピックの開催期間をつなぐ文化事業とすることが目的だった。

会場となる東京都美術館に必要な資材や備品、作品の一部の搬入をするために、毎年8月の1週目は手配の詰めに追われ、2週目以降は文字通りの現場作業に没入してきた。設営、展示、本番、撤去と続き、落ち着いた頃には8月も残り少なくなっていた。しかし、今年は、コロナ禍で中止を余儀なくされたため、時間に余裕のある夏になった。そこで、この期間を自分自身の夏休みとしてみた。

とはいえ、夏休みに突入する前の2週間は、それなりに忙しい毎日だった。コロナ禍の対応状況の視察を兼ね、文化施設を訪ね歩いたからだ。8月7日に訪ねたのは森美術館の「STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界へ」。ネットでの事前予約の手続きを体験した。座席のチケットを予約する感じで、自分が訪ねる日時を決める。思い立ったら先ず予約。

8月9日は、市原湖畔美術館にでかけ田中信太郎展「風景は垂直にやってくる」のオープニングに参じた。8月12日には東京都渋谷公園通りギャラリー「フィールド⇔ワーク展 日々のアトリエに生きている」。予定されていた複数のトークイベントやワークショップの開催は叶わなかったようだ。企画者にとっては「もどかしい感じ」なんだろうと想像した。その日の夜は、野田秀樹作・演出「赤鬼」の再演を東京芸術劇場で観劇。客席と舞台の間に透明ビニールでカーテン幕が張り巡らされていた。

■この夏に生まれたTURNの成果物

訪ねた会場ではどこも「検温・消毒・マスク着用」があり、さらに人数制限があった。TURNフェスは、時間をかけた交流を通じて培った成果を3密的な中で開催する構想だったため開催を断念した。来年は新しいかたちを考案し実施したいものだ。

中止した「TURNフェス」の代わりに、TURNにまつわる二つの刊行物が出せた。
「わたし は ちきゅう の こだま」は、東京藝術大学付属美術館で開催中の展覧会タイトル。同時に、監修者・日比野克彦が「絵と文」を手がけた本のタイトルでもある。2016年のリオデジャネイロオリンピック・パラリンピックに合わせて実施した「TURN in BRAZIL」の後、東京藝術大学が主幹となって国際展開してきたプロジェクトの歩みを、参加アーティストたちを巧みにつなげて紹介している。同書は10組13人の美術館での展示設計図としての役割も果たす。「本」と「展示」はコロナ禍における日比野克彦の大作。素晴らしい出来栄え。会期中にはリモートで世界各地とつなぎ語りあう企画も実施される。

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▲『TURN on the EARTH わたしはちきゅうのこだま』(文・絵 日比野克彦、発行:東京藝術大学出版会、2020年)

もうひとつの成果物は、『TURN JOURNAL 04夏号』だ。TURNフェスに関わる方々に「一人ひとり、コロナ禍にどう向き合う?」と緊急アンケートを行い、5月末の〆切で85人から回答をいただいた。それをすべて掲載した24ページの力作である。春までに計4回刊行し、コロナ禍の変化をアーカイブする試みだ。アーツカウンシル東京のTURN担当スタッフ、畑まりあが責任編集者を務め、秋号の特集も決まり準備を進めている。

■故・田中信太郎さんを偲ぶ会

多摩美術大学時代の同級生で、現在は国立国際美術館の副館長兼学芸課長を務める中井康之から「田中信太郎さん、2日前に逝去されました」とメールが届いたのは、1年前の2019年8月26日のことだ。御年79歳の逝去だった。開催中の市原湖畔美術館の「田中信太郎展」は、一周忌の回顧展であり、「追悼会」へ参加を目的の一つにしていた。

1985年に茨城県日立市の田中信太郎のアトリエを邪魔したのは、中井に誘われてのことだった。彼は、TAMA VIVANT‘85「…あるいは天気図」(※)の作家として田中信太郎を選び、参加依頼を兼ねた大切な訪問。一方の私は、気楽な同行者だった。その縁もあり、幾度かお酒の席をご一緒し、お話をお聞きすることもあった。

中井はその後、2001年に旧国立国際美術館で個展「饒舌と沈黙のカノン」を企画。≪○△□≫を含む美しい作品群を展示紹介した。今回の市原湖畔美術館の展覧会カタログには作家の軌跡を辿る「マルドロールの歌が聞こえる」を寄稿している。そして、日立の作家アトリエから運んだばかりの資料を、時間がとれるこの夏のお盆休みを使い整理するという。つまり夏休みに勉強する予定というわけだ。研究員としての一途さに脱帽する。

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同行しただけの私に深い話ができるわけがない。自ずと偲ぶ会での話は次のようなものとなる。「田中先生は、自分にとっては、常に遠くから見ている作家でした。展覧会でキュレーターとして関わることはありませんでした。しかし、自分たちの世代がキャリアをスタートさせる出発点に居た作家のお一人でした」。

偲ぶ会の語り部の多くは、「Bゼミ」(現代美術ベイシックゼミナール)で田中信太郎に習った弟子筋の人たちであり、最後を締めたのは池田修、BankART1929代表だった。改めて「Bゼミ」の系譜を知り、いろいろ合点がいくことも多々あった。

中井が日立のアトリエに田中信太郎を訪ねたのは、「TAMA VIVANT」があったからだ。学生主体の企画展の発案者は、多摩美術大学芸術学科・初代学科長の東野芳明なのだが、その仕掛けの場が中井と自分に及ぼした影響の大きさを改めて実感する。60年代に田中信太郎や宇佐美圭司を見いだし、「もの派・ポストもの派」後の80年代を吉澤美香の仕事で切り出し象徴した美術評論家・東野芳明の仕事の豊かさとシャープさに改めて驚愕した。そのような感慨を深める時間となった「追悼会」であった。

※「TAMA VIVANT」:1984年の第1回目「戯れなる表面」には、岩瀬京子、内倉ひとみ、杉山知子、松井知恵、安田奈緒子、矢野美智子、吉澤美香がラインナップされた。翌年の85年は、青木野枝、萩原義衛、CUEL、榊原美砂子、田中信太郎、中原浩大、藤浩志、舟越桂という布陣。自分はこの時に藤浩志の作品と初めて出会い、5年後の1990年、ハラ ミュージアム アークの展覧会「アートは楽しい」で藤の作品と再会し、1991年に水戸芸術館で自分の企画として行った「箱の世界」展(35作家90余点の作品を紹介した)に出品してもらって依頼、懇意にしている。こうしてふりかってみると、85年が分岐点のひとつだったように思う。

*追記: TURN「テレ手のプロジェクト」で育てている和綿。

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▲ついに綿となった。

(2020年8月19日 東京アートポイント計画ディレクター・森司)

*本記事は、アーツカウンシル東京ブログ「東京アートポイント計画通信」(2020/9/8公開)より転載しています。