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ペストの共犯者

土曜日は一日雨らしい。

在宅勤務と出社のバランスを取りながら、また一週間がたった。

テレビを見るのは極力避けている。無能さと不毛さという現実を見るのが嫌になったからだ。

手洗い、うがい、鼻うがいなどをマニアックにしながら、最低限の健康状態を維持するために必要な外出をするという繰り返しだ。

カミュが流刑という言葉を使ったが、たしかに、国民、あるいは全世界の人々が皆、刑務所に入ったような生活をしているのかもしれない。

少しずつ読み続けていたアルベール・カミュのペストもようやく読み終わった。

カミュはタイムスリップして今を目撃した後に元の時代に帰って、書き上げたのがこの作品と思わせるようなリアルなディテールに満ちている。

登場人物もそれぞれ魅力的なのだが、僕は、コタールという犯罪者のことが気になって仕方なかった。何かの犯罪で官憲から追われているコタールは、ペストによって、一種の自由と希望を得ることになっている。カミュの言葉では、彼は「ペストの共犯者」なのだ。

実際、世界中が監獄となったような状況の中で、「感染症の共犯者」という感情を共有している人々が少なからず存在するのではないだろうか。

自分の中にもその感情が皆無とはいえない。

皆が上手く行っている時に、自分だけが上手くいっていないことに比べれば、皆が上手くいっていない時の方が気分は随分ましなのだ。

人生が成功と失敗ではっきりと区分されている世界に疲労感を一切感じていないという人間などいるのだろうか。

あらゆる人が刑務所生活を余儀なくされた今、それ以前の疲労感を冷静に直視するためのチャンスととらえることができないだろうか。

小説の中では、コタールは、ペストが終息し、人々が歓喜の輪に加わる中、絶望し、発狂したように銃を発砲し、警察に射殺されることになる。

人々はコタールの終焉を不可解な気持ちで見つめる。

その物語の終末を、僕たちは、どう解釈し、どう身構えればいいのだろう。

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