『陰翳礼讃』 - 谷崎潤一郎

『陰翳礼讃』とは、もう少し簡単な言葉にすると「闇を称えること」である。英語にすると"In praise of shadows"だからもっと直接的にわかりやすい。

この本の中で谷崎は急速に西洋化を遂げた近代日本の生活から失われてしまった闇の価値について書いている。

本当に素晴らしい本だったし、名著と称され西洋でも広く読まれているというのは納得だった。特に僕の中で印象に残っているのはこの部分。

『…美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。夜行の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失うが如く、陰翳の作用を離れて美はないと思う。』

美についてここまで的確に、なおかつ美しく描写した文章を今まで見たことがない。

そしてこの部分には何よりも強く共感し、同時に大学生の頃に初めてヨーロッパに訪れたときのことを思い出した。特にフランスのヴェルサイユ宮殿やバチカン市国にあるバチカン美術館に訪れた時のことを。

当時、その2つは西洋における美の象徴のように僕の目には写った。

ヴェルサイユ宮殿の建物内に施された圧倒的な装飾の数。まさに文字通り一分の隙もなくびっしりと装飾で埋め尽くされた天井と床と壁。

ヴァチカン美術館においてシスティーナ礼拝堂へのアプローチとなっている「地図の間」の天井を覆い尽くす黄金の絵画。

この2つを見た時、僕は西洋における美というのは日本のそれとは大きく異なるのだということを身を以て体感した。

その時、それらの比較対象として僕の頭に浮かんでいたのは京都にある天龍寺の禅庭や銀閣寺の枯山水だった。僕は寺社仏閣に特に強い興味があるわけではないけれど、京都に生まれ育ったからそういうお寺へ行く機会は少なくなかった。だからこの2つが頭に浮かんだのだと思う。

目の前に広がる西洋の美。それはもう隙間という隙間を装飾で埋め、部屋の隅にあるわずかな闇すらも消し去ってしまう圧倒的な豪華さ。それに対して脳裏に浮かんだ日本の美における装飾はあくまでも最小限のもの。

いわば西洋の美は「足し算」で日本の美は「引き算」なのだとその時に強く実感した。

そして同時に、なぜ西洋諸国から多くの人たちがわざわざ日本のような遠い島国へ、しかも東京から遠く離れた京都なんていう街に興味を持ち、旅行へ来るのだろうかという疑問が解消された。彼らは天龍寺で、あるいは銀閣寺で、きっと僕がヴェルサイユ宮殿やヴァチカン美術館で感じたような体験をするのだろう。

そしてまた、西洋にとっての東洋、またあるいはその逆というのは両者が初めて出会った16~17世紀頃から今日の僕たちに至るまで、お互いに強く興味を惹く存在であり続けているというのは納得のいくことだった。

そしてそれは転じて、ある考えを僕の中に抱かせた。それは「物事は比較対象を持つことによって初めてその価値を持つ」ということだ。

僕らの身の回りにあるそのほとんどすべてが、というか価値という観念そのものにおいて何かが独立して絶対的な存在を成り立たせることなどありえないのではないか。すべてのものはその周辺にある物との関係性によって規定される。

そういう意味で谷崎の闇に対する考察には物凄く納得させられる。この本の中で彼は闇はあらゆるもの、特に千万の輝きを持つ物に対してその美を引き立たせる存在としている。

本来美しいとされる有の物でさえ闇という無の存在なくしてはその美しさを十分に発揮することは出来ない。

そしてまた、そう考えたときこれはあらゆることに適用しうる考え方だと思った。

西洋も東洋も、お互いの存在があってこそ、それぞれが際立つ。もっと言うと西洋の中、あるいは東洋の中における微妙な差異もそれを拠り所として新たな美が成立するのではないか。

さらには人間だってそうだろう。何も国籍や文化の話をするときだけではなく、性格や貧富や学の有無など、それはもうその他あらゆることにおいて、一方が存在するからこそもう一方が相互依存的に存在し、またそれによってお互いの存在が引き立てられる。

例えば「誠実であること」はほとんどすべての人に人間として望ましい要素の一つだと考えられているだろう。しかしだからといって「不誠実であること」の価値が無くなるのだろうか?不誠実さなくして誠実さが成立するだろうか?

あるいは「勤勉であること」が尊ばれるからと言って「怠惰であること」は貶められるべきなのか?勤勉であるためには怠惰でもなければいけないのではないか。自らの中に怠惰さがあるからこそ、またその勤勉さが強調されるのではないか。

それぞれの価値というものはそれに相対するものとの二項対立で成り立っている。

そのように考えると何かが絶対的に正解で価値の高いものだなんてことは言えなくなるような気がしてくる。これはある意味ではあらゆるものに対する自信の喪失を意味する危うさも孕んでいるとは思うのだけど、やはり根底にこの考え方がなければ人間としてあまりに独善的になりすぎてしまう気がする。

そして今日の社会では何かが正解であるとき、その対角線上にあるものの存在を無き物としてしまっているような気がしてならない。いわば闇なくして光だけに目を向けているような、そんな感じがしてしまう。

特に誰かが力強く、そしてわかりやすい言葉を用いて雄弁に語るとき、その言葉しか机上に上がって来ないのではないだろうか。

あまりにも抽象的でどうやってこの話を着地させれば良いのかがわからないが、とにかく僕が『陰翳礼讃』を読んで思ったのはそのようなことだ。谷崎の「闇と光」に対する考察はそれだけにとどまらず「西洋と東洋」や「美しさと醜さ」など、ありとあらゆる価値体系に応用可能な普遍性を持った考え方に違いない。

そしてそれは、僕が生きる上で最も大切にしている「公平さ」や「多様さ」を成立させる上で非常に重要な意味を持つものだ。

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