実家は神楽坂の旅館
所有している収益不動産のほとんどはリーマンショック以降、他の方が建築して所有されていたものを、銀行借入を利用して収益不動産として購入したものです。ただ、そのうち実際に僕が住んだことがある建物が2棟あります。
いずれも建て替え前の古い建物の時代で、1棟は40年前に建替えられた旅館です。余りにも昔過ぎて、普段思い出すことはないのですが、ブログを書き始めて、その建物のことや、むかし父から聞いた旅館時代の話を思い出すようになりました。
プロフィールにもありますが、不動産賃貸業になる前は江戸城外堀に近い新宿区側(駅でいうとJR飯田橋)で旅館業を営んでいました。
その旅館のメインの客層は、
・修学旅行の生徒
・近くの後楽園に巡業に来たサーカス団ご一行
・武道館に来日公演中の外タレお付きのスタッフ
・靖国神社参拝の遺族会の方々
・国鉄のストライキ対策で泊まる近隣のサラリーマン
つまり、自分でここに泊まろうと思って来る人は少なく、だいたい旅行代理店経由で送客される団体客メインで、営業の手間は少ない反面、常連客はほとんどいなく、悲しいかな惜しまれつつ廃業の日を迎えることもなかったようです。
きっと建物が解体された時も『あれ?、ここ前は何だったっけ?』とか言われてたのかもしれません。。。。
ただ、僕がいま昔の家業を説明する時は、
『神楽坂で旅館を営んでいた』
ということにしています。そうすると皆さん由緒正しき旅館をイメージされますが、それは完全に現在の神楽坂という街のブランド力のおかげ、神楽坂さまさまですが、実態は上記のように団体客向けの旅館で、
部屋も個室はわずかで、ほとんど大部屋、布団を横に敷いて雑魚寝。
食事も、おにぎり、焼魚、たくあん、みそ汁程度。
旅館というよりは、むしろ部活の合宿所です。当時は紙媒体しかありませんが、いまの旅行サイトの検索条件には、こんな感じで表示されるのでしょうか。
駅至近、純和風、総畳敷き、100平米以上、朝食付き、大浴場有り
であれば、あながち嘘ではないような気がします笑
父から聞くに、団体客メインの客層のためか、客同士の喧嘩や色恋話からの痴話喧嘩は日常茶飯事、その仲裁でとばっちりを受けることもざら、毎朝築地での仕入れから帰ってきたら、客を送りだしたり受け入れたり、休む暇もなく身体が大変だったようです。
その半面、それは刺激的な毎日で、後に不動産賃貸業の生活になったときに、日常が楽になったものの、ある意味退屈な生活にはしばらく慣れなかったようです。それが30年後には、超絶ほったらかし大家になるのですから、人間分からないものです。
旅館自体は戦後建てられた木造建築で、1978年前後、僕が3、4歳のころに解体され、その後米国コンピュータ企業のバロース(現在の日本ユニシス)という会社の日本法人本社ビルとして建替えられました。
僕の年齢からして旅館時代の記憶はほとんどないのですが、1つだけおぼろげな画像のような記憶があります。
一つはコカ・コーラの自動販売機前の空間です。
『ガッチャン!!』
当時はボトルでの販売ですから、お金を入れてから、『ガッチャン』とボトルを取り出し、自販機に付いている栓抜きで開栓し、お客さんがコーラを飲む所作をずっと面白そうに眺めていました。たまには、お客さんから1本ご馳走してもらうこともあったようです。(僕は子供に絶対コーラを飲ませないのですが笑)
いまの状況からは、流行りの民泊を考えることはあっても、完全にノウハウが断絶している旅館業を再開することはありません。
ただ、色んな人が行きかう宿泊業はきっと『とてつもなく刺激的』だったんだろうなー、と思います。
当時若かったうちの両親も日本中、世界中からくるお客様との一期一会の出会いの中で、大きなエネルギーを貰う毎日だったのでしょう。
願わくば多くの人と実際に触れあえるようになって、いろいろな記憶が残ったであろう、ぼくの小学生時代までは続けて欲しかったものです。
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