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『YOGA的幸福論』 〜 聖者パタンジャリによる『ヨーガ・スートラ』の八支則は、『真なる幸福』への手がかり

『YOGA的幸福論』とは、いったい何なのでしょう?

 そもそも『YOGA』とは何を目的としたものなのでしょうか?『YOGA』の発祥地はインドとされており、4〜5世紀ごろ、聖者パタンジャリによって『YOGA』の体系が『ヨーガ・スートラ』として編纂されたといわれています。

 『スートラ』とは『糸』を意味します。『ヨーガ・スートラ』が意味するものは「ヨーガの糸」となります。『ヨーガ・スートラ』が編纂された時代は、木の葉に書き留め、それらを糸で結えていたことからです。

『YOGA』はいつ生まれたの?


 さまざまな『YOGA』の教えについて、いったい誰が考案したのか、いつごろ始まったのか定かではありません。紀元前2500年ごろ〜前1500年ごろに栄えたインダス文明の遺跡に、瞑想するヨーギ(シヴァ神の姿ともいわれる)の姿が彫られた印章が出没していますので、インダス文明時代には既に存在していたことになります。よって、『YOGA』の歴史は、『ヨーガ・スートラ』としての編纂後よりも、編纂以前の方が長い年月の積み重ねです。『YOGA』は、有史以前の普遍的伏流の内にあります。

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『YOGA』とは何か?

 現代YOGAの主流となっているエクササイズ的な要素、ダイエットや健康維持、肉体的美のステータスのためではありません。数々のアーサナ(=ポーズ)を習得したり、瞑想することが目的ではありません。それらはすべて副次的なものであって、『YOGA』の本来の目的ではありません。

 『YOGA』の本来の目的は、私たち一人一人に内在している「真・善・美(アートマ)」と融合することです。『YOGA』とは、結合することであり、自己と源(=アートマ)との結合を意味するものです。

 「真」とは普遍的な真理であり、英知です。時代が移り変わっても、変化することなく存在し続ける普遍的なものすべてです。変化するもの、消滅してしまうものは「真」ではなく「非真」です。「善」とは正義であり、正しくあり続けようとする思考、正しい発言、正しい行動のことです。「美」とは純粋性です。「真・善・美」への意識が高まり、その軸から遠ざかるほど必然的に違和感を覚えるようになり、個人の肉体意識や執着が希薄になっていき、肉体は他への奉仕の道具にすぎない、という実感認識に到達します。普遍的なもののみを求め、常に正しく、純度高くあろうとし続けることが「人生における幸福」であって、そのために心を正しく活用できるように、座法(アーサナ)や正しい呼吸や瞑想〜三昧への修練を一歩づつ重ねていきます。

 これらの一連の進化過程において、その途中経過に「心の止滅(二ローダ)」があります。「心の止滅」とは、感覚の制御と直結しています。
 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感から得られる情報の価値を識別し、人生の目的である『幸福』に必要な要素のみが心に浮かび上がり、「真理のみ、善のみ、美のみ」を受け入れることです。

『YOGA的幸福論』

 感覚を制御し、心を正しく使用し、内在する「真・善・美」と一つになることが『YOGA的幸福論』です。

 人間は、知性、心、感覚、身体をそれぞれ構成要素とし、身体のさまざまな部分が互いに完璧に協調して働き、身体の仕組みを正常に保っています。「感覚は身体を支配し、心は感覚を支配」します。心は知性(ブッディ)によって支配され、知性は「真・善・美」(アートマ)に最も近いので、アートマの属性を最もよく反映します。よって人間は、アートマを中心とし、知性>心>感覚>体と支配させることが重要です。

 心はサンカルパ(思考)を生み出しますが、それはすべての人間の中にある知性によって抑制され、留めます。知性だけが、決断し、善悪を見分ける力(識別力)を持っています。人間はしばしば、自分の心に湧き上がる欲望に動揺し、悩まされますが、知性の指示に従えば、心は従順になり、その識別と行動が「幸福」へと誘引します。
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◉ 感覚に振り回されることなく細やかに丁寧に制御し、感覚が運んでくる情報を心で束ね、知性の中軸である「真・善・美」のフィルターを通し、心が心本来の役割=真の幸福到達のための取捨選択を担うように修練すること

◉ 一時的な幸福なのか、永続する幸福なのかを見極め、永続的でないものに決して執着せず、即座に手放せるように修練すること

◉もっと正しくあるために、もっと純粋であるために、といった観念を常に希求し、実践し続けること
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 人間の幸福は、これらのプロセスの一つ一つの中にあり、意識せず自動的に高純度に実践できるようになることによって、そこから獲得される幸福は拡大拡張し、自動的に『至福』という永続的な幸福に昇華していく…
このプロセスと到達こそが『YOGA的幸福論』です。

 インドの聖典『バガヴァッド・ギータ』には、クリシュナ神が、アルジュナに多くの教えを授けたことが記載されています。

 知性はアートマから直接影響を受ける。もし、心がブッディに従えば、感覚を正しい道に導くことができる。好き勝手、自分自身の欲望に任せておくと、感覚的な快楽の引き寄せに心が屈する。知性に心を従わせよ!

 戦車で移動する際、最も重要な役割を果たすのは戦車兵である。馬車を引く馬もそこに座っている主人も、旅の安全を確保する能力は全くない。車夫にしかできないことなのだ。もし、車夫に能力がなければ、馬は暴走し、戦車をあちこちに引きずり回すことになる。だから、戦車兵は十分な能力と経験をもって、きちんと仕事をしなければならない。

 アルジュナよ!お前の体は馬車で、感覚は馬、心は手綱の役割を果たし、知性は車夫に例えられる。もし、お前の知性に人生の旅を導かせるのならば、最終的な目的地に安全に到達することができるだろう。
 
 アルジュナよ!視覚で見るこの物質世界では、「クシャヤシラ」(破壊性)と「ドゥカミスラマ」(悲しみの存在)という二つの性質を知覚しているはずだが、内的な視覚=知性の目で見なければ、その本質を認識することは到底できない。外的な視覚に支配された心は、子供の成長を喜ぶが、内的な視覚に映るのは、子供の成長とは、子供の寿命の尽きる日が近づいているということなのだ。人は、喜びも悲しみも超越し、人生の義務を果たすことに集中し、最善最大の能力を注がなければならないのだ。

 ナラ(人間)は、自分をナラヤナ(神)のところに連れて行く道を追求しなければならない。人はパシュパティ(シヴァ神)になることを目指し、動物の生活(パシュ)に戻ってはいけないのだ。知性に従う人は、パシュパティになることができ、心に従う人はパシュになる。心が促し、挑発するのは自然なことだが、性急に行動に移してはならない。知性で識別し、その指示を実行すべきなのだ。

(アルジュナが戦いに勝利したのは、彼の戦車乗りが、すべての知性の源であるクリシュナだったから。クリシュナを戦車兵に据えることは、人生のゴールに到達するための最も神聖で幸福で安全な手段。しかし、もし無能な人間を戦車兵にすれば、人生のあらゆる場面で落胆し、やがて内なる敵との戦いに敗れることになる)

人生は『YOGA的幸福論』から『真の幸福の旅へ』

 ともすれば、日常生活において、五感が集めてくる玉石混合の情報に振り回され、心の奴隷に陥ってしまいがちです。それは、『YOGA的幸福論』の対局に位置する『エゴの引き出し』に自分自身を閉じ込めてしまうことに他なりません。
 「今」の思考や判断や行動が、『エゴの引き出し』の中なのか、そうではなく、欲望から解放された『真の幸福=真の自由』に拡大の内にあるのか、それは、日々の瞬間の実践の中でのみ修練することができます。
 『論より実践』です。


深堀り探究:


シヴァ神

 形あるもの、名のあるもの、それらのすべてが「創造・維持・破壊」の内に一定期間存在し、消滅します。それぞれがそれぞれの生態系の時間枠の中で誕生し、いずれ消滅します。人間の肉体は、200年この世に存在し続けることはできず、大木も10万年存在することはできません。この時間的制約を全く受けない存在、永遠無限の存在、形のない存在は『神』と呼ばれ、『愛』『真善美』『アートマ』と同質のものです。
 創造を司る神を「ブラフマ」、維持を司る神を「ヴィシュヌ」、破壊を司る神を「シヴァ」として神格化し、更に「ブラフマ・ヴィシュヌ・シヴァ」が三位一体化した神が「ケーシャヴァ」として神格化されています。さまざまな『神』の御名の中で、この「ケーシャヴァ」が最も重要とされています。

 本来『神』には、名前も姿も形もありません。しかしながら、有史以前から、宇宙創造以前から存在し続けています。『神』の存在を表したものが『自然』です。『自然』は『神』を写しとったものです。同様に、人間が崇拝の対象として『神』の存在に、名と姿を与えたものが、あらゆる偶像上の『神』です。
 シヴァ神は、額の第三の目、首に巻かれた蛇、三日月の装飾具、絡まる髪の毛から流れるガンジス川、トリシューラという武器(三叉の槍)、ダマル(太鼓)とともに描かれます。

 また『シヴァ神』は『YOGA』の始祖として位置付けられる『神』です。「破壊の神」として祀られていますが、何を破壊するのかというと「すべての罪を焼き払い、内なる道具(アンサカラナ)を純粋な状態にし、そこから靈的な知恵や知性が生まれ、その靈的な知恵、知性の輝きが、無知と妄想の闇を払拭する」、「人間の取るに足らない欲望を根こそぎ破壊する」という意味があり、そのことこそが、人間幸福への礎とされています。その人間幸福への安全な道のりの一つが『YOGA』として開発されたため、『シヴァ神』は『YOGA』の始祖、守護神として神格化されています。


聖者パタンジャリ編纂による八支則:『ヨーガ・スートラ』

 『ヨーガ・スートラ』には、『ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラナヤマ、プラティヤハラ、ダーラナ、ディヤナ、サマディ』の8段階があります。


① ヤマ(制戒) ▶︎ 5つの禁止事項実践

  • アヒムサー(非暴力):肉体的、言語的、思考レベルでも暴力を振るわない。

  • サティヤ(正直): 嘘をつかない。

  • アスティヤ(不盗):他人のものを盗まない。

  • ブラフマチャリヤ(禁欲):性欲などでエネルギーの無駄遣いをしない。

  • アパリグラハ(不貪):所有しない。

② ニヤマ(内制) ▶︎ 5つの制御実践

  • シャウチャ(清浄):自身を清潔に保つ。

  • サントーシャ(知足):自身に与えられたものに満足する。

  • タパス(苦行・熱業):困難をやり遂げる。

  • スヴァディアーヤ(読誦):聖典を読む。

  • イシュワラ・プラニダーナ(祈念):神への信仰をもつ。

③ アーサナ(座法) : 正しい姿勢で座す

④ プラーナーヤーマ(調気法) : 正しい姿勢で座す

プラーナ(気:生命エネルギー)をコントロールする方法。
プラーナは呼吸法によってコントロールすることが可能。心の働きと呼吸の働きは常につながっており、不安定な呼吸の流れを制御し、心の働き鎮め、雑念に支配されることなく、瞑想への準備を整える。

⑤ プラティヤーハーラ(制感) : 意識を内側に向ける

プラーナヤーマの実践を続け、外の世界に心が完全に結びつかなくなった状態。体の感覚や五感意識から解放されている状態。

⑥ ダーラナ(集中) : 雑念が生まれない状態

⑦ ディヤーナ(瞑想) : 集中が深まり三昧とのブリッジ状態

⑧ サマーディ(三昧) : 自我意識、肉体意識からの離脱



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