開き発することとは。(有明ガーデンの配信を終えて)

臨海副都心と呼ばれる地域というのは私達に投げかけることが多い。

それはなぜか。何点かあるが、まずは埋立地なこともあり、歴史的な連続性がない点が大きい。特に海側に行けば行くほど、旧来あった島などを活かした場所は少なくなり、ある時期から急に人が棲み着き始めたのである。パッチワークのように広がり、歩いていると急に空き地が現れる光景は異質だ。私はなぜか廃れたリヴァプールの港湾の外れを思い出す。

時間という縦軸の繋がりと隣接区画という横の拡がりそれぞれが弱いのが、臨海副都心を異質なものにしている。

また、その連続性がないことで、地縁階級制、より身近に例示すれば、地主、代々住む家、地元の名士と言われる階層が存在しない。いわゆる地縁社会が存在しないからこそ、より民主的な場となりうるのだ。だれもが平等に、余計なしがらみから逃れられるいわば楽園なのだ。

これらから言えるのこととしては、臨海副都心が極めて都市的であるということだ。都市的であるからこそ専門性が高い。住機能、エンタメ機能、MICE機能とエリア毎に色がはっきりと分かれる。

唯一理論上の実践が可能なのが、そういった場所なのではないか。

だからこそ、あえて専門性が高いエリアで複合施設として営業していくのであれば、複合的な機能があるだけではないその先の専門性を獲得してなければならないのではないだろうか。

それも前段で展開してきた連続性がなく地縁階層が存在しない欠点としてあるのは強い紐帯、コミュニティが存在しないという点だ。


開発とは本来仏性をおこすという意味で、知恵を凝らし利用者の暮らしをよりよいものに進めていく必要がある。


開発をする主体であるのであれば、上記欠点を補完、超克できうるコミュニティが存立する場として専門性を高めなければならないのではないだろうか。

そのための商業施設、そのための広場、そのための銭湯・・・。となっているのか。


有明エリアの今後に期待したい。

(K.T)


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