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哲学を掴め

日本に哲学なし、とはよく言われたものだがこれは事実であろうと思う。私は外国人の生態に明るい訳でもないので一概に比較はできないのだが、例えばフランスの高校では哲学が必修とされていたり、世界のエリートの多くが哲学を学んでいることが実際に有名であるし、教育機関に於いては日本と違い幼き頃から、明確な答のない問いに向き合っていると知られる。

哲学とは抑も知を愛すると言う意味であるが、実際には世界の真理等を深く考察する壮大な領域から、自身が如何生きるかの為に如何考えるかを探求するパーソナルな領域についてまで広義に用いられている。
本稿に於いては哲学とは何ぞやを今更に語ろうと言うのではなく、ある程度哲学を学んでおいた方が実際楽だぞ、と言うことについて、もっと言うと、哲学を知識として浴びるだけではさして意味はなく、哲学を掴んだと言う実感を持ってこそ得をすると言う話をしたい。

先ず私は専門学校卒であり、学校教育としての哲学を修学していない。唯、話に聞く限り日本の学校教育としての哲学の講義は、学生が学ぶことにそれ程には価値が無いように思う。誤解があれば正していただけると有難いが、聞く限りでは学んでいるものは哲学史であって哲学ではない。
古代のギリシャ哲学から中世、果ては現代へと至る哲学史の変遷や、その時代毎の思想や用語等を浅薄に学んでいるだけに聞こえるのだ。
古き哲学から学び取れることは無尽にあり、学習対象自体は尊く思うが、学生に教えるべきは其処か?と疑問に思う。
プロタゴラスやプラトン等に始まり、スピノザやヒューム、ソシュール等へ連なる哲人の名前を覚えることに殆ど価値などなく、物自体やアプリオリ、自己外化等の概念をその都度表層を撫でる程度に学んで人生実践に活きるとはとても思えない。
またパブリックイメージとしての哲学に持たせている印象や専門用語の難解さが、日本に哲学なしと言わしめる程にその足を遠ざけていると言えるだろう。万人に役立つ学問であるからこそ、その印象はもっとキャッチーでカジュアルであるべきだ。

私は哲学かスマホかの何方かを手放さねばならぬ状況に直面したら、迷わずガラケーに機種変更するだろうと思う程に哲学は便利である。精神衛生や日々の気構え、トラブルが生じた際の対応力から仕事や対人関係に臨む姿勢等、凡ゆる面に於いて哲学の有無、ビフォーアフターでは雲泥の差があり、要は勉強することによって随分と生き易くなった。
哲学とは一見厳しく見られがちだが、簡単に言えば「助け」である。やはり先人の叡智を忽せにしてはならない。
既に哲学に精通されている方には何も言うことは無く貴重なお時間をこれ以上頂戴する必要はない。ここでは、未だよく知らないけれど学び始めてみようかしらと思っている方に向けて少しお話をしたい。

先ず手始めには「言葉」から入ることを推奨申し上げたい。「○時間で分かる哲学入門」と言った類の入門書は必要ない。初手とすべきは好きな哲学者を見つけることだ。ショーペンハウワーでもキルケゴールでも誰でも良い、「ビジネスに活きる哲学者の名言100選」と言ったカジュアルな書籍からでも良いし、「哲学 名言」で検索するだけでも膨大な言葉に出会える。
難しく考えず唯読み続ければ良い、その内に必ず今の自分に刺さる言葉と相対する時が来る。

例えば
「天賦の才能がないといっても悲観すべきではない。才能がないと思うのならば、それを習得すればいいのだ。」
と言うニーチェの言葉に深く感銘を受ける者が居るかも知れないし、

「良心は、ただただ常に沈黙という形で語る。」
と言うハイデガーの言葉から自らを省みることもあるかも知れない。

或いは
「我々が歴史から学ぶことは、人間は決して歴史から学ばないということだ。」
と言うヘーゲルの言葉から今の社会を眺める深視力が培われることや、

「認められるまでは嘲笑される。これは真理の常である。」
と言うシュヴァイツァーの言葉から勇気を貰い行動が変わることだってあるだろう。

先ずは言葉を入り口に、その言葉の真意や背景、その哲学者の思想をと順繰りに追って行った先に多くの学びや発見が鎮座している。
そして重要なのは学びを「知識」として留めず、そこに絡め付ける様に「自己探究」を繰り返すことだ。
人とは例外なく自分について無知である。自分が何者であるかを知らず、何故自分は怒るのか、何故嘆き悲しむのかを知らず、その怒りや悲しみの源泉が何処にあるのかを知らない。更に言えば今自分が既に備えている幸福すら知らないものである。
勉学に励みながら、何故自分はあの時あんなにも怒ったのだろう、自分はこうしたことがあると如何して落ち込むのだろうかを探究することが肝要だ。そして、その原因は置かれている状況や環境等にではなく殆どの場合、自身にこそある。

自分は悪くないと言う愚かな前提は捨て、他者を貶すことで相対的に優れた自己を見出す愉悦を手放し、常に善く思われたいと言う立場から降り、これからを如何生きていくのかを深く考えて行った先にこそ、開かれる扉がある筈だ。

私は虚無主義の立場をとっている為、ニーチェ哲学こそを奨励したくなるのだが、例えば虚無主義とは簡単に言えば「人生に意味や価値などは無く、全ては虚無である。」と言うことである。初めて知った時は何と悲観的な考え方なのだろうと思ったものだが、其処は第一階層に過ぎず、少し学べばポジティブな思想であることが直ぐに理解できる。
予め虚無であることを認め、その先で力への意志を携え強くあろうとすることの大切さを私は学んだつもりだった。
然し私が驚いたのは其処は未だ第二階層に過ぎず、その先があったことについてである。自己探究を繰り返し自戒と反省の後に漸く辿り着けた。
「嗚呼、此れが虚無か!紛うことなき虚無ではないか!我々の眼前に此れ程迄の可能性が溢れ返っていたとは!」
だからニーチェはこう言っていたのかと、感動したものである。そしてその感動のお陰で随分と楽に生きられる様になったと思う。

繰り返すが、知識とは浴びるだけでは血と肉にならない。自らを省み、探究し熟考を重ねた先で「掴んだ」と言う手応えを覚えてこそ、その身を助く財産となる。そんな風に私は思う。

哲学とはインテリマウントをとる為の、意識高い系ナレッジ等ではまるでなく、シンプルに「世界で一番売れているライフハックツール」である。
膨大に蓄積された箴言の数々や哲学が、こんな拙稿を最後までお読みくださった貴方様の一助となることを願い、これにて筆を置かせていただく。

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