生き急がないために

生き急がないためには

生き急がないためにはどうすればいいだろうか?
そんな問いが思い浮かんだのが、とあるオンラインサロンで映画のチケットを得るようにと言われ映画のチケットを80枚購入してしまい、結局売れずに自分ですべてみることになった人の話を読んだ時である。

瞬く間にこれが行われたオンラインサロンはマルチ商法として非難され、チケットを買った本人には騙されてかわいそうやなんてばかだといった声が上がった。

ここでは、この方の決断は問題にしない。なぜならどんなに頑張って論じても、それは他人の決断である以上、本人が好きにすればいいのである。
ここで少し考えてみたいのが、いかに生き急がないでいられるかということである。
どういうことか。

この方の上記のnoteをみてみると、何かに挑戦したいという思いを抱えながらも、何もできない自分に焦りを覚えた結果、何かしなくてはと思ったという。そこで映画チケットの販売代行をやる人を募集する記事がサロン内で流れてきて、飛びついたという。結果として、チケットを売ることができずに80枚分自分で見に行くことになったという。

程度の差はあれ、この感覚はある程度広くいろんな人が持ち合わせ実際に経験したことがあるものではないだろうか。
何かしないとまずい、何か挑戦しないとまずい、そう思ってとりあえず何かしてみる。そこから、どうなるかは人によって異なるだろう、違ったと思ってやめる人もいれば、いまいちだと思いながらも続ける人もいるし、やりがいを見出して続ける人もいる。その先に何があるかは人それぞれだが、上記のケースが示唆するのは、結果としてそれが自分のお金と時間を極端に搾取する構造の中に自分をいさせることにつながりうるということである。
繰り返しいうように、この方の決断や思いを問うつもりはない。後悔するのも、正しかったと思うのも、これを何かに繋げようと思うのも、本人の自由である。ここでは、個別の事例ではなく、誰にでも起きうる普遍的な現象について考えたい。
何かをしなくてはという焦燥感に駆られて、行動に出た結果、自分のお金や時間を搾取するような構造の中に自分を居させてしまうということは実際に誰にでもありうることである。そして、そこを離れたあとに、以前の自分の行動に後悔し、計り知れない絶望に襲われうる。

けれども、後悔することや絶望することが問題なのか。一つの行動を選択してみて、のちに振り返って違ったなと後悔することで、我々は自分の次の選択をよりよいものにできる。それがよりよい人生に繋がりうる。
そうすると、後悔や絶望するような選択をしてしまったことが問題ではない。もちろん程度にもよるし、しないならしないに越したことはないものの、最初から十全に後悔しないような選択ができる人なんてなかなかいない。我々に必要なのは、何かを選択した後に、自分でその選択を見つめ直す機会を設け、その結果を次の選択に生かすことである。

上記にあげた生き急ぐというのは、何かしなくてはいけない、何か事をなさなくてはいけない、そういった感覚から何かに没頭し、そこに無思考に居続けることである。もちろんそれは必ずしも悪い結果につながるとは限らない。その没頭が結果として自己実現や幸せに繋がりうる。
一方で、オウム真理教のようなカルトを信仰して犯罪に手を染めてしまった人や、マルチ商法に騙されて財産を失ってしまった人など、無思考な没頭がもたらしうる悪い結果も数多ある。

これが私が冒頭にあげた「生き急がないためにはどうしたらいいか」という問いの意味である。

実は同じような問いについてかつて一度書いた事がある。同じような問いにまた当たることについて、「またかよ」という感覚を抱かないわけでもないが、それくらいこの問いは自分にとって重要なものだし、幾度と問いたいものである。


空海からのヒント

さて、上記の記事を読んだ後に、漠然と「生き急がないためにはどうしたらいいか」と考えていたが、ふと最近読んだとある本の一章を思い出した。
それは、ちくま新書の『世界哲学史3 −中世I 超越と普遍に向けて』の10章に登場する「日本密教の世界観」(阿部龍一著)である。本章は日本密教の歴史において重要な役割を果たした空海について主に紹介している。

空海といえば真言宗の開祖や「弘法筆を選ばず」ということわざに登場する弘法大師として一般の人には馴染みが深いだろう。本章では、それに止まらない人物としてその空海のあり方や思想を紹介している。
空海は今風にいえばマルチリンガルであり、日本語・中国語(漢文)・サンスクリット語という複数の言語を使いこなしながら、多くの書を残し、のちの仏教の発展に大きな影響を与えた。そして、嵯峨天皇といった天皇にも寵愛されて、天皇に書物の執筆を頼まれたり、宮廷で行事への出席を求められたり、とにかく時代の寵児であった。

そんな空海は天皇から与えられた仕事や宮廷の重要行事への参加を行う一方で、それらを一切捨てて自然に隠棲することをしばしば繰り返していた。なぜこのようなことを空海は繰り返したのか。
本章を執筆した阿部氏によれば、空海は自然に隠棲することで「特定の家柄や国家への忠誠、出身地や豪族のしがらみなどから−つまり「正名的な」秩序から−自由な存在であり、その自分本来の姿を取り戻せる」ことができたという。ここでいう「正名的な」とは、各人が自分が抱えている役割通りに振る舞うという意味である。つまり、宮廷という社会で自分が抱えている役割やしがらみから解放されて、本来の自分を取り戻すために空海は自然に隠居することを繰り返していたという。

そんな空海は、宮廷の中であってもその行動は規範や常識にとらわれない存在であった。例えば、天皇の命を受けて書かれた『十住心論』という本で、空海は陛下は日本の王ではあるが、その王宮は仏教的世界では最低位に位置し、王であってもその中で最も劣る位に位置すると言っている。これはかなり不敬な内容であり、そんなことを空海は言ってはばからない。また、空海は当時遣唐使として中国への留学に派遣されたが、所定期間が20年間にも関わらずわずか2年間で帰ってきてしまった。これは当時重罪であった。そこで朝廷に対して『御請来目録』という見事な弁明書と提出し、自分の帰国が国にもたらしうる利益を問いたのである。このような空海の行動は確かに危険なものである。『十住心論』で天皇の不興を買ってしまったかもしれないし、留学から早く帰ってきたことで朝廷から永遠に追放されてしまったかもしれない。それでも、規範や常識にとらわれずに振る舞い、その結果後世に残るような偉大な思想家となった空海の姿にはどこか見習えるものがあるのではないか。

(※ここでは紹介しないが、空海の思想をみてもその自由で枠にとらわれない自由自在な発想がみてとれる。詳しくは参考文献に掲載しておくので、興味ある方はぜひ)

<自明性の罠>からの解放

さて、自然に隠居することは誰しもができるわけではないし、したいわけでもない。そして、空海の方法には密教的な方法も多く含まれており、必ずしも誰もができるものではない。しかし、思うに自分が所属する社会の規範から自由になるに当たって、その離脱先が必ずしも自然である必要がないように思える。例えば、外国に旅をして、違う規範で構成される社会を目の当たりにして価値観が変わったという人は多いが、そのような方法もここでいう空海的な方法・あり方に通ずるものとしてみることができる。
そして、これを社会学者の見田宗介は<自明性の罠>からの解放とよんだ。

いったんは離れた世界に立ってみる。外に出てみる。遠くに出てみる。そのことによって、ぼくたちは空気のように自明(「あたりまえ」)だと思ってきたさまざまなことが、<あたりまえではないもの>として、見えてくる。(見田宗介(2006)『社会学入門』岩波新書, p.25)

その具体例として、見田氏は自身がインドに旅行しに行き、時間を気にしない社会に出会う事で、時間を異常に気にする日本社会の特徴に気づき、時間が本来「使われるもの」ではなく「生きられるもの」だと気付いたという。

思えば、社会や自分が所属するコミュニティに影響されて、我々は多くの<当たり前(=自明性)>の中にいる。そして、それに気付かずに生きている。それが馴染む人は幸せに生きれる一方、なじめない人は違和感を抱えながら、それに気付かずに生きている。その状態に気づくには、一旦そこから離れてみる必要がある。それを空海や見田宗介氏は説いているのである。
このように、自然にせよ、異国にせよ、自分が所属する社会やコミュニティの外側にいくことで、我々は自分を拘束する「自明性」から解放され、それによって、我々は新たな視点を身につけ、自分を取り戻す可能性を手に入れる。

結び:<離脱>を日常の中に作り出す

さて、生き急がないためにはという問いで始まった本記事だが、その方法として自分を拘束する社会規範や常識から自由になること、具体的には自然に出てみる、旅に出てみることをあげてきた。
それによって、自分を知らず知らずのうちに縛りつけていた見方から自由になって、自分の次の選択をよりよくすることに繋がりうる。これが空海の「正名的な秩序からの離脱」であり、見田宗介の「<自明性の罠>からの解放」である。
何かをなさなくてはいけない、何かに挑戦しなくてはいけない、そういった考え方に縛り付けられて自分を見失っている状態から抜け出す上で、これらの方法は何か一助になるのではないか。

そして、これをさらに身近にしてみたいと思う。
自然に出ていかなくても、旅に出なくても、<自明性の罠>から解放される方法はもっと身近にあるのではないか。例えば、仕事でいいアイディアが浮かばずに、散歩に出てみる。そして、散歩中に、もしくは仕事に戻ると今まで思い浮かばなかったいいアイディアが思い浮かぶ。勉強で難しい問題が理解できなかったが、少し休んでみたあとに戻ると、ストレートにそれが入ってきた。こういった経験をしたことがある人は多いのではないか。
日常的になんらかの「離脱」を生み出すことで、我々は離脱から戻ったあとよりよい状態になることができる。

そうやってなんらかの離脱を絶えず日常の中で作り出す、それが生き急がずに、後悔や絶望に出会ったもそれをよりよい生につなげられる一つの方法ではないか。


参考文献

阿部龍一「空海のテクストを再構築する −「十住心論」の歴史的文脈とその現代性をめぐって」(『現代思想2018年10月臨時増刊号 総特集=仏教を考える』青土社, 2018年, p.98-116)
阿部龍一「第10章 日本密教の世界観」(伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編『世界哲学史3 −中世I 超越と普遍に向けて』ちくま新書, 2020年, p.225-251)
梅原猛(1980)『空海の思想について』講談社学術文庫
見田宗介(2006)『社会学入門』岩波新書


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