表紙

自由の意味を取り違えていた

仙人のサドゥになるには、俗世を捨てる。しかしその捨て方が半端ない。社会的存在としての一切を放棄するがゆえ、死亡した存在と見なされている。死亡届を出してサドゥになる人さえいる。

サドゥは物質から自由である。基本的に放浪しているので家を持たないし、荷物はほとんどなく、衣服すら持たない場合もある。シヴァ派のナガサドゥは全裸で局部丸出し、すっぽんぽん。局部を含めた体に白っぽい灰(基本的に牛糞を焼いた灰だが、火葬場の遺灰の場合もあると聞く)を塗っているので、裸体は少しまろやかな印象になってはいる。

サドゥは関係性から自由である。家族を持たないし、友達を作っても作らなくても、相手がウザいと思ったら勝手にその場を離れても、人と話さないことを貫いても、逆に人とどんどん楽しく話しても、気分に添って何をしてもいいのである。

つまり、サドゥは究極の自由に置かれているのだ。

だが、日本に帰国してから、私は「自由」が本当に意味するところを履き違えていたことに気が付く。

「仙人」で「修行」をしているサドゥを、その言葉からイメージする自分の勝手な解釈で見てしまっていたのだ。
その顕著な例が、痩せているサドゥや装飾が少ないサドゥと好んで話し、写真を撮らせてもらっていたことだ。実際に自分自身が、

「ストイックな修行をしているように見えるサドゥが好きだ。太っているサドゥは何だか怠け者のような気がして」

と宿で発言をしたことを覚えている。

しかし、豊かな体格をしたサドゥは結構いたし、女性のサドゥもいて(Sadhviと呼ばれる。さすがに裸ではなかったが)、何よりフォトジェニックな飾りを身に纏ったサドゥが沢山いたのである。勿体ないことに、自分の変な思い込みのせいでそのようなサドゥとあまり話さず写真もほとんど撮っていなかったため、あとでルドラゲストハウスの晃子さんに送ってもらったのがこの記事の写真である。

菩提樹の実の聖なる数珠を無数に体中に巻き付けているサドゥ。


マリーゴールドの花をおしゃれに纏(まと)って着飾ったサドゥ。


サングラスをかけたサドゥ、何だかガラが悪いのは気のせいか(笑)。



何やら頭に盛り盛りのサドゥ。絶対重いはず。


髪を意気に伸ばしたりまとめているサドゥ。女性のサドゥもいる。


シヴァ神と同じ虎の皮を纏ったサドゥ。


極めつけは、テントの中にブランコを設置してゆらゆらと乗っているサドゥ。


よくよく考えてみれば、これは恐らく、「自由」の一環なのだ。「自由でいること」は彼らを貫くスタイルであり、もしかしたらそれは彼らの修行のうちなのかもしれない。

もし物質を持ちたくなったら? 持ちたければ持てばいいんじゃないか。自由である。どのサドゥも他人のことは全然気にしない。
もし家族を持ちたくなったら? サドゥは辞めてもいいのだ。自由である。サドゥを辞めることを誰も咎(とが)めはしない。

そういえば、スマホを熱心に見ているサドゥがいて驚いたのだった。何となく、見てはいけないものを見た気がしていた。それに、どこから手に入れたのか、新聞を読んでいるサドゥもいた。

実際に、同じ宿に泊まっていた日本人女子のぞみ(デリー在住でのちに泊めてもらう)が、サドゥから熱心に求婚されたという話を聞き、動画も見せてもらっていた。どこかで違和感を覚えていたが、結婚というものをしたくなったら世俗に戻っていいのだ。
自由だから特に制限がないのだ。自分がいかに囚われて見ていたかに気づかされる。

さらによくよく思い返してみると、身体的な修行をしていたサドゥはごくごく僅かでしかなく、それもたまに気が向いたらやるという感じで、たいてい、大麻でラリってぼうっとしているか(瞑想修行をしていたかもしれないし、していなかったかもしれない。分からない)、牛と戯れているか、ブランコに乗っているか、集まって和気あいあいとおしゃべりしているか、基本的に「遊んでいた」!
それも自由なのだ。
ヒッピーやフラワームーブメントがここを出発点にしたのが分かる気がする。

逆に、辛い修行もしたかったらすればいい。局部の力を最大限に高めて何かを引っ張ってもいいし、数十年片手を挙げ続けて爪がぐるぐるに伸び放題になったサドゥや、数十年言葉を発しないサドゥもいるらしい。そこも自由だ。

そういえば不思議だったのが、立派なカレーを食べているサドゥがいたことだ。お布施をもらっているので、チャイを飲んだり振舞ったりしているのを見ても、それくらいは買えるのだろうと納得がいく。しかしカレーは?
検索してみると、店の前で「お腹が空いた!」と駄々をこねるサドゥの目撃談があった。
たしか、サドゥはインドで一目も二目も置かれまくられているがゆえ、純粋に尊重もされているし、逆にサドゥに酷いことをすると後で呪われると恐れられてもいたはずだ。
つまり、駄々をこねられた店側がカレーを無料で提供した可能性がある。
そうすると、太っているサドゥがいたことも納得できる。

手作りテントで電気を使っているサドゥだっていた。ピカピカ光っていた電飾で誇らしげにしているサドゥ。あれも勝手に電気を引いて黙認されていた。
鉄道も、サドゥは勝手に乗って無料が黙認されていると聞いたことがある。
…サドゥ、ものすごく自由だ。自由過ぎる。そして自由が担保されている。

面白いのが、これらを聞いてもサドゥは答えてくれない場合があるらしいことだ。
答えなくても良い自由をサドゥは持っている。何より、周りが理解していようがしていまいが、サドゥには知ったこっちゃないのだ。
含蓄に富んだ言葉をくれるサドゥもいるが、話すことを面倒くさがるサドゥもいる。

「仙人」や「修行」といった言葉から来る固定観念で見てしまっていたなぁとしみじみと感じる。
もしかしたらストイックを是とする文明に身を置き過ぎたかもしれない。

そのときそのときで本当の意味で自分がしたいことを私は心から理解しているだろうか。
法律にも経済にも規定されず、存在は保証されていないしお金は持っていないという、日本では考えられないそんな状況を私は平常心で過ごせるだろうか。
誰のことも放っておいていいし、逆に誰からも放っておかれる、そんな環境を甘受できるだろうか。常識や理性を外してありのままに物事を捉えられるだろうか。
自由になりたいと思う私は、本物の自由を得たとき、果たして満喫できるのだろうか。


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※この記事で使った写真と動画は、バラナシのルドラゲストハウスのオーナー・晃子さんから頂きました。晃子さん、ありがとうございました!アットホームで居心地良く、インド人の旦那様サンちゃんと犬のパグちゃんも優しく迎え入れてくれ、情報量も豊富な宿なので、皆さんバラナシに行かれた際には是非お泊まりになってみてくださーい!

※サドゥについては、帰国後、写真家・柴田徹之さんのWEBサイトとご著書『サドゥ~小さなシヴァたち~』から沢山情報を得ました。主に今回の記事に反映されていますが、これまでの記事にも引用している部分があります。ご著書は素晴らしいの一言!これだけ妥協せずにモノ作りを貫徹なさった姿勢と、内容の深さに感銘しました。日本で随一のサドゥ本だと思います、おすすめ!


この度初めてサポートして頂いて、めちゃくちゃ嬉しくてやる気が倍増しました。サポートしてくださる方のお心意気に感謝です。