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日本の思想と宗教の現状について

生長の家、立正佼成会、大谷派、曹洞宗、日蓮宗・・・そうした日本の健全なナショナリズムを担ってきた宗教団体が、どうしてこんな体たらくになってしまったのか。僕的には、なにより生長の家と大谷派の左派転向に身を捩るような思いがあります。代わりに幸福の科学の台頭がありますが、幸福の科学は確かに保守ではありますが、皇室に対する敬愛の念が感じられないところが心配です。 

ところで、沖縄で孔子廟裁判をやるなかで、日本と中国における仏教と儒教の混交を勉強することができました。日本の仏教は中国由来のため印度の仏教ではなく中国の隋唐で、儒教と混交した仏教が入ってきています。だからお墓や位牌といった儒教の宗教アイテムがあり、火葬といっても納骨をする土葬的火葬なのです。法事には仏教にはないはずの3回忌(仏教は49日で輪廻転生すると教えているのにもかかわらず。)や先祖崇拝があってお盆にはご先祖の霊がお帰りになります。儒教も朱子学では、人間は魂(霊)と魄(体)からできており、死ぬと魂と魄に分かれ、魂は天に上り、魄は地下に沈潜すると説きます(これは朱熹が輪廻転生を説く仏教が間違っていることを論証するときに使う理屈です)。子孫が祭礼をすることで、その際主を依り代にして先祖の魂魄は一体となって蘇ります。これが儒教の「孝」の重要な要素だということを意見書を書いていただいた加治先生から教わりました。儒教は学問か宗教かという裁判でしたが、儒教の宗教性はこの「孝」のなかにあり、仏教の宗教儀礼として日本人がなじんでいるもののなかに潜んでいたのです。那覇の孔子廟は年に1回の孔子祀のための施設であり、孔子祀りは孔子の霊をお迎えする儀式であり、まさしく儒教の宗教性を象徴するものでした。一審、二審では、その論証が認められて、那覇市(後に知事となる翁長市長時代でした。)は、孔子廟の所有者である久米宗聖会という団体に対する便宜供与であるとして政教分離違反が認められたのですが、現在、最高裁で審理させており、来年1月に大法廷で弁論が開かれる状況になっています。

この裁判を通じて、中国における儒教と仏教の混交のこと、日本が受容した宗教としての仏教と儒教のことを相当程度深く知ることができました。 
そしてこのことを知ると、日本における神仏習合のことを思います。民族の重要な無意識の要素を外来の宗教や思想は侵すことができないのだということです。山崎闇斎の垂加神道などは偉大な知性による民族の無意識の理論的整理のように思えます。逆に、いまある宗教や思想的装いのなかに、古来からある思想の古層にあるコアのようなものが見え隠れするということです。 

同じように、清朝末期に清朝を転覆させる一歩手前までいった太平天国の乱のことを思い起しました。受験勉強で覚えた洪秀全は、イエスの弟として登場し、キリスト教を名乗りましたが、似て非なるものでした。それと同じく、中国共産党もマルクス主義を名乗っていますが、カント・ヘーゲルの西洋哲学の系譜にあるマルクスの共産主義とは似て非なる東洋の専制主義的な共産主義です。日本における墓付きの仏教のようなものであり、信仰のコアと装いとを分けてみる必要があるように思っています。 

日本の宗教界の現状も、日本人の集合的無意識(ユングの用語)の揺らぎのようなものと解するべきなのでしょうが、日本人のこれからを占ううえで重要な指標になると思っています。 
(2020/12/02)

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