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ネトウヨ「ヘイトスピーチ」の淵源について

現在、近畿弁護士会人権シンポにおいて「ヘイトスピーチ規制」を考える分科会において報告書を取りまとめている最中なのですが、いわゆる「在特会」や「ネトウヨ」の差別発言をどう捉えるかという議論が、当然のことながら生じています。そこでは、日本のナショナリズムが「歴史の歪曲」や人種差別意識と結びつけて論じれてきました。今回の朝日新聞の謝罪に関連し、日本の排外主義的保守活動について若干の擁護を試みました。こうした分析をどう考えるかは、弁護士会においても、そしてこのMLにおいても自由ですが、そこにある議論に値する問題点を把握しないで通りすぎることはできないでしょう。(H26/9/17)
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少し遠回りの議論です。

排外主義的憎悪言論を生む精神構造問題に関することで、昨日のナショナリズム論議のなかであった「排外主義的ナショナリズム」なるものについて、「歴史を歪曲するナショナリズム」という言葉がありました。この言葉は現在の日本の重要な問題を孕んでいると思われるので、以下のとおり、take noteしておきたい。

いわゆる在特会の活動は、アンチ水曜日デモを原点としています。従軍慰安婦問題を糾弾する水曜デモに対する「アンチ(対抗言論)」として始まったものです。
彼等のView point は、従軍慰安婦の「強制連行」はなかった、彼女らの待遇は、総じて好条件であって慰安所施設における「性奴隷的虐待」はなかったというものです。

僕が気になっていたのは、ヘイトスピーチ規制積極論者のなかに往々にして在特会ないし極右団体の主張、従軍慰安婦の「強制連行」や「性奴隷的虐待」はなかったという主張に対し、「排外主義的歴史歪曲」とのレッテルを貼り付けようとする非難があったことです。 もちろん、議論の詳細については異論の生じるところでしょうが、少なくとも、従軍慰安婦の「強制連行」と「挺身隊」との混同については、それを報じた朝日新聞が誤りを認めて謝罪したことで決着がついたようです(国民世論的には。国際世論についてはこれからです)。

これまで、日本人は、祖父の世代に少女20万人を強制連行して性奴隷にする蛮行を働き、現在の日本人は、その蛮行を指摘されても素直に事実を認めず、謝罪も賠償もしない無責任で不誠実な民族というレッテルを貼られてきました。事実ではない冤罪で糾弾を受けても、謝れないのは当然です。無実であることを知りながら、国際世論に迎合して、謝罪のポーズをとるのは、それ自体、不道徳であり、不誠実です。子供たちや若人は、そうした偽善を憎みます。それは健全な精神のありさまです。いわゆる「民族的人格権」や「民族的アイデンティティの権利」というものが認めうるのであれば、多くの日本人が朝日の報道と、これによるクマラスワミ報告・マクドゥーガル報告に基づく国際世論によって、そうした人格権を傷つけられ、民族的侮辱を感じてきたはずです。

僕は、いわゆる「ネトウヨ」や「排外主義的」保守運動に関わる人々について、そうした精神の健全さを認めてきました。歴史の事実と向き合い、偽善を排し、誠実であろうとする精神と倫理的姿勢をそこに見出してきたからです。彼らなりの正義感に基づく活動が、今日の朝日新聞の白旗につながったという見方もあるのです。 もちろん、彼等の全員が差別意識から免れているなどということを主張する気はさらさらありません。希にですが、強烈な差別意識(コンプレックスの裏返しのような)に基づく、差別的発言の場に居合わせ、これを発した者と大喧嘩になったこともありました。

差別意識は憎むべきものです(尤も、かかる憎むものであっても、それを信条とする者の存在と共存の必要を否定するつもりはありませんが)。しかし、彼らの発言や主張が、すべて差別意識に基づくものと断定するのも、誤った認識です。そこには極めて反時代的(朝日などの支配的なマスコミが形成してきた戦後民主主義の時代)な倫理的反逆の精神があるということを見逃さないで欲しいと思っています。そこに行き過ぎの過ちはあると思います。僕が、問題の本質を「差別意識」ではなく「マナー」の問題と整理しているのはそのためです。 誤った認識に基づく糾弾は、必ず、時代の逆襲を受けることになるでしょう。

会議の場でもありましたが、少なくとも朝日新聞問題が当面の区切りを見せるまでは、ネトウヨが誤った情報を真に受けて、誤った歴史認識を振りかざして歴史を歪曲しているというステレオタイプの表現は慎むべきです。少なくとも、従軍慰安婦問題については、誤っていたのはネトウヨではなく、朝日新聞を筆頭とするエスタブリッシュなマスコミだったのですから。

この議論は、過日、崔先生が提起した日本人が持つ差別意識の深層についての議論を受けたものでもあります。遠回りの議論ですが、重要な議論だということで、シンポジウムに直接反映することはできませんが、そこにある問題が何かという意識をもって、このシンポジウムに臨みたい、臨むべきであると考えているからです。

(H26/9/17(MLへの投稿から))

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