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忠臣蔵の尊皇メッセージについて

尊王家を育てるためのコンテンツ。
 
1 万葉集(恋の歌集)―日本人に愛などいらぬ。恋があれば十分だ。-三島由紀夫
2 忠臣蔵(尊皇劇)―山鹿流陣太鼓に込められた愛国の思想 
3 日本国憲法 - 国体護持のアクロバット 

忠臣蔵が尊皇劇であることを示す台詞は、討ち入りの夜。上杉の一言。
「あれは山鹿流。内蔵助よくやった」です。

忠臣蔵の通奏低音である山鹿素行の山鹿流がそれです。山鹿素行の「中朝事実」は江戸で一世を風靡しました。
易姓革命が相次ぐシナは世界の中心たる中国ではなく、日本(朝廷)こそ中華であることを発見したというタイトルです。孔子の理想は日本にこそあったという発見です。それが尊皇思想であって幕府にとって危険思想になるということに気づいたのは天才・新井白石。

江戸払いになった山鹿素行を家老級の俸禄で迎えたのが当時、塩田開発で成功していた赤穂藩。山鹿流兵法は忽ち藩学となりました。長州を含め赤穂藩以西の西国はやがて山鹿流一色になっていきます。 

浅野内匠頭は赤穂藩の三代目、幼き頃から山鹿流の尊皇思想を学んできた。他方、吉良上野介は、佐幕の名門。朝廷の使者のお迎えという役を全うする上で、吉良と浅野は抜き差しならないイデオロギー対決。尊皇の浅野は使者であっても朝廷が上座、吉良は天皇であればともかく使者を遇するにあたっては、老中が上座とお互い譲らない。背景にこのイデオロギー対決があったからこそ、松の廊下につながった。いわば尊皇であっても、男系原理主義と女系容認派とは相いれないのと同じ、外部からはなぜ衝突しているのかはわからないが、当事者は、ギリギリした神経戦を闘っていた。 

そのことが判らないと、忠臣蔵は、単に短気で癇癪もちの若殿が、怒りに任せて刃傷沙汰に及んで藩を取り潰されたという馬鹿殿の後始末。そこに尊王と佐幕の戦いがあることを江戸の庶民は知っていた。また、当時の儒者を巻き込んで論叢になった。そこには「忠義」をめぐる当時の迫真の議論がある。確か室鳩巣、伊藤仁斎、中江藤樹らは義士側を擁護した。まるで戦前の滝川事件だ。

吉田松陰は長州藩の藩学、山鹿流兵法家に生まれ、11歳で殿様に御進講した英才。高杉晋作が講和のために英国船に乗り込んだ山鹿流を朗々と講義して英国側の度肝を抜き、その弟弟子、乃木大将は昭和天皇の教育係として山鹿流を講義し、明治帝の死に妻と殉じる日に教科書を昭和天皇に手渡したことが伝わっている。 

忠臣蔵で切腹した義士達の仇をとったのが長州藩の明治維新であった。という歴史の通奏低音を知っていると、明治維新とは何か、GHQによる「神道指令」をはじめとする文化侵略がなんだったかを理解することができる。 

山鹿流は全国の大学に講座があったが、GHQは、これを真っ先に追放した。忠臣蔵を上演禁止にしたのは、それが山鹿流の尊皇イデオロギーの宣伝劇だとみたからです。

実際の忠臣蔵には、山鹿流が一か所だけ登場する。それは、内蔵助の討ち入り。討ち入りの合図に陣太鼓を叩く。それを聞いた吉良邸の隣にいた上杉の殿様が起き上がっていう。
「あれは山鹿流。内蔵助よくやった!」 
山鹿流陣太鼓は、忠臣蔵で最も象徴的な役割を果たしているが、実在しない忠臣蔵の創作だという。敢えて、実在しない陣太鼓を物語に描き込んだことにこそ、「忠臣蔵」という物語が持つメッセージ性があるということです。山鹿流陣太鼓は忠臣蔵に込められた尊皇イデオロギーの「象徴」なのです。

靖国神社に行けば武士道の祖として山鹿素行がまつられています。このあたりのことは、PHP「靖国神社」に収載された拙文「靖国訴訟の実相」に書き込んでいますので関心のある方は是非ご一読を。
以上
PHP「靖国神社」
忠臣蔵の尊皇メッセージについて(1)
忠臣蔵の尊皇メッセージについて(2)
忠臣蔵の尊皇メッセージについて(3)忠臣蔵考ー日本人の誕生ー

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