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戦国武将・三好長慶は徳島生まれと言えるのか~天下人の軌跡・三好長慶生誕500年(1)

 徳島ゆかりの戦国武将、三好長慶は2022年2月13日、生誕500年を迎えた。長慶は将軍を京都から追放し、自分の実力だけで政治を動かした。このため、織田信長に先駆けて首都圏の畿内を制した「戦国最初の天下人」といわれる。節目を機に、史料や遺物を手掛かりとして、阿波とのゆかりや長慶が治めた天下とは何だったのかをあらためて探る。

 三好長慶は1522(大永2)年2月13日、阿波で生まれたと伝わる。しかし、長慶に関する当時の史料は極めて少ないといわれており、裏付ける根拠は限られている。
 
 15代目の子孫、広島市の三好喬(たかし)さん(81)に、伝来の系図で調べてもらったところ、通説通り長慶が1567(永禄7)年7月4日に亡くなったことは分かったが、死去した年齢や、誕生日は不明だった。

 喬さんは「系図に書かれた内容以外は分からない。研究者の業績などで知ることも多い」と話した。

 昨秋刊行された「三好一族」(中公新書)など三好氏に関する本を10冊著している長慶研究の第一人者、天理大の天野忠幸准教授によると、長慶が生まれた年については、戦国時代末期の軍記物「足利季世記(きせいき)」を参考にしているという。長慶が数え43歳で亡くなったことが分かるため、逆算して、生年は1522年と考えられるそうだ。

 生まれた月日は、江戸時代に作られた系図「三好家譜」に「2月13日」と記されているという。

 では、長慶が阿波で生まれたといえるのだろうか。

 長慶が生まれた22年ごろ、父の元長は20歳ぐらいで、主君の細川家の内紛で畿内に住めない状況だったといわれ、阿波にいたと推測できる。さらに元長に関しては、20(永正17)年に「千熊丸」の幼名で美馬市の安楽寺に出した文書(安楽寺所蔵)が存在している。

三好元長から文書が送られた安楽寺。その命によって建立地である現地で復興された。朱塗りの山門は寺を象徴する建物とされる=美馬市美馬町宮西

 安楽寺によると、文書が出された時、寺は美馬になかった。15(永正12)年に起こった火災で伽藍(がらん)や宝物が焼けたため、吉野川市山川町瀬詰に移り、その後、香川県三豊市の宝光寺に移転していた。

 元長は、その文書で安楽寺に「税金などを免除するので郡里(こおざと)に戻ってくるように」と命じており、安楽寺は元の建立地に帰って復興したとされる。

 長慶が阿波で誕生した可能性は高そうだが、生まれた場所まで限定できるのだろうか。今のところ、長慶の生誕当時の記録は見つかっていない。

 ただ、江戸時代の地誌「阿波志」に、元長の拠点が三好市の芝生城と伝承されている趣旨の記述があるため、元長が畿内に住めない間、芝生城にいたとすれば、そこで生まれた可能性は高いといえそうだ。