【書評】中村真一郎『芥川龍之介の世界』

中村真一郎の『芥川龍之介の世界』という芥川の批評本を読み終わったのでその感想を書いていこうと思う。

早速だがこの本はすごい。批評であるのに1つの文学作品になっている。1つ1つの節にしっかり内容が詰まっていて読み心地がいい。

さらに言うなら芥川龍之介のことを非常によくわかってると感じる(自分よりもとても深く)。著者は1918年生まれでもう亡くなっているが、まるで同士に合ったような気分にさせられる。

特に面白かった点としては以下の2点。

1:懐疑についての話
2:芸術的体験の話

これらを順にみていきたいと思う。


懐疑についての話

以下は本書のp139の引用である。

懐疑を持って人生に臨む人間は、説得力においてはひとつの信念を持つ人間にとうていかなわない。懐疑主義はなにひとつ建設しないからである。

このフレーズは個人的に心に刺さる。自分自身懐疑的な発想を持っている人間なのでわかるが、こういう面は確かにある。たとえその信念が妄信的なものであっても、懐疑主義よりかはパワーがある。それは間違いないだろう。

ただ往々にして懐疑的な立ち位置を取っておいた方が正しいとも思っている。もちろん断定できる問題もあるとは思うが、この世の中は判断を断定できることばかりではない。

たいていの問題は自分が持っている情報では判断が確定できず判断を保留したほうがいいと感じている。ただしネットなどを見ていると確定できないのに断定したり、強い口調で言っている人をよく見かける。これはインフルエンサーとかでもありがちだし普通の人でもよくいる。

悲しいことに情報不足でも判断保留より断定を好む人は多い。その断定が客観的な目線から確定的でないとしても多くの人は確定的情報を信じる。懐疑的な目線が1つの妄信的な信念に敵わないというのはあると思う。若干広く解釈しすぎな面もあるかもしれないが自分はそう思ったからこそ刺さるものがある。


芸術的体験の話

以下はp148~p149の引用である。

あらゆる生活欲を失ったと自認している彼が、ゲーテの『西東詩編』になお感動したということは、芸術のみの表現し得る何物かに打たれたためである。それはかりに美とか詩とか名づけられているが、近代人にとっては宗教の代りをしている荘厳な何物かなのである。(中世人の宗教的感動にも実はこの芸術的感動が融け合っていたから、現代の人間は宗教の代用品として芸術を求めているのだ、というのは当たらない。むしろ、芸術のなかにドグマなき宗教的体験をしているという方が正確だろう。)

「芸術のなかにドグマなき宗教的体験をしている」というのはとてもわかる気がする。自分自身も宗教は信じていないが、文学作品に心を打たれそれを拠り所としている面がある(クロスチャンネルとか芥川作品とか…)。

人は文学だけではなくアニメや映画、趣味、対人関係などあらゆるところに芸術的体験を発見するのだと思う。そしてそれを1つの拠り所として生活をしている人は多いんじゃないだろうか。

芸術的体験というとピンとこない人もいるかもしれないが、要は鳥肌が立つくらい心に残る体験のことである。中学生くらいに見た映画のワンシーンに感動させられたとか、ある人から聞いた話がその後の人生の糧になったとかそういう体験である。

本書では上記の文章でそれを端的に示している。この文章の味わい深さと鋭さは非常に心に刺さる。自分が冒頭で本書が1つの文学作品になっているといったのはこういった点が大きい。


まとめ

本書を読んでいると非常に芥川作品を読みたくなってくる。芥川の作品は文体が難しかったり、内容を読み取るのに時間がかかったりと読みづらいのでなんとなく敬遠したくなる面もあるが、芥川を読む意欲が再度沸き起こった気がする。

他にも堀辰雄の話やアナトールフランスに影響を受けた話など興味深い話が盛りだくさんなので、芥川作品が好きな人は読んで損はないと思う。

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