見出し画像

ヴィクトール・フランクルとアンパンマン━━意味の問いかけ

NHK教育テレビ「こころの時代」にて、ユダヤ人精神科医ヴィクトール・フランクルの特集が全6回にわたって放送されました。

オーストリア出身のフランクル医師は第2時世界大戦中のナチスによるユダヤ人迫害の犠牲者で、強制収容を身をもって経験した方です。あの悪名高いアウシュヴィッツ収容所で過ごした時期もあったようです。

人類史上類を見ない、最も過酷で悲惨な状況の中、「それでも人生には意味がある。意味を見出すことが生きる力になる。」という自身の理論”ロゴセラピー”を実践しました。
戦後出版されたフランクル氏の体験記「夜と霧」は、今なお世界で読みつがれるベストセラーです。


私にとっての「夜と霧」

この「夜と霧」、個人的にとても思い入れの深い一冊です。と言っても、読んだのはもう30年ほども前のことでほとんど内容も覚えてはいなかったのですが。

当時中学生だった私は、今ではちょっと考えられないくらい厳しい厳しい全寮制のPL学園で過ごしていました。寮と学校を往復する以外の外出が許されるのは一つの学期にたったの1回だけ。配られた小遣い5000円を握りしめて、大阪市内の大型書店まで出かけてこの「夜と霧」を買い求めました。
自由な外出もままならない当時の自分が置かれた境遇と、ナチス・ドイツによる理不尽な強制収容の実態を重ねる、などという深刻なものでは全くありませんでしたが(笑)どういうわけかフランクル氏に大きく惹かれた当時の少年にとって忘れられない特別な買い物になりました。市内までの電車賃と書籍代で小遣いはほとんど使い果たしましたが、何かすごいものを手に入れたのだという高揚感を今でも覚えています。

どうしてこの人物にここまで魅力を感じたのだろう?大人になってフランクルの人生を紐解いて、ようやく分かったような気がします。「夜と霧」、今こそ読み返したい一冊です。

4歳児の気付き

中学生の時分からヴィクトール・フランクルの「夜と霧」に興味を持つなんて割と早熟な子どもだったんだなぁと、自分の少年時代のことを思い返す訳ですが、それで言うとフランクル氏の早熟っぷりは全く比較になりません。

「ある晩、眠りに入る直前にはっと飛び起きたことがある。自分もいつかは死なねばならないと気づいたからである。
しかし私を苦しめたのは、死への恐怖ではなく、むしろただひとつ、人生の無常さが人生の意味を無に帰してしまうのではないのか、という問いであった。」

これはフランクル氏4歳の記憶です。

…4歳って!

我が家の長男が今まさに4歳児ですが、明けても暮れてもテレビにかじりついてアンパンマンの毎日です。生きることの無常に気がついてしまう、なんてことは、まあ無いだろうなあ…。
強制収容という極限下においても真っ当な人間性を保ち続けたヴィクトール・フランクルという人物は只者ではない。そもそも人間のでき方が違うのでしょう。

ウチの子はせいぜいアンパンマン…ん?あれ?
いや、待てよ。

フランクルとアンパンマン


なんのために生まれて
 なにをして生きるのか
 こたえられないなんて
 そんなのはイヤだ!

これは主題歌アンパンマンマーチの冒頭の一節ですが、ここに綴られているのはフランクルが抱いた人生の無常と、無意味への恐怖、意味の希求そのものです。

「何のために生まれて何をして生きるのか」その問いへの答えとしてアンパンマンが選んだのは「みんなの夢 守るため」でした。
アンパンマンの選択は、フランクルの提唱するロゴセラピーの実践そのものです。

ヴィクトール・フランクルをフランクルたらしめた幼い頃の気付きと全く同じ内容を、さり気なく、しかしストレートに全国民の幼年時代に刷り込ませるなんて…

やなせたかし、恐るべしです(笑)

生きることの意味を求めることは、何か特別な資質ではなくて、全ての人に備わっている本能のようなものかと思います。
ともすると日々の雑事に追われてうやむやなままに人生を無為に過ごしてしまって、死を目前にして初めて「私の人生、何だったんだろう?」なんてことに陥ることもしばしば。
今を生きる子どもたちの人生がそんな悲しいものにならないように、熱いメッセージが込められているのが「アンパンマンマーチ」なんだなぁと、気付きました。

そしてそれは、ロゴセラピーでフランクルが世に伝えたかったことと通じているように思います。

フランクルが目指したのも生きる意味への問いかけの一般化というか、誰しもが人生を肯定的に捉えることができる論理でした。だからこそロゴセラピーからは一切の宗教性を排し万人が共有できるロジックを目指したのですが、フランクル自身は敬虔なユダヤ教信者でした。
宗教的な壁を越えた一般化を目指した背景には、大戦下のユダヤ人迫害の影響もあったのでしょう。
理不尽極まり無い迫害を受けてフランクルが求めるようになったのは、ユダヤ人のみならず万人を救うための論理の追求でした。

ウチの子もいつか人生の意味に思い悩むことがあるのだろうか?ひょっとすると、気づいていないのは親ばかりで、すでに果てしない意味への希求は始まっているのかも知れません。幼い頃のフランクル氏と同様に。

いついかなる状況においても人生に意味を見出すことはできる、そのことを自らの人生で示したヴィクトール・フランクル。

彼が遺したロゴセラピーと、彼自身の信仰のあり方に着目しながら、何回かに分けて綴ってみます。

全ての人は意味によって生きる。どんな状況下においても意味を見出すことはできる。そして、見出した意味は他の何者にも奪われることはない。奪うことではなくて、与えることによってのみ意味は見出される。ならば私は、全ての人の生きる意味を守ることを私の生きる意味としよう。例え全てを奪われたとしても。━━それがヴィクトール・フランクルという人物です。

うーん、つくづくフランクルってアンパンマン的です。

次回、「現代人ためのロゴセラピー 意味論のコペルニクス的転換」
ただ番組の感想を綴っても面白みがないので、今度は”農業”と絡めた話にしてみます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?