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新しく光る

美しく切る

『マツコの知らない世界』が好きで、たまに観ている。

先週の回では、包丁マニアの恰幅がよいカナダ人のおじさんがマツコ・デラックスに包丁の素晴らしさを紹介していた。

なにやら包丁というのはすごく大事らしい。
鋭く切れ味が良い包丁を使うことは、調理を簡単にするだけでなく、料理の味にも大きな影響を及ぼすそうだ。

凹凸の少ない美しい切断面は、食材の酸化を遅らせることや、加熱を均一にすること、舌と密着して味をより強く感じさせることに貢献するのだとか。

ものは試しという事で、おじさんが安めのマグロを高級な包丁で切り、マツコがいぶかしげにそれを口にしていた。案の定、マツコは驚嘆の表情を見せた。

「やっぱり切り口の美しさが食材のポテンシャルをめいっぱい引き出してくれるんだなあ」なんてことを思った。
 
 

 

……やっぱりってなんだ?
 
自問し、少し考えて、納得した。

 

これと似た感動を、ぼくはつい最近にも経験していた。
 
 
 

 

美しく見る
 

ヨハネス・フェルメールは17世紀のオランダを代表する画家で、ミステリアスな緊張感をたたえた静謐な空間、光の粒子までをも捉えた独特な質感を特徴とする。

『フェルメール展』は、寡作で知られる彼の全作品35点のうち9点が一同に介し、それを中心にオランダ絵画黄金期の様々な傑作が展示されたものだ。
オランダ絵画黄金期の作品には、それまで世俗的な画題として軽んじられていた風俗画の傑作が数多くある。

風俗画は、日常のありふれた風景の一部を切り取って絵にする。
描くこととは見ることに等しいとはよく言うものだけれど、そういう意味で風俗画家は「日常を見る」天才たちの集まりだ。

当たり前の風景の中にある美しさを見出し、それを卓越した技術で絵に落とし込むことで「これって実は美しくない?」と観る者に新たな視点を提示する。鑑賞者は画家がもたらしたその視点を味わい、持ち帰る。

この「新しい視点」というのは、それこそ切れ味の良い包丁のようなものと言えるかもしれない。
食材は世界だ。

フェルメールの視点を教わることで、彼のように日常を見る非凡な才能を持たないぼくらでも、それまで見えなかった日常に潜む輝きを味わうことができるようになる。

だから、フェルメールの絵をみる前と後では世界の見え方がすこし変わる。

ひとつ例をあげよう。
 
 

 

『真珠の首飾りの女』
 
  

黄色いカーテンがふわりと掛かる窓辺からやわらかな光がさしこむ。室内に立ちすくむ女性は真珠の首飾りを結ぼうとリボンを手に、壁にかかる小さな鏡を見つめている。かすかにほころぶ口元と宙を見るような甘い眼差し。身支度にいそしむ女性が見せるふとした表情をフェルメールは静寂の中に描き出している。
(画像・紹介文ともに『フェルメール展』の公式サイトより引用)

この絵が提示する視点は、「美しくあろうとする営み」自体の美しさだ。

社交場に赴くための身支度自体は手間のかかるものだけれど、そこには少しずつ魅力が増していく自分を実感できる喜びもある。
この絵画は、女性から漏れ出たそんなちょっとした幸福感が部屋の空気に仄かに漂う様を、超絶的な技巧で過不足なく切り取っている。

社交場で優雅に振舞う女性を切り取るのではなく、そのための努力のプロセスに美しさを見出す。
白鳥が優雅に水面を泳ぐ様も美しいけれど、水面下で必死に足をバタつかせる様も美しいじゃないかと提示する。

バカみたいな表現だけれど、最強だ、と思った。
 
だって、美しいものだけでなく、美しくあろうとするものも美しいというなら、世のだいたいのものは美しく見れてしまうことになる。 
 

視点を持ち帰る

この素敵な視点を現代の日本へと持ち帰り、何か切れる風景はないだろうかと探した。
ちょうど高級な包丁を購入したマツコが、はやく何か切りたいと食材を求めてうずうずしていたように。

ぼくらが暮らす日常の中で、「美しくあろうとする営み」を覗き見る機会がはたしてどこかにあるだろうか?
 

 

 

あった。

すごく分かりやすいものが。

それも、とても近いところに。

ひょっとしたら毎日のように、通勤・通学の電車の中で、この『真珠の首飾りの女』に近い光景をぼくらは眺めていた。

 
 
 


いや、わかる。

電車で化粧する女のどこが美しいんだ、だらしなくてみっともないだけじゃないか。
それはその通りだ。

だけどその視点はもうぼくらは持っている。

それは一度脇において、新しい眼鏡を試してみよう。
 

 

新しく光る
 

確かに電車の中で化粧をしている女性はいつもむすっとしていて、普通いい印象は得られない。

でもそれをたとえば、自己陶酔的に見られることを回避するための表面的な繕いに過ぎないと思ってみるのはどうだろうか?

彼女たちの険ある仮面の奥底に、『真珠の首飾りの女』のような、鏡に映る「浮世の姿に身をやつしていく自分」への甘やかな視線を見いだせるとすれば、それは微笑ましくも美しい光景に見えてこないだろうか?

日々に忙殺されてバタつく足を隠すことすらままならず、それでもなんとかたおやかに、事も無げに足を振ろうとする彼女たちの健気さが愛おしく見えてこないだろうか?

すると、車窓からさす光が、少しだけやわらかさを増してこないだろうか?

ガタンゴトンと繰り返す無機質な電車の音が、ぼくらを社会へ送り出す出囃子のように、暖かく響いてこないだろうか?
 
 

現実はどうあれ、ぼくにはもはや、そう見える。
そうやって見ることが出来てしまう。

『真珠の首飾りの女』を見たから。

こうしてフェルメールがぼくに与えた視点は、ことも見事に、日常の中のなんでもない風景に新たな輝きを与えた。

 
良い包丁買ったなあ。

次は何を切ろうか。
 

・ ・ ・ ・ ・

ぼくは美術の知識に乏しいので、おそらく的外れな解釈をしています。ぼくなりの解釈ということでどうかご容赦ください。

このnoteではひとつだけ紹介しましたが、実際にフェルメール展に行くとこんな気づきや新たな視点がボコボコ得られてとても楽しいです。ぜひ行ってみてください。

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