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【エッセイ・人生観】「凡庸でありながらもある種の独特さをもつ満足感のあるよい人生」を目指してます!


こんにちは!
今回は私の人生観みたいなやつを語りたいと思います!
よければ読んでみてくれると嬉しいです!


みなさんは「人生で何か大きなことを成し遂げたい」だとか「凡庸な人生じゃつまらない」という思いを強く抱いたことはありますか?
今でもそういう思いが強いという人はいるかもしれません。
逆に、そもそもそういうことを真剣に考えたことがないという人もいるでしょう。
また、かつてそういう欲求が強くあったけど、今ではしかじかの考えに落ち着き、そういうことは考えなくなっている、みたいな人もいるかもしれません。
私自身は、どちらかと言えば最後のタイプです。昔はそういう思いも多少ありましたが、今では凡庸でありながらもある種の独特さをもつ満足感のあるよい人生を目指して日々楽しく生きています!
これを情けない変化ではなく、よい変化として捉えようとがんばっていると言ってもいいでしょう!

おそらくこうした事柄は、現代哲学では「人生の意味」や「人生の不条理さ」などの名前で取り扱われる領域に含まれているはずです!
今回はそうした「人生の意味」などの問いについて、哲学の論文を読んだり書いたり、講演を聴いたり、漫画や映画を見たりしながら、自分なりにずっと考えてきたことをやっと少しまとめてみました!!
それなりに内容あることを書いているはずだと信じています!
人生について真正面から語るのはある意味何か「臭い」ことかもしれず、どこか気恥ずかしい気もします。ただ、ずっとそういうことばかり考えているので、どうか語らせてください!
また、まだ二十代中盤という若輩者でありながら、人生について我が物顔で語ってしまうことに関して、他人がそれを不愉快に/痛々しく感じず読むことができるのか私は少し不安でもあります。しかし、もしかするともっと歳を重ねるとこうしたことについて語るための熱量がどうなっているかわかりません!せっかく多少は考えをもっているので、残させてください!
こういったトピックに多少なりとも関心のある方にとって、少しでもよい刺激となれれば嬉しいなと思っています!
ぜひお楽しみください!


1. 人生の凡庸さと栄光について

1-1. つまらなく見える人生

「人生の凡庸さ」というものついて、印象に残っている漫画のシーンがあります。

奥浩哉の『いぬやしき』という漫画の一巻冒頭部です。
学校帰りの少年2人が飲食店内の男性を見て話すシーンです。

奥浩哉『いぬやしき』一巻冒頭部

(これは、このおじいさん(主人公)が周囲から疎まれたり蔑まれたりしがちだけど、生き物を愛する心や義憤の心をもっている、という状況を描いた一連のシーンのひとつです)。
(ちなみに最後のコマに映っている少年は、このおじいさんの息子です。眼鏡の少年はその関係を知らずにこんなことを言っています)。

私たちはこの眼鏡の少年の発言を見て、どう感じるでしょうか?
ある人は、他人の生活のいち場面を覗き見て、その人生の価値を一方的に低く見積ってしまう無神経で無礼な態度に、怒りさえ湧いてくるかもしれません。
またある人は、自分も現状このおじいさんとそう変わらないだとか、将来はこうなるような気がする、といった悲しいような気持ちになるかもしれません。
さらに言えば、(人によっては半ば無意識に)「自分はこのおじいさんのようにはなりたくない」と感じる人もいるかもしれません。そして、自分がそう感じたこと自体に対して心の痛みを感じる人もいれば、そんなことは感じない人もいるかもしれません。

私としては、とりあえずここで語りたいのは、「眼鏡の少年の気持ちがわからなくもない」ということです。特に中高生の頃は、働いている大人たちの生活を想像して、すごく大変でつまらなくて気の毒な生活に見えている面があったような気もします。
ただ私は今では働いており、大人も結構おもしろいということがわかってきたので、そうした無理解な偏見みたいなものはだいぶ和らいでいます。
とはいえ、やはり20代くらいになっても、70や80歳を超えるようなおじいさんやおばあさんたちが生活の中でどういう喜びや張りあいを感じながら生きているのか簡単には想像できないからこそ、できれば誰かに教えてもらいたいとさえ思っています(明日は我が身なので)。
(先日帰省したとき祖母に話を聞いてみたところ、頻繁にバスに乗って友人に会いに行っているそうで、それが楽しみだった様子でした。結局子ども大人も老人も友だちが必要なんですかね)。

とりあえずここで言いたいのは、子どもくらいの頃って、ただひとりで働き、ただひとりで暮らすようなことを繰り返すだけの大人の生活がとてもつまらないものに見えてしまう瞬間が(失礼なことに)あったりするということです。

あとエピソードとして、私は地元が四国ですが、子どもの頃四国の山の中を父がよく運転してくれました。そこでときどき森のような山間に、集落とさえ言えないような、ただ瓦屋根の民家がなぜか一件だけぽつんと建っているような光景を見かけることがありました。幼い頃の私は、「ここで生き続けるというのはどういう生活なんだろう」と想像して少し恐ろしく感じたのを覚えています。こんな山奥で生まれ、生活し、ただそこで死んでいく生活を想像するとあまりに孤独で寂しい一生に思えたからです。
そんなの失礼な発想で申し訳ないし、実際はそこにある人生がどういうものかわからないのですが、とりあえず幼い頃そうしたことを感じたことがあったという話です。
みなさんもそういった経験ってあったりするんでしょうか。

1-2. スターの人生

このように、他人の生活やサラリーマンの生活が「凡庸でつまらない人生」のように思われる瞬間って、人によってはもしかしたらあるかもしれません。
では、世界中で人気のスターや有名人だったら「非凡でおもしろい人生」に思えるのでしょうか。
ここで注目したいのが次のことです。映画やドキュメンタリーなどでしばしば描かれるメッセージは、「たとえ栄華を極めたとしても、身近な人々と信頼関係を育むことができなければ、結局幸福な人生を歩むことはできない」というものです。どこか一国の皇帝だとか、ロックスターなんかの物語でそうした教訓が描かれるイメージです。
あまり詳しくないのですが、戦乱の世の覇王は、いつも臣下からの謀反に怯えて心休まるときがない、みたいなイメージがあります。
また、例えば、ロックスターのフレディー・マーキュリーの半生を描いた『ボヘミアン・ラプソディ』という映画でもそうした事柄が表現されていたと思います。大成功して毎日パーティ三昧だったとしても、パートナーやバンド仲間との信頼関係が壊れてしまっていては結局満たされない、みたいな描写があったと記憶しています。
たしかに、歴史に名を残す人々の人生にはやはり人を惹きつける魅力があると思います。しかし、それが「いい人生」「幸せな人生」「自分が送りたい人生」なのかと問うてみると、簡単にはYESと答えられない場合もありそうです。
穏やかな生活の中で小さな喜びを見つけながら生きていく」というスタイルはおそらく現在かなり人気の人生観ですよね。たとえドラマチックだったとしても、波乱万丈の人生はそう望まないという人も一定数いそうです。

1-3. 凡庸でありかつ意味のある人生

「人生の意味」について考えるにあたって、私がすごくお気に入りの歌詞があります。星野源の「恋」という歌の次の箇所です。

意味なんか ないさ暮らしがあるだけ

星野源「恋」

これ、最初聴いたときはドキッとしてもいいような歌詞だと思います。
ある一面から見れば、無名の一般人である私の生活や、私の親の生活、友人たちの生活は、ただそこに日々の「暮らし」があるだけだと言えなくもないはずです。
仮にもし私たちがスマートフォンに代わる何かを発明して世界を席巻したり、地球への隕石衝突を回避したりすることに直接的な貢献ができたとしましょう。その場合、私たちの人生には単に「暮らし」があるだけでなく、何か大きな「意味」があったと実感できるような気がします。
しかし、現実にはおそらく私や私の親や友人たちの人生は、世界に何か大きな変化をもたらすわけでもなく、何か偉大なものを後世に残すわけでもない可能性が高いと思われます。(まあ実際はわかりませんが)。
何も大きなことを成し遂げず、ただ一個の「生存」をまっとうしただけの人生を想像したとき、「本当にそれって生きた意味があるんだろうか」と不安な気持ちになることってもしかしたらあるかもしれません。
「意味なんか ないさ暮らしがあるだけ」という歌詞は、そうした繊細でシリアスな心情を無神経に刺激してくる歌詞にも思われるわけです。

しかし、おそらく星野源の「恋」で歌われているのはそういうことではありません。そうした悩み事のもっと先のステージを見ているんだと思います。
歌詞の続きを見てみましょう。

意味なんか ないさ暮らしがあるだけ
ただ腹を空かせて 君の元へ帰るんだ
[…]
胸の中にあるもの いつか見えなくなるもの
それは側にいること
いつも思い出して

君の中にあるもの 距離の中にある鼓動
恋をしたの貴方の 指の混ざり 頬の香り
夫婦を超えてゆけ

星野源「恋」

星野源の「恋」で歌われているのはおそらく次のようなメッセージだと私は解釈しています。すなわち、

  • 確かに私たちの暮らしには(世界への影響力のような意味での偉大な)「意味」はないかもしれない。だけど、私たちの暮らしそのものが"私たちにとっては"決定的に重要な意味をもっている。そのことの大切さに気づいてほしい、と。

どんなに自分で自分の人生を「意味がない」と頭で考えたとしても、私たちは自分自身の生活に最大限の関心をもって生き続けることになります。(空腹を感じればその苦痛を取り除くために食事をするし、便意を催しても排泄物をむやみに撒き散らしたりしません。大抵の人は後で困らないように、食材を買ったりトイレットペーパーを買ったりし続けます)。「自分で自分の人生を重要なものとして取り扱い続けてしまう」ということ自体が、自分の人生は自分にとって意味あるものなのだということを示し続けるのです。

人と会話し、人と食事し、人と過ごすような生活それ自体には、大きな「意味」はないけれど、だからといって何ら価値がないということにはなりません。世界や歴史について考えると自分たちの生活はちっぽけに思えることもあります。しかし、常に自分自身にとっては自分の生活は意味があるわけです。それが万人に当てはまります
これは当たり前のことなのかもしれませんが、改めてそのことに意識を向けると、余計な肩の力が抜けて、希望をもって堂々と自分の人生を受け止めることができるようになることがあります。(自分はそうでした)。


2. ◯◯にとって意味(価値)のある人生

私は大学院生の頃、「人生の意味の問題」(哲学のいちトピック)に取り組むにあたって、次のような整理を行ったことがあります。
「意味のある人生を送りたい」あるいは「特別な人生を送りたい」というとき、それはひとまず次の3つのパターンにわけることができるんじゃないかなという提案です。
(研究とか発表とかいうレベルじゃなくて、本や講演を踏まえて自分なりに考えたことを整理して、仲間内で共有したことがあるようなレベルのものですが)。こういう整理をすることで、何かが明瞭になると嬉しいなと思って考案しました。

  1. 世界にとって意味(価値)のある人生

  2. 誰かにとって意味(価値)のある人生

  3. 自分にとって意味(価値)のある人生

1つめは「世界にとって意味(価値)のある人生」です。これは映画『アルマゲドン』とか、物理学者『アインシュタイン』のような人生を想定しています。地球の破壊を防いだり、人類の科学を著しく大きく発展させたりした人生は「世界にとって意味(価値)のある」ことをした人生と言えそうです。彼らは人生で「大きなこと」をやっていますし、その人生は「凡庸」でもありません。あとそうした人生を歩んだ人は「有名」でもありますね。
2つめは「誰かにとって意味(価値)のある人生」です。例えば、よい関係性の親子や夫婦は、相互に「相手にとって意味(価値)のある人生」だと言えるかもしれません。その人がいたおかげでご飯を食べられたり、喜びが増えたり、生活の張り合いが生まれたりするからです。もちろん、祖父母と孫との間にもそういう関係は成立しえますね。ペットと飼い主もそういう捉え方ができるかもしれません。あるいは、師匠や恩人などもこういう事柄に関わっているかもしれません。
自分が死ぬときに、「大したことは成し遂げなかったけど、まあ立派な子どもを何人か世の中に送り出せたしよかったかな」と思えるのは結構いい気がします。
あと、「あなたに出会えてよかった」と言ってもらえるような人生を送れるときっと素敵ですよね。そんなこと言われたらかなり自分の人生を愛せそうです。

そう言えば、「何歳であっても自分の生活が誰かの生活に貢献している実感」が得られた方が精神衛生的に良いらしいという報告は耳にします。単に自分だけを食わせる生活より、誰かをお世話することを含む生活の方が自分の生きている意味を実感できる傾向にあるのかもしれませんね。
ちなみに、お世話される側は、お世話されることを通して、お世話する側の人生を意味あるものにしているという捉え方ができるかもしれません。お世話されるばかりで凹みそうだったら、そういう発想を使用してみるのはいかがでしょうか。けどこれってどこか恩知らずで傲慢なねじ曲がった発想ですかね。私にはまだよくわかりません。

なお、1と2の間にはグラデーションのような伸び広がりがあります。例えば、部活や学校、会社などの組織のレベルで重要な貢献を果たした人の人生というのはあるでしょう。また、都道府県や国家のレベルで重要な貢献を果たした人の人生もあるでしょう。そうした人生を送ることができた場合は、「意味(価値)のある人生だった」と実感しやすいのではないでしょうか。
(そう言えば、「何か大きな変化をもたらす」だとか「何か重要な新しいものを遺す」のも素晴らしいですが、単に「何かを価値あるものを維持した」ということにも意味を見出したいところですね。世の仕事や家事の多くは人々の営みを維持する役割を果たしているはずですから。価値ある「暮らし」を維持することができたなら、それは価値ある仕事ですよね)。

3つめ「自分にとって意味(価値)のある人生」です。とりあえず、「自分の人生に自分で意味や価値を見出すこと」「自分で自分の人生に満足すること」が重要だということはひとつ思っています。
ときどき物語で描かれるように、親が果たせなかった夢を自分が代わりに果たそうとするためだけに人生の様々なことを費やし続けた結果、何のための自分の人生だったんだと後悔する、みたいなのはいやですよね。(親の夢がちゃんと自分の夢になっていればいいのかもしれませんが)。
他人のために生きるのではなく、自分のやってみたいことに挑戦してみる人生の方が、自分にとって意味のある人生だったと思いやすい気はします。

こういう分類の試みが何か思考の整理に役立てば嬉しいんですけどね。


3. 修論のメッセージ「物語を構成することで有意味な人生を歩む」

私は大学院の修士論文を「人生の意味」と「アイデンティティ」というテーマで書きました。
私の修論の結論はおおまかにまとめると次のようなものです。

【修論の結論】
私たちが有意味な人生を歩むためには、自分の人生をよい物語として構成する(=組み立てる)ことが重要である

そのためには、2つの方向で物語を構成することが役に立つ。

【① 将来への見通し】:第一に、現在から将来に向けて物語を構成するやり方がある。すなわち、「将来◯◯を実現するために、今から◯◯をやろう」というものである。例えば、「将来弁護士になるために、今から法律の勉強をやろう」、「将来よい家庭生活を送るために、今から掃除や料理をやろう」など。
将来への見通しを立てることで、現在の生活や行動をより有意義なものにして行くことが可能になる。

【② 過去への意味づけ】:第二に、現在から過去に向けて物語を構成するやり方がある。すなわち、「現在の私が◯◯を実現できているのは、過去に◯◯をやっていたおかげだろうな」というものである。例えば、「現在の私が弁護士として働けているのは、過去に法律の勉強をがんばったからだろうな」だとか、「現在の私がパートナーと良好な家庭生活を送れているのは、一人暮らしをしていた若い頃に家事をがんばってきたからだろうな」など。
現在と過去とを結びつけて意味づけすることで、自分の人生を有意味なものとして実感することが可能になる。

第一の【将来への見通し】は、自分の人生を実際に有意味なものにしていくのに役立つ方向である。第二の【過去への意味づけ】は、自分の人生を有意味なものとして実感するのに役立つ方向である。

これら二つが両輪となって機能することが重要である
一方で、がんばれるときにがんばらなかったせいで不満足な生活を享受することになるのは避けたいものである。機会があるならがんばったほうがよい。
他方で、がんばってきたのにそれによって得たものに気づかず、苦労や不幸ばかりを噛み締めて生きるのももったいない。過去のがんばりがもたらしてくれた現在の生活のよい面にも目を向けるとよい。
つまり、「ちゃんとがんばることで人生を好転させ、そのうえで、実現しているよい状況に目を向けて人生に満足できるといいね」という考えである。

以上、簡単にまとめてみました。修論ではいろいろなことを論じていましたが、最終的に伝えたかった中心的メッセージは以上のようなことです。
これは、修論の研究を通して私自身が獲得した人生観のようなものでもあります。
私はこういった考えを自分の人生に対する「軸」として据えているわけです。
私は自分の人生で、着々と将来に向けて人間としての階段を上がっていき、その歩みを振り返って味わうことで満足感ある人生を送ろうと考えています。


4. 将来への指針「成熟した大人になりたい」

私が大学院を修了した24歳の頃、新卒で初めての会社に入社するとき、研修で「10年後どうなっていたいか」みたいなことについて考える機会がありました。
そこで私が考案した将来像は「知識、技能、経験、人格などあらゆる側面で成熟した大人になっていたい」というものでした。
私はそうした将来像を語りはしたものの、何も34歳で実際そうなれると考えていたわけではありません。ただし、34歳時点でちゃんとそういう道のりの途上であってほしいなとは思っています。
(本当は、職業生活に関連付けて「係長としてバリバリ働いてる」とか「支店長になる」とかなんとかそういう目標を立てる人もいるのかもしれません。しかし、個人的にはそこまで具体的な目標を立てることにあまり関心を持てません。そんなことは実現してもしなくても人生において根本的に重要なことだとは思われないからです。私はもっと汎用性のある抽象的な「指針」や「軸」のようなものを自分の人生に据えることに関心があります)。

「知識、技能、経験、人格などあらゆる側面で成熟した大人になっていたい」という指針について、少し詳細を説明したいと思います。
まず、「知識、技能」の成熟については基本的に職業と結びついたものを想定しています。私はいま建設業の業界で総務(ただ現場で施工管理もやっているし、プロパー社員として将来的に会社経営に関わることも期待されている)という職種に就いています。なので、それと結びついた知識や技能をたくさん身につけていきたいです。
次に、「経験」の成熟については、職業生活と私生活の両面でとにかく大人としての経験を重ねていきたい思いがあります。それはキャリアアップ的な意味もありますが、それ以上に全般的に「問題への直面」と「問題解決」の経験を重ねておきたい気持ちがあります。大人になったら、仕事、人間関係、お金、健康などのいろいろな側面で、何かしらの問題に直面するはずです。そうしたとき、ある程度落ち着いて適切に対処し、問題を解決できるようになっておきたいのです。
自分の問題についてもそうですし、自分の周囲の人々が直面した問題についても、その解決に貢献できると嬉しいですよね。特に部下や子どもができたとき、ちゃんとそうした人たちの問題解決に役立てる大人になっておきたいです。そのためにも自分自身いろいろな苦労や失敗に直面し、それを乗り越えるという経験をしておく必要がありそうなものです。(ただ失敗しそうなことに自ら飛び込むのはまだなかなかできることではありませんね)。
最後に「人格」の成熟については、人徳ある大人になりたいなという思いがあります。「成熟した有徳な大人ならこういう特徴をもっていてほしい」と思えるような人格的特徴のリストを想像してみてください。例えば、いま私が思いつくのは、「すぐキレない」「広く優しさや愛情深さがある」「寛容である」「むやみに他人や他の生き物を攻撃しない」「知識がある」「勇気がある」「差別や偏見に加担しない」などです。特定の職業や社会的地位に関わらず、公私ともにどこであれ常に成熟した大人ならば発揮していてほしい「人徳」を身につけた大人になりたいのです。(これは倫理学における「徳倫理学」からの影響も強く受けています。大学院で少し勉強したのです)。人格や人徳の成熟というこの目標はすごくやりがいがあっておもしろいんですよね。

5. 整理

ここまで私は二つのことを語ってきました。
第一は、修論のメッセージです。すなわち、

【修論のメッセージ】

〈将来への見通し〉と〈過去への意味づけ〉という両輪により、私たちは自分の人生を実際に有意味なものしていくことができるし、そのうえで自分の人生の有意味さを実感することができる。これにより私たちは有意味な人生を送ることができる。

第二は、入社時に考案した将来への指針です。すなわち、

【将来への指針】

将来私は知識、技能、経験、人格などあらゆる側面で成熟した大人になっていたい。

この二つを組み合わせることで、私の現在の人生観は明確に見えてきます。それはすなわち次のものです。
私は「知識、技能、経験、人格などあらゆる側面で成熟した大人になっていたい」という指針をもち、「この指針を実現していくストーリー」として自分の人生を捉えている、ということです。
この指針が実現していくほど、私は自分の人生に対して満足感を感じられるようになるでしょう。その一方で、もしこの指針に大きく背くことをしてしまうと、私は人生における挫折を多少なりとも味わうことになるのかもしれません。
そういう人生の根本的な方向性を胸に携えながら、地に足つけて着実に前を見て進んでいるのです。


6. 人生の独特さについて

「人生の有意味さ」に関する事柄でぜひ触れておきたいのは、「人生の独特さ」という事柄についてです。凡庸でないということで「非凡」でもいいのですが、「非凡」には「優れている」という意味合いもあるので、そこはフラットに行きたい気持ちがあり、「独特さ」にしてみました。

これも個人差が大きいかもしれませんが、私たちは「自分の人生は独特なものであってほしい」という欲求を多少なりとも感じることがありますよね。
自分の人生があまりにも平凡なものだと感じられてしまうとなんだかつまらない気がします。何か多少はおもしろいところや突出した光るものがあってほしい気がします。

特に現代のSNS環境では、いろんな珍しいことやすごいことをやっている人がかなりの頻度で目に入ってきます。そうすると、「世の中にはおもしろい人がたくさんいるのに、自分はなんておもしろくないんだ」と比較してしまうこともあるかもしれません。
特に若い頃、10代~20代はそういう気持ちになりやすいような気もします。
もちろん、それはそれで大いに結構なことだったりもしますよね。「独特な存在になりたい」という気持ちを原動力に、何か新しいことを始めてみたりするのは素晴らしいことだとも思います。
ひとつのことを続けるのも結構だし、新しいことを始めてはすぐ飽きてまた他のことを始めたりするのもよいでしょう。どちらの道もきっと何か自分の人生に豊かさをもたらしてくれるはずです。

しかし、「独特な存在になりたい」という思いが強いからと言って、むやみに奇を衒い続けることは必ずしも人生によい結果をもたらすとは限りませんよね。

 ※ 奇(き)を衒(てら)う:わざと普通と違う行動をして、他人の注意を引こうとすること

「あまのじゃく」や「ひねくれ者」、そして「逆張り」なんて言葉もありますが、程度にもよりますし、何でもかんでも王道を避けて珍しいことばかりやればいいってもんでもないですよね。若いうちはそうであっても、段々多少は緩和されてくる人が多い気はします。
自分もずっと独特な存在になりたかったですが、20歳前後あたりから「もっと普通になりたいよ~!」という思いの方がみるみる強まってきたところがあります。ただそれは、20歳くらいまでずっと「独特な(変な)存在でいたい」という勝負をかけ続けてきていたので、そろそろ変なことするのに満足してきたということでもあるのですが。

一方では、人生のある段階で、「独特な存在でありたい」という欲求を弱めていき、普通の大人になっていく、みたいな路線をとる人もいるでしょう。他方では、いくつになっても自分は特別な存在であると信じ続けられるように、独特なことをし続ける人もいるでしょう。
なんとなく前者はサラリーマン的な商業と結びつきやすく、後者は芸能や芸術関係の商業とよく結びつくようなイメージがあります。(イメージとしてちょっと単純すぎますかね)。
まあサラリーマンでもどこかでささやかな独特さを光らせながら生きることはできそうですが。

さて、「人生の独特さ」に対する欲求に関して、現在の私が考えているのは次の二つです。

まず、「凡庸でも尊いだろう」と開き直る路線はひとつありだと思います。
星野源「恋」に見られた「大きな意味なんてなくてもありふれた生活こそが、私たちにとっては唯一無二のものであり尊い」みたいな路線です。「確かに社会全体や歴史の中で見れば私の人生はありふれた出来事ばかりの人生なのかもしれない。だけど私がこの私の人生を歩むのは最初で最後、この一回だけなのだから、他の人生なんて関係ない。私がこの人生で歩む経歴や直面する困難、そのすべてが私にとってはひとつひとつ新鮮で独特なものなのだ。だから、他と比べて自分の人生がどれくらい凡庸か、独特かみたいなことは問題ではない」みたいな考えです。そう思えたらいいかもしれませんね。ある種の開き直りですが、発想のひとつとして持っておくのはありでしょう。

次に言いたいのが、「うまく独特さを感じられるようにライフストーリーを組み立てる」という路線です。例えば、私自身を例にとってみましょう。
まず私は高知県で生まれました。もちろんそんな人はたくさんいます。次に私は高校で弓道部でした。そんな人もたくさんいます。そして私は岡山県の大学で哲学を学びました。それもたくさんいます。私は千葉県の大学院に進学し、哲学を引き続き研究しました。それも多少はいるでしょう。そして私は神奈川県で建設業界に就職しました。建設業界で働いている人なんて無数にいます。さて、確かにこうした経歴のひとつひとつにフォーカスしてみると、私の人生には独特なところなんて一つもないように見えるかもしれません。
しかし、そこはうまく語ってみせるのです。私は高知という田舎に生まれましたが、地元に残る同級生も多くいる中で県外へ飛び出しました。岡山の大学では、哲学を学び、雑誌部と文芸部で編集長になり、研究と並行して雑誌と小説の制作に取り組みました。そして、大学院では千葉県に移住し、2年間の研究生活を大いに謳歌しました。大学院修了後、神奈川県で建設業界に就職し、総務兼施工管理として働いています。
大学院で研究した「物語論」の洞察を踏まえて、「よいストーリーを歩むことで人生に有意味さを見出せるようになるんだ」と考え、哲学科から建設業界へというユニークな道筋を辿ったのです。また、建設業界で真面目に働くことと並行して、好きなYouTuberに関するファンコミュニティで居場所ができ、10人~30人規模のオフ会を半年で4回ほど開催するなど非常に精力的に遊んでおります。
確かにひとつひとつはそんなに独特なものではないかもしれません。しかし、ストーリー仕立てで語ってみると、なんだかすごく独特でおもしろい人生を歩んでいるような気がしてくるものです。
それでいて、妙に奇を衒って上っ面だけで特殊な経歴をこしらえているわけではありません。大学ではちゃんと研究をがんばったので、何か身になるものはあったと自負しています。建設業界でもちゃんと真面目にがんばって働いています。少なくとも、多少一人前っぽくなるまではそう安々と辞めるつもりはありません。
このように人生の経歴をうまく繋ぎ合わせることで、多少なりとも独特なストーリーとして捉えることが可能だったりするのです。

地味な点ですが、「最近は転職も当たり前だよね」という風向きがかなり強いからこそ、私はかえって「安易にそう考えちゃって大丈夫なの?」と、逆張り精神込みで疑っています。少なくとも数年間はひとところで踏ん張って、何か知識や技術をしっかり身に着けたり、人間関係を長期的に良好に保つことのできる立ち回り方を覚えたりした方が、大人として大きくなれそうな気がするんだけどな…と思っているところがあります。
もちろん、他人の人生に口出しするのは憚られますが、少なくとも自分についてはそう思っています。「すぐ転職するのも当たり前だよね」という若者の間で強すぎるこの風潮に対して、無批判に流されたくないという思いがあるのです。
もちろん本来は、「定年まで同じ会社に勤めて当たり前」という旧来の常識に対するアンチテーゼとして「数年で転職しても当たり前」という新しい風が吹き始めていたのかもしれません。しかし、もはやこの新しい風は現在新たな常識レベルにまで来ています。私の逆張り精神は、この新しい風にこそ警戒心を発揮しています。「本当にそう安々と所属を移動して、自分は大きな大人になれるんだろうか…!?」と。こんな「古くさい」考えをもっていて、私はいつか痛い目を見て後悔する日が来るのかもしれません。しかし、そこはもはや勝負です。この逆張りの生き様で私が自分の人生をよい人生にできるかどうか、見せてやりたいと思っています。
まぁ、それは最優先事項ではないので、十分な理由さえ揃えば結局転職することはありうるでしょう。とにかくも新しい風潮に対して無批判に流されたくないだけです。

これが何か少しでも参考になれば嬉しいと思っています!


次の「7. 他人を非難することについて」は、人生の意味の問題からは少し離れてしまいます。
いま一番関心のあることのひとつだったので書いてしまいました。
休憩していただいてからでも構いませんので、元気がありましたら読んでみてもらえると嬉しいです。


7. 他人を非難することについて

私は人が「倫理的なことに対して敏感であるあまり、他人に対して攻撃的になっている状態」を見たことがあります。自分自身、友人、そしてSNS上の他人などにおいてです。
しかし、私は他人に対して攻撃的であることを極力辞めたいと強く願っています。つまり、私は倫理的なことに対して多少真面目であると同時に、他人を攻撃するための「牙」を抜いた状態でいることを目指しているのです。
非難に値するように思われる他者の行為に出会わざるを得ないこの人間生活において、私は自分たちの安全や利益をできる限り守りたいと考えると同時に、それでいて極力他人に対して攻撃的になりたくない、と強く願っているのです。
これはまだ思案中の事柄なので明確な結論はありません。しかし、現時点では何か「柔よく剛を制す」のような考え方にヒントがあるのではないかと考えています。

「柔よく剛を制す」とは、古代中国の老子の思想を基調に書かれたと言われる『三略』の中の有名な一節です。意味は「柔軟性のあるものが、そのしなやかさによって、かえって剛強なものを押さえつけることができる」ということです。

ホームメイト / 柔道用語「柔よく剛を制す」

なんか「大きな優しさでもってして、世の中の攻撃的なものを包み込んでうまく解決にもっていきたい」みたいな方向性が自分の中に基本あるんです。
あと「攻撃は最大の防御」という訓示もセットでよく頭に浮かびます。
私が言いたいのは「険悪な関係になる前に、積極的に友好的なアクションを起こすことで、争いを生むことなく、こちらの(/双方の)利益を守ったり、問題の芽を摘んだりできるようになりたい」ということです。
非難に値するように見える行為を見かけても、ただちに「非難」という攻撃をするのではなく、何か「友好」や「和解」や「笑顔」などそういったものを武器に攻め入って、双方のメンツを立たせたままにちゃんと自分たちの利益を守りたいのです。いつもそう思います。

そもそも基本的に「非難」という攻撃的/敵対的な行為で相手に刺激を与えること自体が、その相手を「攻撃的/敵対的態度」にさせるスイッチのようなものとして機能するはずです。
例えば、大声で「お前たちがこの花瓶を割ったのか!」と怒鳴ったとしましょう。その怒鳴り自体が、ただちにその場にいる人々を「保身」へと走らせるスイッチになることは容易に想像できるでしょう。人々は「私じゃない!」と口々に応対するでしょうし、中には保身のための強い態度として「そういうお前が自分で割ったんじゃないのか!?」と攻勢に転じる者も出てくるかもしれません。つまり、他人の攻撃性のスイッチを押さないためにも、まずこちらから他人を攻撃しないでおくことはポイントとなるはずです。たとえ相手が実際に花瓶を割っていたとしても、攻撃的態度以外の手段を通して目的(補償や再発防止)だけ達成したいです。
おそらく私たちの多くは、「この相手は非難に値する」と判断した途端に、その相手を攻撃することの「正当性」を自分たちが獲得したと感じがちです。(例えば、ゴミをポイ捨てする人を見かけた瞬間に、私たちはその人を叱りつけたり侮辱したりすることの正当性を獲得した気になる傾向にあるでしょう)。
しかし、大事なのはとにかく私たち(相手も含む)の安全や利益を守り問題を解決することなのであり、できる限り誰も攻撃せずに事を進める方法を模索した方がいいと基本的に思っています。
「保身」という基本原理を真面目に受け止めて、相手の「保身」をまず第一に尊重しながら、こちらの要求を飲んでもらうように話を進めていくのが目指したいやり方だなと思います。
私たちはもっと大きな度量でもってして、非難に値するように見える他人でさえも包み込んでしまうような仕方で問題を解決できるはずなのです。
みたいなことを最近よく考えています!
(まあポイ捨てについては注意してもいいと思うのですが。なんかわるいことして後に引けなくなってる人たちを見ると、たぶんそうした人のメンツを守りながら、とにかく問題行為だけは是正する方法を模索したほうがよさそうに思えることってあるんですよね。非難して、本人に非を認めさせて、他人を屈服させるようなやり方って、相手の抵抗を促すばかりに思えるといいますか)。

人生では実際にそういうやり方が通用する場面と、それが難しい場面の両方があるのかもしれません。しかし、とりあえず自分が基本的に目指すのはそういう方向性です。極力他人のことは攻撃せずに、やるにしても友好的アクションにより円満な解決を目指したいと思います。個人的に、険悪な関係が生む恒常的ストレスを何よりもきらっているからです。

具体的なエピソード抜きの抽象的な話で進めてしまって、わかりにくかったらすみません。自分の考えを整理するためにまとめた面もありますが、もし読んでくれた方にとっても何か示唆的なものがあれば本当に幸いです。


長い文章を読んでくださって本当にありがとうございます!!

おわり

(ちなみに今回ご紹介した考えを形成するにあたり私が一番影響を受けているのは、トマス・ネーゲルとアラスデア・マッキンタイア、そしてマーヤ・シェクトマンの思想です)。

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