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【エッセイ】「文学部は役に立つ」と言えるならそれに越したことはないと思う!~哲学科から建設業界に来た自分なりの戦い~


こんにちは!
みなさんは、「文学部って何の役に立つの?」だとか「文学部は役に立たないものであり、それでいいのだ」みたいな言説を聴いたことがありますか?
そういった語りに対して、何か意見や反応をもっていますでしょうか。
私は文学部と大学院に6年間通っていたので、それなりに熱い思いがあります。
別にブチキレたりはしませんが、熱さはあるので語らせてください!
読んでもらえると嬉しいです!

0. 「文学部は役に立たない」という言葉に関するSNSポスト

最近見かけたポストに以下のようなものがありました。
最初読んだとき、ちょっと思うところはありました。

これは「広く社会の役に立つかどうかではなく、私個人が満足するために文学部が必要だったにすぎない。だから人から口を出される筋合いはない」といった趣旨の反応だと思われます。
言いたいことはわかります。
(冷静に分析したらキレる気が失せました)。

本人による補足リプライも含めて読みたいポストですね。
これは、「文学部行く意味あるんだろうか」という疑念を抱えていた矢先、意外なことに文学部側から「文学は社会の役に立たない」ということを前提としたガイダンスが始まり「自分が悩む必要なかったんだ」と一安心した、といったことだと思われます。
(安心できてよかったじゃんと思います。そんなこと言ってくる教員が何を考えているのか、ポストからすべてを読み取ることはできないのでその不毛さが怒りを鎮めました)。

みなさんはこういった事柄について何か意見を持っていますか?
つまり、「文学部って何か役に立つの? 役に立たないんじゃないの?」という疑念、また「文学部は役に立たなくてもいいんだよ。あるいは、役に立たないからこそいいんだよ」といった開き直りに対して、何か思うところはありますか?

私は文学部に4年間通い、それから大学院に2年間通いました。
6年間、主に哲学・倫理学を専門として研究し、サブで社会学や文化人類学の授業を好んで受けてきました。
そして、大学院修了後は建設業界で現場監督として働き始め、もうすぐ3年目になります。

私は、文学部は役に立っていると信じていますし、それを証明したくて生きているような面が少なからずあります。だからこの問題に関しては多少熱い気持ちがあります。ただ、イライラするのが好きじゃないので、あんまり攻撃的なことは言いたくないです。
しかし、やはり熱い気持ちがあるので何かしらは語らせてください。

1. まず最大の誤解を解く

まずあらかじめ、声を大にして言わなければならないことがあります。

文学部とは「文学(小説や詩など)について"のみ"研究する学部」というわけではありません!!

私の通っていた大学でも、文学部には様々な分野が含まれていました。
例を挙げると、哲学、芸術学、心理学、地理学、社会学、歴史学、考古学、言語学、文学などです。

「文学」学部ではないのです。
どちらかと言えば「人文学」学部なのです。

個人的な見解ですが、「人文学」の研究対象は大きく言えば「人の営み」全般だと思います。これまで長く続いてきた人類の歴史の中で、社会制度、文化、芸術、思想などは様々な姿を見せてきました。そうしたものを適切に蓄積、解釈、発信していき、何とかよりよい未来へと繋げようとしているんだと思います。

たまに誤解されているのでこれは第一に言った方がいいと思い、書かせてもらいました。繰り返すと、文学部とは「文学(小説や詩など)について"のみ"研究する学部」というわけではありません。広く「人の営み」全般を研究対象にしていると思います。

2. 次に問いかけてみる

あなたは思想、芸術、社会制度、心理学、歴史学などが人々の役に立っていないと思いますか…?

思想や社会制度について考えてみましょう。
「まっとうな理由に基づかず著しく権利を侵害するのは不当であるから、やめよう」という考えがあります。
例えば、人類には「黒人である」という理由で身体の自由や財産をもつ権利、生きる権利が認められていなかった歴史があります。他にも、たとえ成人であったとしても、「女性である」という理由で参政権が認められていなかった歴史が日本にもあります。それは正当な理由に基づかない区別、すなわち差別です。
私たちの住む社会は、「基本的人権」などの概念を発明し、多くの人々の考えを動かし、社会制度を変革し、より公正な社会を目指して変わってきているはずです。
(「基本的人権」とは、「国や王が人々に人権を与えてあげている」という考えではなく、「そもそも万人に人権が備わっているのであり、国家は万人の人権がちゃんと守られるようにがんばらなければならない。人権を守れていない法律を修正したりすることで」みたいな考えです)。
こうした変化は、私たちの役に立っていると思いませんか…?
また、そうした歴史を全然知らない人たちが大半の社会よりも、それなりにちゃんと把握している人たちが多めに居てくれた方が、今後も社会が道を誤らずにいい方向へ向かってくれそうだと思いませんか…?

もうひとつ、私が覚えている人類の思想的な変化は「障害の社会モデル」です。
WHOなどの国際的な機関が、「障害の個人モデル」から「障害の社会モデル」への転換を提唱したと記憶しています。
一方で「障害の個人モデル」とは、「障害は個人が抱えている不調である」みたいな考え方です。つまり、「脚が不自由である」ならば、「脚の障害がある」みたいな考え方です。
他方で「障害の社会モデル」とは、障害を「個人の不調」と「社会の状況」の二つの要素によって成り立つものとして捉える考え方です。つまり、「脚が不自由である + 脚が不自由であるというだけでまともな社会生活を送れないような生活環境になってしまっている」という二つの条件が揃うことで初めて脚の障害者が生まれるという考え方です。逆に言えば、「別に多少脚が不自由な人であっても他の人たちと同じように暮らす(=働き、消費し、社交する)ことができるような生活環境を作ることができれば、この社会において脚の不自由さはもはや障害ではなくなる」(だからこの社会のあらゆる場所で段差減らしてスロープ増やそうよ)という考えだと思います。ある人を障害者にしてしまう「段差」などの「障壁(バリア)」をなくすから「バリアフリー」と呼ばれるわけです。
そして、日本を含む国際社会はこうした「障害の社会モデル」を採用・提唱しました。つまり、「これからも健常者向けの社会を維持し、障害者には ①健常者になることを目指してもらうか、それが無理なら ②みんなの輪の外で暮らしてもらおう」という方向性を辞めて、「健常者だろうが、不調を抱えた個人であろうが、誰であっても同じ輪の中で健やかな社会生活が送れる社会にしていこうよ」という方向性を目指すことに決めたのです。

こういうことを知らずに生きるよりは、知ったうえで社会に出た方がなんかよさそうじゃありませんか…?
もちろんこういった内容って高校生でも習う範囲かもしれませんし、大学のどの学部であっても「一般教養」で習う内容かもしれません。しかし、こうしたことについて一番熱心に研究・発信しているのはおそらく人文科学系の学部のはずだし、こうしたことを研究・学修する機会が一番多いのもおそらく人文科学系の学生のはずです。(本当は教育や工学、環境系の学部もそうかもしれません。そこは今後も連携してがんばりましょう)。
そうした学部の存在って、本当にこの社会の役に立たないと思いますか…?

3. 最後に主張してみる

私は次のいくつかの観点から、「文学部は役に立つ」と主張したいです。

大学の機能は主に二つのはずです。研究教育です。
第一に、文学部の研究成果は社会の役に立つ、と主張したいです。
第二に、文学部は教育機関としても役に立つ、と主張したいです。
そして最後に、文学部は個人の人生の役に立つ、と主張させてもらいます。

① 文学部の研究成果は役に立つ

文学部の研究成果は社会の役に立つ、と主張したいです。

文学部は哲学、芸術学、心理学、地理学、社会学、歴史学、考古学、言語学、文学など幅広い人文学系の研究をしています。そうした分野の蓄積や発信は、この社会をよい方向に持っていくために役立ちうると思います。文学部は「ここは過去・現在どういう社会で、今後どういう社会になっていくべきなのか」といった問いに取り組んでいるんだと思います。
私たちは「ここはいったいどういう社会なんだ。あと私たちは何をやって生きていったらいいんだ」という問いに日々直面しているような気もします。社会制度や消費システムなどが気づいたらよく変わっていますが、私たちはそういうものに振り回されたり、多少はこちらからも働きかけたりしながら生きていくわけです。
私たちはどういう社会を生きていたいのか? また、この社会の中でどういう立ち回りをして生きていけばいいのか?」。そうしたことを考えていくうえで、文学部の研究内容は役に立ちそうだなと私は思うのですが、あなたはどう思いますか…?

②文学部は教育機関としてこの社会の役に立つ

文学部は教育機関としても役に立つ、と主張したいです。
一応、ちゃんとした文学部に入れば、どんな学科であっても、過去の研究の蓄積から知識や技術を身につけ、ちゃんとした方法で研究し、ちゃんとしたことを言うための訓練を積むことになるはずです。
そういうステップをちゃんと上がっていくことができれば、それなりにちゃんとした大人が育ちそうなものですよね。

あとは別の論点として、人文科学的な事柄を学習した人がたくさんいた方がよさそうじゃありませんか、と言いたいです。
芸術、心理学、言語学など、広く「人の営み」に精通した大人がいることは社会にとっても有益な気がしませんか。
この社会には、コンピュータに詳しい人、電気に詳しい人、遺伝子の仕組みに詳しい人など、いろんな人がいてほしいです。病気や怪我を治せる人や、子どもを適切に育てられる人にももちろんいてほしいです。しかし、そうした人々の中に、アジアの戦争の歴史に詳しい人や、外国の文化に詳しい人がいることは望ましいことだと思います。
就職すると、特定のサービスや製品をこの社会に提供するために組織の一員として働くことになります。組織の構成員の中に、人類の思想史や建造物のデザイン史に詳しい人がいたら、組織全体としても何か視野が広がりそうだと思いませんか…? 何が破滅への落とし穴になるかわからない時代です。組織構成員の背景の多様性は、組織全体の身を守ることに繋がるかもしれないと思います。

③ 文学部は個人の人生の役に立つ

文学部は個人の人生の役に立つと主張したいです。

まず、人生が豊かになります。
私が学部時代に受けた芸術学の授業では、表現史的に重要な映画を見て、先生の説明を聴き、感想を書き生徒間で発表し話し合うみたいな授業がありました。
中国文学の授業では、「小説なんてものは低俗で詩こそが高尚」とされていた時代の中国における「小説」を学ぶ授業がありました。
そうした授業を通して、いろいろな知識やものの見方が刷り込まれていくわけですが、それから大人になっていろいろな作品と出会うと、きっと見えるものが違ってきますよね。私は作品の中に含まれる重要なメッセージをちゃんと受け取れる大人になりたいです。

次に、シリアスな問題に向き合う訓練ができます。
学部の社会学の授業では、「人工妊娠中絶」というテーマ一本で半年続く授業がありました。
「人工妊娠中絶」と「障害」には密接な関係があります。出生前診断によりお腹の中の子に重度の障害があるとわかったとき、私たちはその子を絶命させるでしょうか。それともしないでしょうか。現在の日本では、妊娠してからある期間までは実質的に違法でない仕方で絶命させることができるようになっています。
遺伝など抜きにしても、胎内の赤ちゃんがダウン症である確率はおよそ0.0014%ほどだそうです。
障害のある子どもはこれまでも生まれ続けてきたし、これからも生まれ続けますそうした子どもたちの存在は人類にとって当たり前なのです
自分や自分の兄弟姉妹、友人などが重度障害のある子をもつという未来は訪れる可能性があります。そうした事態に直面してから悩み始めるのも結構ですが、20歳前後の若くて、当事者として壁にぶつかっていない平和な時期に専門家の先生や年齢の近い学生たちとそうした問題に取り組むのは、無駄にならない気がします。
正直、生活の中でシリアスすぎる話題はできれば避けたい気持ちもありますが、いずれ直面してしまう可能性があるのなら、多少はあらかじめ考えておくことも意味はありそうです。

大学院で出会った先生は、「最近主に医学業界や俗世間で『認知症予防』ばかりが喧伝されるが、『認知症になったら終わり』かのようなメッセージがいたずらに社会に蔓延するのは好ましくない。認知症になってからも幸福に生きられる道を社会全体で探っていく方向を開拓したい」といった思想の持ち主でした。

社会学の人工妊娠中絶の授業では、「障害があっても健やかに生きられる社会を作ろう」という方向性と、「障害のある胎児を発見して人工妊娠中絶をすることが可能」という方向性が葛藤を起こしている、という話を聞きました。「社会で障害者を受け入れよう」としながら「この社会に障害者を増やさないようにしよう」とすることは矛盾しているように思われるからです。

私は思いました。認知症も知的障害も身体障害も、治したり防いだりできるのならそれに越したことはないはずです(苦痛や不自由は少ない方がいいから)。よって、病気や障害のわるさを和らげるための研究は、私が言うのも変ですが、今後とも大いにやっていただきたいです。(医学部が役に立つことを疑う人はあまりいません)。
しかし、障害がある人もない人も健やかに暮らせるような社会を目指すこともまた重要なんだろうと思います。
いまはまだ綺麗事(=実現が容易でない理想)を言うことしかできません。しかしそれでも、文学部では「これから社会に出るにあたり自分はどのような綺麗事(理想)を持てばよいか」を真剣に考えるための時間を過ごすことができました。それは私にとって意味のある時間だったと思います。

④ 文学部は少なくとも私の役に立っている

文学部の授業内容は本当におもしろいものが多かったです。
授業を受けること自体がおもしろいですし、授業内容が今後の人生の役に立つこともあると思います。
つまり、文学部は私の役に立っています。そして、私はこの社会の一員です。文学部がこの社会の一員の役に立っている以上、文学部は部分的に社会の役に立っていると言えます。
そして、私のような例は無数にあることでしょう。
私と同じように、興味のある授業を受けたり、興味のある研究に取り組んだりして、豊かな時間を過ごした人は少なからずいるはずです。そうした人たちのひとりひとりが、この社会の一員です。
では、やはりそこでも文学部がこの社会の一部で役に立っていると言えると思います。
私もあなたも特別ではないのです。ただ一個人です。文学部がそうした一個人の人生に役立つとすれば、それは意義深いことだと思いませんか?

4. 「文学部は役に立たなくていい」という開き直りは、痛み止めくらいにはなる

実際、文学部で過ごしていると「文学部って役に立つの?」と言われることもあるかもしれません。また、言われなくても幻聴のように自分の頭の中で響いて悩まされるということがあったりします。
そうしたとき「文学部はそもそも役に立たないものだ。それでいいんだという開き直りが勇気を与えてくれることはあるでしょう。ストレスを緩和するのは生活上本当に重要なことです。
しかし、私はできれば文学部の意義深さを信じたいです。実際に意義深いことをやっているんだと信じられた方が、一時しのぎでなく、より持続的に健やかに生きられると思います。

そして、文学部は実際意義深い存在であるはずなのに、その意義深さを覆い隠してしまうかのように「文学部は役に立たない」とむやみに言いふらされると、私は悲しい気持ちになります。特に文学部の人が進んで言ってしまうのを見ると私は惨めな気持ちになります。

文学部に詳しくない人は「もし役に立つんだとすればそれはどのようにしてかを教えてくれよ」という気持ちで素直に聞いている面もあるかもしれません。「文学部はこれこれの仕方で役に立っているところがあるんだよ」と真正面から答えられるならそれに越したことはないように思います。

もし文学部に通っている学生さんがいたら、「この授業やこの研究が何の役に立つんだろう」と考えてみてほしいです。「社会にとってどういう意義があるんだろう」だとか「私の人生にとってどういう意義をもちうるだろう」ということを考えてみてほしいです。
私は必死で考えていました。
「どう役に立つんだろう」とも考えていましたし、「この授業内容を意地でも人生に活かしてやる」くらいの気概をもっていました。
自分たちの学習や研究を、自分たちの生活に活かす方法がないか考えてみてほしいです。
「文学部は役に立たなくていいんだ」と開き直るのももちろん結構ですが、「もし役に立ちうるとすればそれはどのようにしてか」を考えるという道も選んでみてほしいです。多少はハードな道かもしれませんが、自分たちのやっている研究に意義深さが感じられるようになると、すごくおもしろくて楽しいです。

私は自分なりの仕方で、自分の研究を自分の人生に接続してしまいました。おかげで自分の人生がすごくおもしろいものに思えて仕方がありません。


5. 私は自分にとって文学部を意味あるものにするための戦いを続けている

私は哲学を専門に6年間の研究生活を終え、建設業界に就職しました。
この意味については語りたいことがたくさんあります。ひとまずいま言えることをいくつか並べさせてください。

まず「ずっと自室や研究室で本ばかり読んで、世界や人間の本質についてずっと考えてきて、頭の中の世界や自尊心ばかりが肥大化し、それに反比例するかのように年齢は低く礼儀もなっていない自分のような人材が、社会に出て通用するのか?」という疑念が自分の中でありました。
そして、「通用するようになりたい。変わりたい」と思っていました。
それで、変わりたくて建設業界に入りました。
(ちなみに上述の「疑念」のような自己攻撃は社会人になってかなり辞めました。これもすでにいい変化です)。

社会学や哲学を学んでいると、正義や倫理に関する観念がだいぶ仕上がってきます。社会や個人に対する怒りの感情が育ちやすいきらいさえあります。
私はイライラするのが嫌でした。なんとか人々のことを受けれながら生きていきたかったです。
特定の倫理観に閉じ籠って、その倫理観に照らして許容できないものを激しく攻撃するような習慣から脱出したくてたまりませんでした。
それで、自分を揺さぶりたくて、これまで関わってきたのとは全然違うタイプの人が多いであろう建設業界に入りました。

私は大学院で「アイデンティティ」と「人生の有意味さ」、そして「物語論」と呼ばれる立場について修士論文を書きました。
論文の結論としては「うまい自己物語を作ることで、有意味な人生を生きよう」みたいな主張をしています。納得できるライフストーリーを語ることで、人生に満足しながら生きようみたいなことです。
私は、哲学を6年間やったにも関わらず、哲学とは無関係な業界に就職しました。これだとふつうは自己物語は断絶してしまいます。
これがもし「哲学を研究したから、その後哲学の教授になった」などというストーリーを歩めていたならば、話は簡単だったでしょう。
しかし、「哲学を6年間やったのに、現場監督になった」というのが私の人生の現状です。これを聞いた人は「現場監督になるんだったら、わざわざ院まで行って哲学をやる意味はなかったのではないか」と思うかもしれません。自分自身この考えに陥ってしまうことを避けたいわけですね。
ですから私は、いかにしてこの断絶を繋ぎとめるか、有意味なストーリーを編み出すかに関心があるわけです。
つまり、私は「文学部に行ったこと、哲学に6年間取り組んだことを有意味なものにしよう」という人生の戦いに興じ続けているのです。
「哲学を6年間やったのに、現場監督になった」と言ってしまうのが自然かもしれない現在のライフストーリーを、数年後には「哲学を6年間やったうえで、あえて現場監督になってみたところ、人生がこんなにおもしろいことになってきた」と語れるようになりたいと考え、いまひとつひとつ目の前のことに真剣に取り組み、仕込みをしている段階なのです。

文学部に行ったことが私の人生にとって有意味だったということを証明することは、私にとって重要な関心事です。

だから、私はしばらくの間文学部やその研究内容について語り続けるでしょう。
今のところ、人文科学的な内容については6年間の勉強がすべてで、就職してからはろくに本を読んでいません。むしろ建設業界のとある資格試験を受けたりしています。(ひとまず二級には合格しました。やったー!)。しばらくはこの新しい業界でできるところまでがんばってみようと思います。建設業界の監督として一人前に働けるようになることを目指して邁進していく所存です。
また、「現代日本社会のサラリーマン」というおもしろい役割演じにかなり真面目に取り組むつもりです。奇を衒ったことが大好きだったあの自分が、進んで「普通の人」みたいになっていっているその過程がおかしくてたまらないです。自分の思う「普通の人」みたいになっていった方が、自分に満足して暮らせそうだと真剣に見込んでいるからです。
そして、いつしか「文学部で学生として身につけてきたもの」と「日本の建設業界で社会人として身につけてきたもの」を統合して、「こんなに人として大きくなったんだぞ」と思えるようになりたいです。自分にとっておもしろく思える自己物語を編む予定です。そうして自分にとって満足な人生に仕立て上げていきます。そういう意志です。

私には「自分は文学部で研究してきた人だ」という自己認識が強くあるようです。それがプライドの全部みたいになるのがいやでした。文学部では6年間過ごしましたが、建設業界で6年以上過ごせば「自分は建設業界の人間だ」という自己認識も強まってくるかもしれません。そうしたとき、私のアイデンティティはどうなっているのでしょうか? こうした自分のアイデンティティに関する実験に自分の人生を使って取り組んでいるような気持ちがあります。
この意味で、私の人生は自分の研究の延長線上にあります。大学院で研究した「アイデンティティ」や「自己物語」、「人生の有意味さ」といった概念をいかに自分の人生でうまく活かしていくことができるか、という段階に入っているイメージです。
このように私のキャリアはある意味で研究の延長線上にあります。これもまた、私が文学部で学んだことを有意味なものにしていくための戦いの一部です。

とにかく私は「自分はこういう人間だ(文系学部出身、日本人、男性だ)」という自己認識が凝り固まってきて、そのプライドを守るためにいろんなことにムキになったりするのがいやなんです。
自己認識においても自由でいたいという思いが強くあります。
そういうわけで、自分のアイデンティティに揺さぶりをかけたくて建設業界に来たところもあるのです。

今のところこの業界で院卒の監督にはひとりも出会っていません。
建設業界だと自分みたいなインドアっぽいタイプは多少珍しいかもしれません。
そうすると、独特な存在でいられるんですよね。
建設業界って良くも悪くも世間のイメージや偏見通りの人が割と多いです。「落ち込むなってがっはっは!」みたいな感じというか。最終学歴の低さや喫煙率の高さもイメージ通りです。
院卒というだけで頭いいみたいな先入観を持たれて、簡単にはぞんざいな扱いを受けずに済んでいる感じがあり、それはありがたいです。

最初は馴染むのに苦労して、退職の危機に3回くらい追い込まれました。それでも「いまの会社が気に入っていたこと」と「退職や再就職の仕方がよくわからず不安だったこと」を主な理由として退職の危機を無視し続けました。1年半くらい経ってからやっと自分の居場所ができたような感じがあります。やはり変な道を歩むとちゃんと苦労しちゃうものですね。(というか名実ともに社内最大の権力をもつ人物から目を付けられて長い間ひどい目に会っていました。社員の人たちは私を見捨てず支えてくれていました。ありがたいです)。
けど耐え抜いてよかったと思います。逃げ出していたら惨めだったことでしょう。別に心も身体も壊してないので失ったものは特に見当たっていません。最近では代表取締役含むいろんな人からの評価が上がってきていて、自分を信じてここまでやってきてよかったと一安心しています。
私自身について「実は一番根性あるんじゃないかと思ってる」と言ってくれた同僚もいました。

私は「哲学科から建設業界へ入ったという人生の経歴に関して、よい自己物語を作りたい」という個人的プロジェクトを抱えているとも言えます。この個人的プロジェクトを抱えているおかげで、きつかった社会人一年目を耐え抜けたところがかなりの程度あります。
もしあやふやに生きていたならば、簡単に投げ出してしまっていたかもしれません。
しかし、私には自分の人生で描きたいストーリーがあったので踏ん張り、耐え抜きました。
もちろん、ままならない人生で自分なりのストーリーに固執しすぎるあまり、かえって道を誤ることのないように気を付けたいとは思っています。
しかし、今回のように自分のストーリーにしがみつくことで、つらい時期を耐え抜きその先に光明が差してくる場合もあるようですね。
院生時代に「自己物語」について研究できてよかったなと心から思います。

働き始めてから、私は学生時代に比べて落ち込むことが著しく減りました。そうじゃないと生き抜けないから、必要に迫られる形でうまく環境に適応したんだと思います。ひどい目にあったときはきついですが、それ以外のときはおもしろいほど幸福です。
学生時代の慢性的な苦しい感じは思い出すのも難しいほどです。意識ある限り続いていた自己批判や自己嫌悪をきっぱりやめることに成功したのが決定打でした。これは素晴らしい変化のひとつです。この点については正直業界を変えてよかったと思っちゃってます。


【就職について】

大学には、就職へのキップを掴みにやって来る人もたくさんいます。
医学部に入って医者になる人。
工学部や理学部に入ってプログラマーや企業の研究員になる人。
教育学部に入って小学校の教員になる人などです。
その一方で、文学部は学部と職業との結び付きが比較的弱い方だと思います。あるとすれば主には図書館の司書や学校教員くらいでしょうか。
だから、「就職のために大学に入る」という観点を重視している人(特に高校生に多いイメージ)からすれば、「文学部に入っても何にもならないのではないか」と考えてしまうのも無理はないかもしれません。
もちろん、大学での勉強を就職に繋げるのもすごく大事なことです。大学は確かに「進路」という道の一部でもあるとは思います。
しかし、大学の役割はそれだけではありません。文学部に限らずあらゆる学部が、その学習や研究の過程で学生たちにいろいろな大事なことを教えています。その度に学生たちは少しずつ人として成長していっています。私もいろいろな大事なことを学びました。この記事ではその一部を紹介させていただいたつもりです。
あとひとつ言っておかなければならないのは、文学部以外の人であっても、学科と関係のない業界へ就職する人はたくさんいるということです。特に私の周りだと、学部とは無関係に「システムエンジニア」や「公務員」になる人が本当に多かったです。それが端から見れば「挫折」として映ることはあるのでしょう。しかし、人の人生はそう単純ではなく、実際にはもっとおもしろい内容を含んでいたりもするのです。

だから、個人的な思いを言わせてもらうと、大学では「自分の興味のある勉強」をしてもらいたいと勝手ながら思っています。もし高校生の方で進路に迷っている人がいれば、大学のパンフレットとか見て、自分が「そそられる」ものに近づいていってもらいたいです。生き様は人それぞれですが、私はそう言いたいタイプです。あなたの人生があなたにとってより満足度高くなりそうに思われる進路をよく考えてみてほしいです!

私はとにかく「人」について知りたい思いが強かったので、人の営みについて勉強できそうな文学部に入りました。「自分たちはどういう存在で、この足がすくむような世の中でいったいどうやって生きていけばいいの!? それをもっと知りたい…!」という思いが強かったです。だから、文学部の授業内容は私の関心に合っており、どれも本当におもしろかったです。

仮に就職のために学部を選び、そこで特定の資格を取り、それと関係した業界に就職したところで、結局それで私は本当に幸せに生きられるのか? ということが不安でした。
高校生の頃の明確な職業選択の意志もない中で自分が適当に「えいや!」と選んだようなキャリアパスに対して、今後の人生で長い間責任を負う覚悟なんてありませんでした。
しかし、将来的に人間として人間社会の中で生きていくということだけはほぼ間違いないだろうと思っていました。将来何か特定の業種に就くのでしょうが、「人間として、他の人間たちと関わりながらこの社会を生きるのだろう」ということは疑っていませんでした。
だから、人や社会について見識を深めておけば、何か力強く生きられるのではないか、そう考えていました。
つまり、文学部での勉強はある意味で「潰しが効く」とも言えるのです。
「手に職」みたいなやつはあまり得られないかもしれません。しかし、「幅広い見識」や「一般性のある思考の枠組み」は獲得できるはずです。私はそれがほしかったのです。
私は哲学を専門に取り組むことで、「過激でキャッチーな結論に安易に飛び付かず、より穏当だと思う結論を求めて辛抱強く考え抜く知的体力」を少し身に付けられたように思います。それは一番ほしかったもののひとつです。どこに行ってもきっと自分の力になってくれるはずです。


理工系や医療系の人たちに対する強い対抗意識はないです。
バカにされたらいやな思いはするからやめてほしいですけど、理工系や医療系の研究成果や方法に立派なものが多く含まれるのは、世の人々が認めてくれていると思います。理工系や医療系に進学する人たちも、難しい勉強とかしてきたんだと思います。すごいと思います。誇りをもつのはいいことです。「誇り」と「若さ」がわるい感じで結びついていやな人になっちゃうともったいないので、できたらみんな仲良くしましょう!
研究とか仕事とか大変だと思うけど、同じ社会の一員として一緒にがんばっていきましょう!という気持ちです。


以上になります。

ここまで読んでくれた方はありがとうございました!!
楽しんでくれてたら嬉しいです!!

おわり




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