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坪売り17

岸部からのメールは他愛もないものだった。転職が落ち着いて半年近くが過ぎた事、会社に対しては申し訳ないが後輩の面倒を見きれなかったお詫びと近況の報告といった内容だった。

しかし山本は迷いに迷った。

このタイミングで岸部からメールが来ること自体が何かの罠なのではないかとも感じた。しかし、メールアドレスは会社のドメインからきている。この事態を知っているのかそうではないのか・・山本には判断できなかった。

これ以上濡れ衣を着せられたくはないが、会社に対して気持ちが覚めてしまった今、岸部とコンタクトした事実が明らかになってクビになっても仕方ないと諦めの気持ちもある。

迷いにまよった挙句、山本は

件名:RE:ご無沙汰しております
岸部さんごぶさたしております。あれから会社も様々な事がありまして少々社内体制にも変更がありました。岸部さんのおっしゃる通り会ってお話できることもあると思います。つきましてはご連絡について
○○○@t.vodafone.ne.jp でご連絡でも良いでしょうか。
勝手申し上げますが、よろしくお願いします。

と返信した。これで返信がこなければそれまでだし、あとはメールの送信履歴を消して何事もなかったようにするしかない。

しかし、その数分後山本の携帯にメールの着信を伝えるバイブレーションがあった。山本の心配は杞憂に終わったのだった。

待ち合わせは山本に気を遣ってくれたのか小田急線への乗り入れも簡単な新宿であった。金曜日の夜、西新宿の高層ビルの最上階レストランフロアで落ち合おうという事にとんとん拍子で進んだ。

待ち合わせの金曜夜であった。新宿の高層ビルで食事というのは初めてだった、以前は岸部に誘われるのは小伝馬町の居酒屋であったのでその差に驚く。高層オフィスビルの49階にエレベータであがるとそこはオフィスビルに似つかわしくないレストランフロアであった。指定された和食居酒屋に入って岸部の名前を告げると店員が岸部のもとへと案内する。

どうやら高層ビルではあるが、そこまで気を張るものではなく以前の小伝馬町の居酒屋とそれは雰囲気は似ていた。仕事帰りの会社員やカップルのデートだろうか店内は薄暗い照明ではあるが活気ある光景だった。

岸部の席に向かうとそこには岸部一人だった。グランドオフィスのメンバーがいたらどうしようかという心配はまず、なくなった。

「おう、久しぶり!元気にしてたかい?」

岸部は元気そうだ、少し色が浅黒くなったが変わりは無い様だ。乾杯を軽く済ませて食事を適当に岸部が頼む。スタートは誰でもビールジョッキというのがグランドオフィス流である。

「最近はどうなの?結構良い感じで営業できるようになった」

「はい、おかげさまで少しづつ案件が成約できるようになって、先日ついに初めて100坪を越える案件を1件成約できました・・・しかし社内は結構人も少なくなって大変で・・」

「あーなんとなく聞いてるよ、ミヤさんもトクさんも辞めちゃったんだって?『ビルネ』に行ったっていうのは情報入ってるけど・・」

「え?ビルネに行ったんですか!!・・・そうなんですね。そんな話一切聞いてなかったので同業じゃないと思ってました」

「業界狭いからね、前にも言ったけど一度『坪売り』になったら中々業界から足を洗えないよ。動かす金額も大きいし、それなりに業界経験があればフィーも高い」

(ビルネというのは『ビルディングネットワーク』という、業界御三家の次に名前の挙がってくる仲介会社である。新卒も中途も積極採用をしており今伸びに伸びている・・・その反面顧客やビルオーナーへの押しが強い営業が話題にもなっており業界内でも賛否ある)

「結局、坪売りは坪売りさ」

「そうなんですね。皆さん業界に転職されるものなんですね」

「そういうもんさ。ところで今グランドオフィスの人が大変だって聞いてるけど大丈夫なの?人も少ないし何やらメールでも込み入った状況だったじゃん」

山本は迷いに迷ったが、現在の状況と先輩たちが業界内の企業に引き抜かれている現状について多少の不安があったので、今回の騒動を一部始終話した。もちろん先輩であっても今では他社の営業マンであるから重要な点はいくつかぼやかしながらではあるものの・・・

「なるほどな、そういう事か」

岸部は何やら納得した表情でうなづいた。




主にオフィスに関する不動産知識や趣味で短文小説を書いています。第1作目のツボ売り、それ以外も不動産界隈の話を書いていければ良いなと思っています。 サポート貰えると記事を書いてる励みになります。いいねをしてくれるだけでも読者がいる実感が持ててやる気が出ます