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「彼らが本気で編むときは、」 - 自分は何者か、を考えて一周できる映画 -|Webディレクターの映画鑑賞備忘録 (ネタバレなし)

突然だが、僕は「自分が何者であるのか」と考えたことが、ほとんどない。
まったく突然も突然だが、さらにそこに「身も蓋もない」を加えると、こうなる。

「だって、両親が子供が欲しいと思ってセックスしてできただけだから」

なんとまあ身も蓋もない。
けれども、これが僕の偽らざる本心であって、無理にそう思っているわけでもない。

「自分が何者かなんて、どうだって良いじゃん」

と、思っているわけですよ。
いや、もっとはっきり言うと「自分が何者かなんて決まってたら嫌だ」とすら思っている。だって、もし決まってたならば、その通りに生きなければならないわけじゃないですか。

幸いにして僕はおでこに竜の紋章が光ったりすることもなければ、親が光の巨人と同化していたマンだったということもない。もちろん、怒りがある点を超えると金髪になることもない。
いやまあ、腹が立ったことを理由に金髪にすることはできるけど、それは何らかの薬品を髪に塗りつけて30分ぐらいボーッとする必要があるという、まことにダサい変身過程を経る必要があり、そしてべつに50倍の戦闘力を得るわけでもない。

だが、人間はそれでいいじゃんと、僕は思っているわけです。

むしろ大変ですよ。ある日、朝起きたらおでこに竜の紋章が光っていたらね。どうすんねんと。ピカァアアアアって光られてもおまえ、とりあえず現代文明としてライトは事足りてるぞと。何ならスマホでもライトになっちゃうわけで。

いや、仮にそこが戦乱の世で、なんドラーとかなんちゃらバーンとかいう恐ろしく強いオッサンやジイサンがいたとして。戦わにゃならんわけですよ。竜の紋章が光っとるんだから。こええっつうの。

「自分が何者であるのか」なんてものがあるとしたら、それは自分の生き方を誰かに決められてしまうってことだと思っていて。そんな恐ろしいことあるかいなと。だから、「べつに何者でもない、でいいじゃん」と、思うわけです。しいていえば「自分は自分です」というだけで。

ところで、僕は職業が「Webディレクター」なんですけども、ときどき「Webプロデューサー」と呼ばれたりする。そして、同じくらいときどき「toksatoさんて、Webディレクター?プロデューサー?どっちでお呼びしたら良いですか?」と聞かれたりする。

僕としては、そんなものどっちでも良い。好きな方で呼んだらよろしいがな、と思っている。思っているが、この質問によってひとつ気づくことがある。

「Webディレクター?プロデューサー?」という質問は、言ってみれば「(職業において)あなたは何者なのですか?」と問われているわけで。それはつまり「あなたのことをどう捉えたら良いですか?」という、これはまちがいなく「あなたのことを理解したい」という意思の表れで。

理解するには、名前が欲しい。
いや、正確には「"すでに認知された特定の"名前が欲しい」だろうか。
自分が何者であるのかなど本質的には不要で、好きに生きたら良い。けれども一方で、僕らは社会のなかで生きていかねばならず、それはつまり「社会に理解してもらう」必要がある。そのとき、「わかりやすい何者かであること」はすごく重要で、それは「社会への溶け込みやすさ」を意味するのだろうと思う。

たとえばそれは「Webディレクター」という職種名であったり、それだけじゃなく、僕には「男性である」ということも、「会社員である」ということも、「(誰かの)息子である」ということも、すべてそれに当たる。もしかすると「サッカーファンである」ということも、実はわかりやすい「名前」なのかもしれない。

そして、ともすれば"レッテル"とも呼ばれるそれは、たしかに持っていること自体が幸せなのかもしれない、と思うわけですよ。
僕が、「何者だっていいじゃないか」と言っていられるそれ自体が、実はこの社会においてとても幸せなことで、そして運が良いのではないかと。

なぜそう思ったのかというと、この映画「彼らが本気で編むときは、」に出てくる「リンコさん」は、おそらくそうではなくて。

生田斗真演じるそのリンコさんは、トランスジェンダーの女性で、身体は"元"男性で。"セクシャルマイノリティ"と言われるその人を演じているのだけど、これがもう圧倒的に美しい

仕草、立ち振る舞い、喋り方、そのすべてが女性的であり、でも完全な女性のそれでもなく、ただ、とにかく美しいと、僕は思ったわけでして。

「完全な女性のそれでもなく」というのは、女性と見間違ったわけではないから。生田斗真が演じてるのもあり、やはりガタイが良い。骨格のそれは間違いなく男性的なもので、完全に女性に見えるかというと、そこまでではなく。明らかに男のガタイでありながら、どこかすごく女性的で、でも、いわゆる気持ち悪さはないのです。むしろ、本当に美しくて。

だから、桐谷健太演じる彼氏の「マキオ」がリンコさんに一目惚れしたのも頷けるというか。うん、おそらく、僕も同じように彼女に惚れてしまうかもしれない、と。

この物語は、マキオの姪っ子である11歳のトモ(柿原りんか)が、母親に部屋で置き去りにされるところからはじまる。有り体に言えば「ネグレクトを受けた小学生」のトモが、叔父のマキオに預けられる、そんな話。

しかしそこには、トランスジェンダー女性のリンコがいた、と。

女性らしさを持つリンコと、11歳という「人生最初の"年頃"」のトモ。リンコがどういう対応をして、トモがどういう態度を取るのかは、割と想像の通りかもしれない。

想像通りかもしれないが、とにかくリンコは優しくて、トモを圧倒的なその母性で包み込み、トモはやっぱり"母性"も"母親"も恋しくて、寂しくて。だから想像通り。でも、その想像を生田斗真の演技は軽々と突破してみせる。

インタビューによると、監督の荻上直子は生田斗真と初対面したとき「思ったよりずっとガタイが良いことに絶望」し、生田斗真自身も、本当にリンコをリンコとして演じられているのかずっと不安だったという。

おそらく今作には、その生田斗真の葛藤からくる不安が、演技に出ているのだと思う。「大丈夫、リンコ。きれいよ、可愛いよ」と共演者に背中を押されながら演じきったというその繊細さが、映像に映る彼女に命を吹き込んでいて。

女性を演じなければならないという不安と、大丈夫、できているという自信と。その両方を体内であわせもつということは、リンコが抱える、女性でありながら男性であり、社会的にはそのどちらでもないという不安や自信とリンクしているのではないかと。

生田斗真の演じるそれはとにかく美しいし、圧倒的で。
リンコさんは本当に優しくて、トモは本当に良い子で、少しずつトモが心を開いていくそれが、とても良くて、涙もして。

でも、それでもトモはやっぱり本当の母親が忘れられないんですよ。もちろん、それは産んでくれた親だからで、仕方のないことなんだけど。

劇中で、トモはこんなことを言うんです。

「リンコさんはごはんつくってくれた、キャラ弁作ってくれた、髪も可愛く結んでくれた、編み物教えてくれた」

これがどんなシーンで何を伝えたくてトモが発したのかは、本編を見てみてください。とても良いシーンなので。

しかし、トモはこれだけリンコさんのことを慕っているのに、それでも、母親のことが忘れられない。それはそういうものなのかもしれないけど、でも、ふと思うわけです。

はて、母親とは、なんなのだろうか。

血が繋がっている、自分を出産した人が母だというのは間違い無いのだろうけど、では、それ以外は母親ではないのだろうか?でも、親を亡くした子を成人するまで育てた女性はきっと立派な「母親」なのだろうし、もちろん養子縁組という制度も存在する。だから、決して「出産した人」だけが母親ということもないし、そもそも、代理母出産というものもあるので、出産した人が母親とも限らない時代でもある。

結局のところ「何をすれば母親なのか」なんてものはきっと存在しないのだろうし、法律的には存在するだろうし、でもそれは「他人」が決めたもので。

そう考えると、そもそも「女性」とはなんなのだろうか。
おっぱいがあってちんちんがなくて妊娠できる人?いや、しかし不妊な人だっているし、子が産めなきゃ女性じゃないなんてことはない。
そもそもこれらはすべて肉体的なものであって必ずしも心とは一致しないし、その肉体だって同じ女性でも十人十色、千差万別であって本来一概に言えるものじゃないはず。

結局、女であることも男であることも、自分じゃない誰かが決めたものでしかないわけで。その枠に入ってるか、入っていないか、でしかない。
身体は男性だけど心は女性である人を、社会はいまのところ男性として扱うのがほとんどなのだけど、それとて誰かが勝手に決めた枠でしかない。

誤解のないように言っておくと、その「誰かが決めた枠」がダメだと言いたいわけじゃない。どうしたって必要なことで、そりゃ昨日まで男性を名乗っていた人が、突然「今日から私は女性なので、サウナや銭湯では女湯に入ります」と言われても困る。本当だったとしても、嘘か本当かが見分けがつかないし、そうやって悪意を持って異性の身体を見ようとする輩だって出てくる。

だから、社会にはどうしても「これとは、こういう人だ」という定義や枠組みは必要なんだけども。

けれども、だからってそれのために生きてるわけでもなくて。
リンコさんは身体は元男性で心はずっと女性。身体はいわゆる「工事」は終えていて女性の身体なんだけど、戸籍はまだ男性で。
だから男性なのか女性なのかどっちつかずな部分はあるんだけど、それこそ、ただただ、既存の誰かが考えた「女性とはこうである」に当てはめてるだけのことで。どんな女性がいたって良いはずだし、本人が女性というなら女性なのだろうし。

そういう意味では、冒頭でリンコさんのことを「女性的」と書いたけど、本当はそれもおかしな話で。「仕草がキレイ」なんて書いたが、キレイじゃなければ女性じゃ無いんかいな、という。
これもまた、誰かが勝手に決めた「女性とはこうである」ということに僕が洗脳されているのだろうし、そして実はリンコさんもそうなのかもしれない。いや、そうじゃないのかもしれない。

リンコさんが自ら憧れてあの美しい所作を身につけたのか、実はそれは社会からの洗脳があってのことなのか、はたまたそうじゃないと生きていけなかったからなのかはわからない。けれども、まちがいなく自身でそうしたいと選んで、そうしたのだろうなと思うほどには、彼女はしっかりした芯のある人で。

いろんな女性がいていいし、いろんな男性がいていいし、いろんな母親がいてもいい。
リンコさんとマキオとトモと。3人を見ていて、そう思ったんですよ。どこからが女性で、どこからが男性で、何をしたら母親で、なんてそんなことどうでも良いじゃんって。

だから結局僕は、やっぱりこう思うんですよね。

「自分が何者かなんて、どうだって良いじゃん」

リンコさんはリンコさんであって、世間の誰かが決めた枠に押し込める必要はなくて。リンコさんが自身を女性だというなら女性だし、同時に僕が女性だと思ったのならそれもまた女性なんだろうし。

大事なことは、そういうみんなが、いていいはずだよね?
幸せになっていいはずだよね?と
みんなが思うことじゃ無いかなぁと思いました。

決して、差別反対!とか、そのための客体としてリンコさんがいるような映画だとは思ってなくて。

ただそこに、リンコさんとマキオとトモがいて、とっても素敵な人たちで。それを観られる、そんな映画です。

最後ちょっと、切ない気持ちになるけどね。

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この記事は、むめいWebディレクターが暇つぶしに観た映画について、忘れないように感想を残しておこう、どうせなら誰かに読まれるつもりで書いておくか、というものです。なので独断と偏見に満ちた、そんな駄文です。


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