『薔薇の香水』

 
 私には勉強しか残っていない。誰かと話す為の日本語も、汗水流すための運動も全て捨ててきた。いや、私が望まなかっただけなのかもしれない。
 
 自らが書いた日記を白石菫は目を通していた。
 自分の日記を読み直すのは少し気恥ずかしさを感じながらも、一年前に書いた自分の日記にはこれからの生き方を表しているようで、菫はたまに振り返ってしまう。


 自分には勉強しかない。


 そう思うと自室の本棚に並んでいる参考書は、重く誇らしく感じるものだ。
 今、菫が会話をする人といえば、母と父と妹がいる。他にも学校では菫の頭の良い事を頼りにクラスメイトが、たまに授業のわからないことを聞いてくるだけだ。
 今の菫が家族以外の関係をつないでいるのは学力だけだ。菫にとって勉強だけが人をつなげてくれるものだった。
 自室のドアが三回ほど叩かれた。菫は急いで広げた日記を閉じて机の引き出しの中にしまうと、荒ぶった心を少し落ち着いたところで声を上げた。


「どうぞ」


 自室のドアが開き、そこにいたのは長い黒髪が動きに合わせて綺麗に靡くのが特徴的な情勢がそこにいた。
 家庭教師の森田凛だ。彼女も菫が外部の関係をもつ唯一の人間だろう。

「こんにちは、調子はどう?」
「まぁまぁです」

 菫は彼女の柔らかい声を聞くととても明るい気持ちになり、普段は人と喋ることには億劫になるのだが、この時だけ人と喋ろうと思えてくる。
 家庭教師を雇ったのも、勉強ばかりしているのを心配して親が人と関わりを持たせる為だ。最初は塾に行かせると言われたが、菫が反対して折衷案として出てきたのが家庭教師だった。
 今やその家庭教師も菫の人生の楽しみとなっている。

「また、勉強をしていたのかな?」
「そんなところです」
「勉強するのもいいけど、たまには遊ばなきゃ。あなたのお母さんも心配しているよ」

 そんなことができるのなら、遊んでみたいと思うが友達がいない菫は空返事で答えた。見た目に反して、少しお茶目なところがある森田だが通っている大学は誰もが知っている様な某大学で、見た目どうりの賢さがある。そのギャップが菫の目には魅力的にも見えた。

「たまにはさ、彼氏とか作って遊んだ方がいいって」
「彼氏なんていらないです」
「どうして?」
「恋愛はよくわからないから」

 勉強ばかりやっていた菫にとって恋愛は二の次だった。それよりも、友達が欲しかった。かっこいい彼氏よりも、一緒にいて楽しい友達が欲しい。
 だからといって菫は恋愛に全く興味がない訳でもない。少女漫画や恋愛小説はよく読む方だが、恋愛している主人公よりも友達と仲良くしている主人公の方が羨ましく思ってしまう。
 菫が何もない机の一点を見つめていると、森田は優しく柔らかい声で言った。

「まだ好きな人を見つけれてないのね」
「好きってなんでしょう」

 菫の声は人をつけ離すように鋭さを持っていた。そんな菫を包む様な声で森田は答えた。

「この人と一緒にいたいという気持ちが強い人が好きな人だと思うよ」 
「そうなんですか」

 柔らかい声に反応して菫は顔を上げて森田の顔を見た。

「菫さんは考えすぎ。もう少し肩の力を抜いて。頑張るのは勉強だけでいいの」

 優しく柔らかい声は菫の冷たい心をじんわりと温めた。重く冷たい心は雪解けの様に温かく空気の様に軽かった。
 菫は今まで読んだ漫画や小説を思い返してみた。確かに恋する少女たちは何か難しいことを考えていたのだろうか。難しい事を考えていたのは自分ではないのかと。
 私はもっと素直に恋していいのだろうか。
 熱い想いを抱えた菫は目の前の家庭教師を見つめていた。
 
 男は物にしか見えない。教室にいる男子もまるで自動で動くロボットの様にしか見えなかった。創作上の男はあんなに動いて見えるのに。
 
 ノートに書かれた問題の解説を聞きながら、菫は前に書いた日記の内容を思い出していた。特別に男だけに当てはまる訳ではないが、たまに他人が感情を持たないロボットに見えることがあった。
 同性を見た時はこの現象に当てはまることはそんなにないのだが、異性の男だけは菫の理解のできないところにあり、感情のないAIの様に見えてしまう。

 本当にアレは同じ人間なのだろうか。

 菫はそんなロボットに恋をしろなど無茶がすぎると、森田のわかりやすい数学の解説の合間に思い返すのだった。それと同時に二人っきりの空間が、菫の胸を高鳴らせる。
 森田への気持ちに菫が気がついたのは数回目ほど、家庭教師として顔を合わせた時だった。家庭教師を雇うことになったが菫の勉強に対しての優秀さもあってか、宿題をほとんど間違えることなく終わらせてくることが多かった。
 その為に家庭教師の時間が少し余ってしまう事があり、余った時間は雑談に使われた。その雑談の時間が、菫にとって高校生活の中で一番楽しさを感じる瞬間でもあった。
 理系の彼女は難しい問題もスラスラと答えている姿はカッコ良く頼もしく見えた。しかし、雑談をしている姿はとてもお茶目で可愛らしいところがある。
 それが、菫が彼女の気に入っているところだ。
 今日もすぐに宿題の問題の解説は終わり、いつもの雑談の時間へ。

「ほんとに菫さんって優秀すぎて、私が教えることもなさそう」
「そんなことないです」
「そう?私が菫さんと同じような時期はそんなに優秀じゃなかったけどな」

 ファイルや参考書をカバンにしまう仕草を森田がする度に、ほのかな薔薇の匂いがすぐ隣に座る菫の方まで漂ってきた。
 匂いに誘われる様に森田の方を見ると、綺麗な長髪の黒髪が菫の目に写った。肩より長く伸びた綺麗な長髪は菫の憧れでもある。真似をして伸ばしているも、あそこまでサラサラで綺麗に伸びることがなく、嫌気がさして結局は後ろで束ねてしまう。
 綺麗な黒髪に見惚れていると森田は暖かい声で菫に話しかけた。

「菫さんの手、とても可愛いらしい」
「そうですか?」
「ええ、小さくて可愛らしい手をしてる」

 菫にとっては森田の手の方が、細長く綺麗な手をしていて羨ましく思う。そう、スラッとして、細長くて、白くしなやかでとても綺麗。
 吸いよされるようにその手に触りたい欲望に駆られるのを、菫は自分の欲望を理性で抑え込んだ。

「どうしたの?」
「いえ」
「そう、何か聞きたいことがあれば言っていいのよ」

 もっと貴方に触れたい。知りたい。
 そう答えたらどんな反応をしてくれるのだろうかと、菫は好奇心に駆られてしまう。

「いえ、大丈夫です」
「そういえば……」

 続きの話に菫がしっかりと答えることができたかは、本人にもわからない。それは菫が別のことばかり考えていたからだ。
 菫が思い出していたことは、少女漫画や恋愛漫画で知った愛を確かめる行為だ。それが何の意味を示すのかは今の自分にも理解できないが、好きという感情を向けている彼女にはしてみたいという欲求が何故か止まらなかった。
 これも彼女なりの好奇心だろう。
 空いた胸元から手を通して、その温かく柔らかい肌に触れたい。そしたら、自分の知らない彼女を知ることができるだろうか。知らない何かを確かめることができるのだろうか。
 この感情は本来、異性に向けるべきだろう。だが、いつしか自分の生存本能は壊れてしまったと菫は思うのだった。

「菫さんは好きな人とかいる?」
「え、どうして?」

 急な質問に菫は少し動揺した声で答えてしまう。

「菫さんほどの可愛い子なら、彼氏の一人はいそうなのだけど」
 しばらく考えた後に菫は答えた。
「いないですよ」
「いや、その顔はいるな。菫さんは恋している顔してる」

 菫の心にその言葉は深く突き刺さった。今抱えている爆弾をここでぶちまけたかったが、壊れてしまう恐怖が勝った。
 伝えたいこと伝えられない辛さを菫は知った。伝えてしまうと壊れそう。だけど、菫の中で溢れる彼女に触れたいという思いは、自らを壊してしまいそうな勢いで膨れ上がる。
 しかし、思いを吐き出してしまうと相手から、気持ち悪がられるのではないだろうか。彼女に嫌われた時の自分が傷つくのも怖く菫は俯いてしまう。
 その時だった。

「どうしたの?どこか調子悪い?」

 彼女に言われるまで菫は気づかなった。自分が今、顔色が悪くなっていることに。
 次に彼女は菫の頬を両手で挟んだ。
 突然の出来事に菫の口から小さな悲鳴が漏れた。
 菫の頬には今、しっとりとした細長く綺麗な手が触れている。手からは鉄のように冷たい訳ではなく、人肌の温もりを感じることができた。
 首から胸元まで露出している肌が菫の目に写った。肌も白く綺麗でとても綺麗な肌だ。少し下に視線をやると、同じ女とは思えないほど大きく柔らかいものがそこにあった。
 大きく胸が鳴った。菫は白い肌に触れて温もりを感じたい。熱い胸から思いが溢れた。
 綺麗で整った顔が近い。柔らかそうな唇に吸い込まれそうになる。目の前の瞳が全てを受け止めてくれそうで優しかった。そして、薔薇の匂いが近い。
 もし、自分が男なら彼女を押し倒していただろうと菫は欲望を抑えた。

「うん、熱はなさそうね」 

 彼女は離れてく、薔薇の匂いも、綺麗な顔も、暖かい手も。
 物寂しげな顔をしている自分に気がついた菫は、すぐに顔を逸らした。
 あと何回、彼女と会えるだろうか。
 残りの学生生活を数えながら、再びノートに向かった。

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