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におい


今の家に引っ越してもうすぐ2ヶ月が経つ。このあたりの相場にしては少し高い家賃の、少し広めの部屋。大きめの窓から入る光は少し眩しいくらいで、とても住みやすい素敵な部屋だ。


そんな部屋で、ひとり

私は未だに彼の夢を見る。


今の家に自分が馴染んできてふと思ったのは、「においが違うなあ」ということだ。

今思えば、同棲していたとき「ただいま」とドアを開けた時に香っていたのは彼の匂いだった。同棲する前に遊びに行った時の、彼のおうちの匂い。

私たちは結局、混ざりあえていなかったのかな、と思う。


今の私の家には、当たり前だけど私だけの匂いが溢れている。柔軟剤、シャンプー、ルームフレグランス、洗剤、石鹸...私の好みのものを集めているから、それは当たり前なのだけど、そこには私しか感じない。

彼が使ってもおかしくない香りの柔軟剤。可愛すぎない香りのシャンプー、私の部屋にしか置いてなかったルームフレグランス。

“ふたりで住むため”の擦り合わせを、私は彼に合わせていた...というより、委ねていたのだと思う。私にとっては彼と住むことのほうが大切だったから、柔軟剤の香りだの家具の趣味だの食の趣味だのが彼寄りになってもなにも苦ではなかった。寧ろ楽しかったのだ。

彼が私に合わせることというのは、あまりなかった。それは私が主張をしなかったからだ。最初から私が私を主張していたら、きっと「そういうもの」として彼も受け入れていたはずだ。

ふたりで住んでいても、あの家は「彼の家」だった。私の匂いはその中の「私の部屋」にしかなかった。


あの後、彼から連絡があった。

あの家から引っ越したこと、私にとても感謝しているということ、私と過ごした日々が宝になったということ、今は仕事を頑張りたかったから突き放したのだ、ということ。

LINEの画面に並ぶ言葉たちは、前を向きはじめた私にがんと突き刺さった。


なんの感謝の言葉もなく、連絡もなく、こんなふうに呆気なく終わったのだからこのまま忘れようと思えていたところに、この言葉だ。「今は」ってなんだ。なんなんだ。仄かに未練を感じさせるような言葉たちに間違えた返信をしてしまいそうになったけれど、ぐっと気を持ち直して、「わざわざありがとう。頑張ってね」とだけ返した。彼が自分が楽にするための連絡なら、そこに私への想いはないから。


私たちの別れは、なるべくしてなったものだ。私が、私を幸せにするんだ。

整理はついていて、ついているけど、あの連絡があってから私は彼の夢を見てしまう。はっと目覚める朝、違う部屋の天井、寝起きのベッドの上でだけ、すこし胸がきゅっとする。この夢を見なくなったら、私はきっとちゃんと思い出の蓋を閉められたのだと思う。


一人暮らしを初めてからびゅんびゅんと新しく、強い風が吹いて、仕事が楽しくて仕方ない。新しい仕事が増え、新しい人との出会いが増え、何故か昔会った人との再会なんかもついてきて、とても生活が充実している。びっくりするくらい、「自由」を感じている。どこへでも行ける、なんでも出来る。そう感じる。

その風の中で、とても優しい人に出会った。連絡の頻度や行きたい場所など、私に合わせようとしてくれる人。すこし不器用で、女慣れしていなくて、でも、絶対に何があってもドアを閉めずに顔を見て話をして分かり合おうとしてくれる人。私が突き放しても、「それでも」と追ってきてくれる人。

この人と付き合ったら、大切にしてくれるだろうな、幸せになれるだろうな、と思う人。



まるで、彼と付き合っていたときの自分を見ているみたいで、苦しい。


一生分人を愛した、なんて烏滸がましくて言えないけど、でも、似た感覚がこころの中にずしりとあるのだ。愛していた。でも、だめだった。

私は、もう、誰かを幸せにできる自信がなくなってしまった。誰かに手放しで愛されることが申し訳なくて仕方なくて、逃げたくなってしまう。

どうしてなのか、上手く生きられない。


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