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「祈願成就」第10話(全10話)

 なぜ、こんな話になっている? 思い出せ。こんな話をしたかったわけじゃない。

 はっ、はっ、はっ、と足元を荒い息が通り過ぎ、数歩後からアスファルトを擦るスニーカーの音が追いかける。犬の散歩をする人が通り過ぎたらしい。

 迷いかけた道から知っている道へたどり着いた気分になった。なんだかわからないが、言うべきことを言わなければ引きずられる気がした。

「僕はね、本当は姉が生きている間にみんなに謝ってほしかったんですよ。みんなにしてみれば悪意はなかったかもしれないし、過去のことかもしれない。でも姉は小学生時代から抜け出せずにここまで来たんです。進学しても就職しても人と交われない。交わってはいけないと刷り込まれてた。みんなが謝ってくれたら、少しは変わったかもしれません。だけど、もう遅い。だから、せめて今からでも悔いてくれるならと思ったんです。それで、唯一姉を苦しめず、呪いにも加担しなかった実希子ちゃんに真実を記したノートを託したんです。徹くんと付き合っていると聞いていたし、みんなに反省をうながしてくれるんじゃないかと期待して」

 日が暮れてくる。圭吾の目は光が多すぎれば白一色になるし、光が少なすぎれば黒一色に染まる。目の前の赤い服だけがどうにかこの空間に一人ではないことを感じさせてくれた。その赤に向かって語り続ける。

「みんななにを勘違いしているのか知りませんが、呪いどころかおまじないだって姉にはできませんよ。幼いながらに弟の目がよくなるようにと願っていただけの普通の人間です。少女らしくおまじないにすがるしかなかった普通の人間です。ドワーフとかいう男のことだって姉の創作でしょう。みなさんはまんまと姉に乗せられたんですよ」

「ドワーフはやっぱりいないのね? 私だけが覚えていないのかと……」

「ええ、いませんよ。覚えていないんじゃなくて、実希子ちゃんは本当に見たことがないんですよ。いない人が見えるはずがない。ほら、いつだったか、絵里ちゃんがうちの親に知らせてくれたことがあったでしょう。姉がホームレスの男になにかされているかもしれないって。あのとき大人たちは調べたんですよ。でもそんな人物はいなかった。たしかに防空壕跡はあったけど、生活の跡はなかった。当然です。中に入れないように鉄製の柵がはめ込んであったんですから。ドワーフがいるなんて言っていたのはあなた方だけです。子供のころの空想世界を実際の思い出と勘違いしているんでしょう。ただの記憶違いです。珍しいことじゃないと思いますが?」

「……ほんとう?」

 か細い声だった。もしかしたら泣いているのかもしれない。

「どうしました? なにか、あったんですか?」

 なぜそのことに思い至らなかったのだろう。なにか心細くなるようなことがあったのだ。ありもしない呪いが叶ってしまったと信じるくらいのなにかが。

「……たいか」
「たいか?」
「えっと、支払いっていうか、代償っていうか」
「ああ、対価」
「うん。ノートに書いてあったでしょ、『対価』って」
「うーん。どうだろう? よく覚えてないですね」

 書いてないとは言い切れないが、記憶に残っていないということは、特に意味のある部分ではなかったのだろう。

「それがどうかしました?」
「最後に書かれていたのがそれだったの」

 そうだっただろうか。だとしても、それがなんだというのだろう。

「圭吾くんは等価交換ってわかる?」

 なにを言いたのかわからないが、話の流れとして経済的な意味合いではないだろう。それ以外となると、特に思いつかない。

「いえ、ちょっとわからないですね」
「人魚姫って話があるでしょ?」
「アンデルセンの」
「そう。あのお話では、人魚姫が海の魔女に頼んで人間にしてもらうの」
「ええ、そうですね」
「その代わりに声を失う」
「ああ、なるほど。まあ、それが等価かどうかは怪しいものですが」
「うん。でも、なにかを得るためにはなにかを差し出すって魔女との取引の原則だと思うのね。あ、郁美ちゃんを魔女って言っているわけじゃなくて」
「大丈夫です。言いたいことはわかります。願いが叶ったら代償を払わなければならないって……あ。もしかして、絵里ちゃんの怪我はお父さんが失踪したことの代償だと? そんな、まさか」

 まさか、とは言ったものの、笑い飛ばす意味で出てきた言葉ではなかった。信じたくない、あるわけないと言ってくれ、という意味の『まさか』だった。

 対価。代償。その考えは腑に落ちた。

「絵里ちゃんね、ここの階段から落ちる時に黒い子猫を見たと言ったの。雑木林から出てきたって。落ちた後もずっと絵里ちゃんのことを見下ろしていたって」
「それって……」
「うん。あの時の猫だって言うの」
「まさか」

 それこそまさかだ。いったい何年前の話だというのだ。そんな長寿な猫がいるなんて聞いたことがない。しかも子猫のままだなんて。いや、それ以前に、呪具として使われたんじゃないのか。みんなで切り裂いて――

「絵里ちゃんは猫の名前も覚えていた。〈影〉って」
「影……」
「それを聞いて――」

 雑木林がごうと鳴った。
 実希子が小さく悲鳴を上げる。
 突風が吹き抜けただけだった。

「……びっくりした」
「ですね。僕も思わず息を止めてしまいました」

 二人でくすくす笑い合うと、少しだけ緊張がほぐれた。

 ほぐれて気づく。緊張していたのだ。ただ、立ち話をしているだけなのに。
 白杖を握る手が汗ばんでいた。階段の上で白杖を取り落としては大変だ。圭吾は一旦左手に持ち替えて、右手の汗を服で拭った。

「でもやっぱりそれは関係ないですよ。だって、ほかの二人は……」

 いや、待てよ。健二は願いが叶ったばかりだ。あの事故を叶ったとするならばだが。すると対価の支払いはまだ先なのかもしれない。だが、徹はどうだ? 願いとは大きな誤差があるとはいえ、すでに叶っているのではないか。とすると。

「……徹くんになにかあったんですか?」

 返事の代わりにすすり泣きが聞こえてきた。

「あったんですね?」

 震える声で実希子が話し出す。

「徹がうちに来た時、私、居眠りをしちゃって。目が覚めたら、徹がノートを読んでいたの。返すために読まなきゃって思っていたから、目につくところに置いてあったのよ。徹に『これなに?』って聞かれたから、郁美ちゃんのノートを圭吾くんから渡されたって正直に答えたの。で、『読んだ?』って言うから、『まだ』って。そしたら、絶対読むな、って言っていきなりコンロで燃やそうとするの。『危ないからやめて。読まないから』って言っても聞いてくれなくて。そしたら急になにかを避けるようにのけぞって、そのまま倒れて……今も意識が戻らない」

「頭をぶつけたんですか?」

「ううん。違うと思う。崩れるように倒れたから。脳梗塞か、くも膜下出血を疑って検査をしたんだけど、特にそれらしいものは見当たらないって」

「徹くんのそばにいなくていいんですか?」

「ICUは身内以外は面会できないから……」

「実希子ちゃんは、それが代償だと思っている?」

「うん。たぶん。あの時、徹が避けるような動作をしたのは、影が横切ったんじゃないかと思うの」

「影……。絵里ちゃんが見たような?」

「絵里ちゃんが見たのは、影って名前の猫だけど」

 実希子が当時の猫が現れたと信じていることに胸が冷えた。実希子だって知っているはずだ。〈影〉がどうなったのかを。

 辺りは夜に包まれている。街灯の明かりは頼りなく、圭吾にはあってもなくても変わらない。実希子の赤い服も今や闇に溶けている。よく知る道とはいえ、夜道は平衡感覚も失われて歩きにくい。小さくも光量の強い懐中電灯を照らして地面の位置を確認しながらでなければ一歩たりとも進めない。
 視力を失えば、ほかの機能が突出すると思われがちだが、それにだって個人差はある。圭吾はもともとすべてにおいて器用な方ではない。今の視力になって短くはないが、いまだに順応しきれずにいる。

 早く帰らなければ。無事に帰れなくなる。

「実希子ちゃん、その話はまた今度にしませんか? とりあえず、約束通り、ノートは返してもらいますよ」

 すぐに差し出した手にノートが乗せられる。初めから手に持っていたのかもしれない。

「私もね」

 しかし、実希子は再び話始める。

「いや、こんなところまで呼び出して悪かったけど、今日はもう帰りませんか?」
「見るのよ」
「実希子ちゃん、」
「影を、見るの」
「気のせいでしょう。だって、ほら、実希子ちゃんはあのおまじないだか呪いだかに関わっていないんだから」
「したの」
「え?」
「願いごと、したの」
「でも、だって」
「みんなが帰った後、やっぱり私だけ願いごとが叶わないなんて悔しいと思って、秘密基地に戻ったの」
「うそだろ? だって、姉ちゃんのノートにはそんなこと」
「誰もいなかった。郁美ちゃんも帰った後だったの。ぽつんと黒い塊が地面に転がっていて。猫っていうより、人の手みたいに見えたけど」
「……」
「そこで、願ったの。『修くんと結婚できますように』って」
「だとしても、姉ちゃんがいないなら小刀もないだろ? どうやって」
「私もたぶん興奮っていうか、緊張していて、みんながする様子を見ていたはずなのに、そういう手順とかよくわからなくて、ただ手を合わせて祈ってきたの」
「それならば成立しないんじゃないか?」
「わからない。ただ――ああ、そう。聞こえたの。男の人の低い声で『願いは聞き入れた』って。あれがドワーフだったのかしら……」
「しっかりしろよ。あるわけないだろ、そんなこと」

 いつの間にか砕けた口調になっていた。あるわけないと言いながら、頭の片隅では別のことを考えていた。

 そうだ。対象者を示すものなら小刀を使って埋め込まれたじゃないか。徹が修の消しゴムを捧げたとノートにも書いてあったじゃないか。それは、立派な依り代。実希子の願いは届くということになるのではないか。――いや、だとしてもだ。

「でも、だから、私の願いは叶うから、影が対価を取り立てに」

「実希子ちゃんが結婚するのは徹くんだろ。修くんじゃない。もう修くんはいないんだ。もしも――ありえないけど――もしも願いが聞き入れられたとしても、叶うはずがないんだ。叶わないものは対価も代償も払う必要なんかない」

 風がごうと吹く。暗闇で木々が激しく葉を揺らす。豪雨のような音。
 あのまじないは効果などない。なぜなら郁美は願ったからだ。圭吾の目の回復を。なのにあれ以降、圭吾の目はよくなるどころか悪化の一途をたどった。
 それでも、郁美の死まで対価だというのか? 願いが叶った代償だと? 違う。違う。違う! あれは別のことだ。……本当に?
 ノートの最後に書いてあったという言葉。

 ――対価。

 それはもしや、成功報酬を示すだけではないのではないか。

 呪詛返し、というものを聞いたことがある。郁美がなにかに失敗したのであれば。相手の防御力が強かったとすれば。
 あの時の願いは叶わなかった。もしくはまだ叶っていないだけなのかもしれない。

 しかし、今になって当時のまじないに瑕疵があったと気づいたら。あるいは。対価が等価とは限らないと気づいたら。郁美なら無効にしようとするのではないか。どのように?
 まじないや呪いを伝授していたのはドワーフだった。ドワーフは存在したのだ。ただ、人としてではなく。だから見える人には見えても、見えない人には見えない。

 郁美はあのころの呪詛を断ち切るために、幼馴染みたちを守るためにドワーフに呪いをかけたのではないか。しかし、跳ね返された。

 ――すべて想像だ。根拠はない。

 だが、辻褄は合う。

 風が吹く。枯葉が舞い散り、頬をはたく。

 そういえば、先ほどから実希子の声がしない。

「実希子、ちゃん……?」

 風に交じってかすかに衣擦れの音。いることはいるらしい。

「やっぱり今日は帰ろう。できれば実家に帰った方がいいかもしれない」

 とにかく、ここはだめだ。あの場所に近すぎる。まじないを行った場所に。ドワーフの住処に。修の最期の場所に――

 ごうと風が吹く。冷たい、苔の匂いを含んだ風。それに織り合うようにして生温かい風が流れてくる。

「ねえ、実希子ちゃん。いるんでしょ?」

「圭吾くん。私……」

 ああ、よかった……。

 真っ直ぐに手を伸ばす。今の自分になにかができるとは思えなかったが、実希子を捕まえなくてはと思った。繋ぎ留めなくてはと思った。指先が布に触れた。闇の中だというのに赤い服が見えた気がした。

 ――実希子ちゃん、迎えに来たよ。

 徹の声がした。
 いや、違う。徹の意識は戻っていない。

 ――実希子ちゃん、待たせたね。

 違う。徹なら実希子を呼び捨てにする。
 この視力を補うものに順応していないとはいえ、かつてより詳細に記憶する癖は身についていたようだ。この声は、徹に似ているが、徹ではない。ならば。

「いや……」

 実希子が身じろぎをして、触れかけていた圭吾の手から離れる。

「実希子ちゃん、だめだ!」

 ――結婚しよう。

 強風に枯葉が降り、落ち葉が舞う。竜巻のように辺りの空気を捩じり上げ、葉や小石が圭吾の肌を傷つけていく。両腕を交差し、顔面を守る。風と葉の揺れが轟音となる。首元を切り裂かれ、カッと熱くなった。血が流れたかもしれない。その場に立っているのがやっとだった。動いてはいけない。階段から転げ落ちてしまう。

 風音の向こうからわんわんと犬の声がする。ああ、さっきの犬が散歩から帰ってきたのかもしれない、と思う。狂ったように犬が鳴く。つられてあちこちで犬が鳴き始める。遠吠えも聞こえる。

 やがて、風は静まり、犬の声も収まった。
 腕の防護を解いて、ゆっくりと顔を上げる。

 圭吾は――白杖を持っていなかった。

 雑木林からコオロギやスズムシの声が聞こえる。
 雑木林の前の道に、圭吾は一人で佇んでいる。
 月明かりに照らされて、千切れた赤い布が落ちているのが、見えた・・・
 拾い上げようと腰をかがめた瞬間、柔らかい風が吹き、布は空高く舞い上がった。月に雲がかかり、また晴れた。

 夜は明るかった。朝が来ればまた違う景色を見せてくれるだろう。

 圭吾は踵を返す。そして、音もなく夜道を歩いた。

(了)


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