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童話「猿ノ怪」

この小説は4,673文字です。

 山に入ってはいけない。
 里にすむものなら誰でも知っていることでした。とくに月のない晩には、たとえ山に近づかなくても、向こうからやってきます。ですから、そんな晩は、家の戸をかたく閉じておかなければならないのです。
 それは掟というよりも、わが身を守るための教えでした。
 もし守らなければ、山から化け物がやってきます。豊かな毛に覆われた化け物が。

 その化け物は、二本の足で立っている姿がよく見られます。背を丸め、両腕をだらりと垂らした格好で立っているのです。身の丈が人ほどもある、大きな猿のような姿をしています。
 しかし猿よりも豊かな毛に覆われており、わずかばかりの肌も目鼻も見えません。長く厚く重なり合った毛に埋もれ、その顔を見ることはかなわないのです。遠目には猿のようではありますが、はたして猿のように目鼻がついているとも限らないのではないかと噂されたりもします。

 ここでは化け物、化け物と呼んでおりますが、里人は『猿ノ怪』と呼んでおりました。猿であるのか妖であるのかさえ定かではないのですが、そうとしか呼びようがないのです。
 猿ノ怪は古くより山にすんでおり、いにしえには決まった呼び名もあったようです。それは『猩猩(しょうじょう)』だとか『狒狒(ひひ)』だとか『攫(かく)猿(えん)』だとかだったという人もありますが、いずれも大陸にすまう妖でありますから、おそらくちがうのでありましょう。
 かつて呼ばれたその名は、いまでは伝わっておりません。呼び名があったころでも、その名を大きな声で口にすることは禁じられておりました。名を呼んで、その声が化け物に届けば、里に招き入れることになるからです。そのため、里人はしだいに化け物の名を口にしなくなりました。そうしていまでは誰もその名を知ることはなくなったのでした。

 さて、そんな化け物ですが、ただ毛に覆われた姿がおそろしいというくらいで、里人を襲ったという話は聞きません。それならば恐れることもなさそうなものですが、〈うつる〉というのです。なにがうつるのかといいますと、これがまたはっきりとしません。
 聞くところによると、病のようなものであるのかもしれません。人が人でなくなるというのです。

 猿ノ怪が妖術を使い、人を化け物の姿にしてしまうと伝えられたころもありましたが、どうやらそれほどの力は持ち合わせていないようでした。猿ノ怪は、猿より大きく、猿より賢いというだけの、猿に似たナニカなのでした。ですから、妖などではなく、めずらしいだけの、そういう獣というだけなのかもしれません。

 あるいは、猿が山の瘴気(しょうき)におかされた姿ともいわれています。山は神聖なる場でありますから、人の及ばぬ力が満ちております。里人が知らない草木の露やどこからともなく漂う霧に、この世のものならぬ毒が紛れているやもしれません。それに触れ、吸い込むことで、あのような姿に変化するのはじゅうぶんに考えられることでした。
 その瘴気が人にもうつるというのです。

 長らく、それは話にきくだけのものでした。ときおり山では猿にしては野太い声が響くことはありましたが、猿ノ怪と思われる奇怪な姿が見られることはありませんでしたし、里では昔語りのひとつとして伝えられてきたにすぎませんでした。

 ところが、ここ何年かのうちに、里人がいなくなるという怪異が続いています。みな、山で行方知れずになっているのです。山は神聖な場であるといいましたが、奥山まで踏み入らなければ立ち入ることを禁じられているものでもありません。山の神に礼を尽くせば、山菜やら茸やらをいただくことも少なくありません。山と里はそのようにしてあり続けたのでした。

 それが、お上が変わってなにかと取り立てや取り締まりが厳しくなったころからでしょうか、山へ入った里人が帰らないことがままありました。人のすまわぬ山とはいえ、幾度となく足を踏み入れている場であります。幼子ならいざ知らず、大の大人が迷うはずもありません。

 はじめは、山にほど近いところにすむ婆(ばば)でした。いつものように籠を背負って山菜を取りにいった婆が、日が落ちても帰らぬと、近くのものたちが気づいたのです。
 たいそう腰の曲がった婆でしたから、沢にでも落ちて動けなくなったのではないかと、里の男たちが翌朝日の出とともに山に入り、探しにいきましたが、婆の姿どころか、籠さえも見当たりませんでした。沢の縁にも足を滑らせたようなあとは見られなかったといいます。婆は、こつぜんと消えてしまったのです。

 そうして、その晩、山から声が聞こえたのです。ほお、ほお、と梟のような猿のような、あるいは竹筒を吹き鳴らすかのような、深く、低い、それでいてやわらかな太い声が。

 里(さと)長(おさ)の爺(じじ)がいいました。
「ありゃあ、猿ノ怪にさらわれたにちがいねえ」と。
 年老いたものは「猿ノ怪は滅びたわけではなかったのか」と驚き、若いものは「猿ノ怪とはおとぎ話ではなかったのか」と怯えました。

 それからは同じようなことがしげしげしく起こりました。

 弥助がいなくなり、小五郎の女房がいなくなり、ある家では山へいったわけでもない爺婆がそろっていなくなりました。みな、持ち物が乱れ散るでもなく、血のあとがあるわけでもなく、いっさいの争ったあとなどは見られませんでした。ただ、ふつと消えてしまったのでした。

 里人は減り続けてもお上の取り立ては減ることはありませんでした。なんでも人の数ではなく、田畑の広さで納める分が決まっているそうなのです。田畑といっても、面倒をみる人のないところは荒れ果てていますから、納めるものなどありません。残された里人はただただ苦しい日々をどうにかやりすごすのでした。
 そのように人の里は苦しくなるばかりでありますのに、山では猿ノ怪どもがますます盛んに、ほお、ほお、と吠え立てておりました。

 来る日も来る日も里人がいなくなり、家のものがみな残っているのはいまや石松の家くらいでした。
 けれどもその石松の父が山へいくといいだしました。十になったばかりの石松は「いかないでおくれよ」と泣いてすがりましたが、父は「父ちゃんのいない間は石松が母ちゃんとヨネを守るのだぞ」というものですから、石松は涙を拭ってうなずくしかありませんでした。
 父は幼いころからの友である吉蔵を探しにいったのでした。けれども、父は友を探しに山へ入ったきり戻ってはきませんでした。
 吉蔵は、女房も子も山にとられて久しかったのですが、とうとう寂しさに耐えきれず、自ら山へ向かったのでした。里人たちは、そんなものは放っておけといったのですが、石松の父は「なあに。すぐに連れて帰るさ」とさも裏の畑にでもいくような気軽さで出ていったのでした。

 そうなることをはなから知っていたのか、夜のうちに石松の母もいなくなりました。自ら父のあとを追ったのか、石松と妹のヨネが眠っているうちに猿ノ怪がやってきて母をさらっていったのか、いまとなっては知る由もありません。

 このごろは毎晩、山からほお、ほお、と盛んに呼び声がします。そうなのです。あれは呼び声なのです。猿ノ怪が里人を山におびき寄せる声なのです。そのことを石松に教えてくれた若者もまた山に消えたのでした。
 山のとば口で、猿ノ怪が手招きしていたのを見たという人もおりました。それが里人の誰それに似ているなどといったものですから、山に消えた里人は猿ノ怪に変化したのではないかと噂されるようになりました。

 石松の友に、三吉というものがおりました。同じ年に生まれ、なにをするにも競い合い、助け合ってきた仲でありました。その三吉までもが山へいくといい出しました。
 三吉の二親はすでに山へ消えています。一度たりとも涙を見せず、気丈に振舞ってきた三吉でしたが、父母のことを忘れたことなどなかったはずです。そのせいでしょうか、黄昏時に見かけた二体の猿ノ怪が父と母に似ていたというのです。

 誰それに似ているという話は日を追うごとに増えていました。そんなはずはなかろうと石松は思います。なにしろ、猿ノ怪は肌どころか目鼻も見えないほどの毛に覆われているのです。誰かに似ているなど、どこを見て思うのでしょう。
 石松はそのように三吉に話しましたが、三吉は「あれは間違いなく父(とと)と母(かか)だった」といいはりました。そして、山へと入っていき、帰ってきませんでした。

 里には石松と妹のヨネだけになってしまいました。
 だれもいなくなった村にお上の取り立ては来なくなりましたが、納めるものがなくても二人の口をしのぐだけの食べ物もありません。ヨネはまだ五つです。腹が減ったと泣き、親が恋しいと泣きます。

 ある晩、ついにヨネは、闇夜に響く、ほお、ほお、という声に、「あれは父ちゃんかしら」「あれは母ちゃんかしら」と呟きながら床を出ていきました。石松は急いで追いかけましたが、ヨネは山猿のように両手をも地面につけて走るものですから、なかなか追いつけません。

 月の明るい晩でした。真っ黒な山から、ほお、ほお、といくつもの声が響いています。
 とうに作物などなくなった畑のあぜ道に、豊かな毛で覆われた二つの影が浮かびあがっておりました。
「父ちゃん! 母ちゃん!」
 背の低いほうの猿ノ怪が身をかがめ、両の手を広げました。その毛並みの真ん中に、ヨネは飛びこんでいきます。猿ノ怪の腕の中で、ヨネの頭と足だけが見えています。その小さな頭はみるみるうちに髪が増え、頭が一回りも大きくなったように見えました。やわらかな肌の足も毛で覆われていきます。
 背の高いほうの猿ノ怪が、石松に向かって手招きをします。
「父ちゃんだ」
 石松は思いました。肌も目鼻も毛に覆われて見えませんが、それでも父だと思いました。
 父に似た猿ノ怪が、ほお、と一声あげました。
 石松は走り寄り、その豊かな毛並みに飛びこみました。父のにおいがしました。
 頭の上から、ほお、ほお、と静かに語りかけてきます。

 石松は頬や腕に毛が生えてくるのを感じました。いやな心地はしませんでした。厚みのある毛に覆われていると、布団にもぐりこんだような安心感がありました。
「石松」
 名を呼ばれました。そこにいるのはたしかに父でした。母とヨネでした。
 山から聞こえるのは、ほお、という叫び声ではなく、かつて里にあふれていた里人の話し声でした。
 父も母もヨネも毛に覆われていましたが、しかと見分けがつきました。石松も猿ノ怪になったために見え方が変わったのでしょう。

 月明かりは人の姿で見るそれよりもはるかに明るく美しく見えました。月から降る光の粒がはらはらと舞い落ちる様まで見えました。真っ黒に見えた山はみずみずしいところでした。振り向けば、里は枯れた古木のようです。

 はるか高い枝が音を立てて揺れました。見あげると、毛に覆われた三吉が片手でぶら下がっておりました。
「早く来いよ」
「うん」
 石松は真っすぐ上に飛びあがります。枝をつかみ、身を引きあげ、また飛びます。三吉と先を競って枝を渡ります。

 山に入ってはいけない。
 里にすむものにはそう伝えられます。
 それは里人の掟というよりも、猿ノ怪がわが身を守るための願いでした。
 もし守らなければ、山から化け物がやってきます。豊かな毛に覆われた化け物が。里の暮らしに苦しむものたちを、山の暮らしに迎え入れるために。

 ほお、ほお、

 山に入ってはいけない。
 そこは、猿ノ怪の郷だから。